「自分には何もない」が救いになる日。
半年以上、タイトルだけ決まっていて書けなかった内容をようやく言語化することができた。
自分なんか大したことないと本気で思っている。
いや、厳密には自分なんか大した存在でなくてもいいと思っている。
自分のことを認めてあげられるかという尺度で言えば、今までなら、何者でもない自分を悔しく感じる夜が何度もあった。
自分が何者にもなれていないから、集団から置いていかれるし、周りの人に認められないし、友達が作れないし、自分の歩いた道のりが平凡なものだなと思う。
自分対社会の構図において、自分があまりに小さくて、寂しくて、孤独であることを認識させられる。
でも周りをよく見ると案外、誰もが同じような悩みを持っていたりする。
勝手に「いつも楽しそうでいいな」と思っていた人だって、全然楽しくない夜を過ごしたりする。
だいたいの場合、人間は自分のいい部分しか見せてくれないから、芝生が青く見える。
色んな人と会話をして、その青さが錯覚だったと理解していくうちに、やがて気付いた。
残念ながら、自分だけが特別孤独ではないということを。
やっぱり、「誰かに認められたい」みたいな気持ちはずっと持っていた。
特に、自分に近しいものを感じる人、自分が持たざるものを持っている人、自分のことを分かってくれそうな人。
この人と一緒にいたら自分の世界が広がるかもしれない人。
色んな人に好意の矢印を向けるのだが、ぶっちゃけ、それが両想いになることは期待ほど起こらなかった。
自分が大切だと思っている人が、自分のことを大切に思ってくれているとは限らない。
自分が心を開いたり、あれやこれやで気を引こうとしたりしても全然振り向いてくれない。
それが悲しかった。
周りに魅力的な人がたくさんいて、自分がそのようなコミュニティに身を置いていても、自分のことなんか見てくれない。
自分がまだ何者でもないから誰も注目してくれない。
「あの人と仲良くできるあの人」に嫉妬したりもした。
そのような息苦しさに押しつぶされそうになったとき、そのことを友人に相談したら、痛快に言葉でぶん殴ってくれた。
要約すると、「うぬぼれるな」ということだった。
誰かが自分に振り向いてくれると思うこと自体がおこがましい。
他人が自分のことに興味を持たないのが普通である。
悲しいけど、自分は何者でもないからだ。
そもそも、人がどう思うかなんて誰かが制御できることではない。
だからもう、人間関係を追いかけるのはやめた。
だけど、自分の居場所がどこなのか探し回るうちに、たくさんの人に出会えば、自分に興味を持ってくれる物好きが1人はいることに気付く。
自分に対して、近しいものを感じている人、持たざるものを持っていると思う人、分かってくれそうだと思う人。
何か特別なものを持っていなかったとしても、好意の矢印が自分に向く出会いがどこかにある。
それを大事にして生きる。
「何もない自分」を直視してことごとく絶望する夜があったとしても、その「何もない自分」を救ってくれる人。
その存在を無下にしない。
そこを居場所にすることで自分の世界を広げる。
そうしたら、好意の矢印を伝ってまた新たな誰かと繋がることもある。
自分が何者でもないと認めること、そして他人に対しておこがましく思う気持ちはある意味自分にとって救いとなった。
肩ひじ張らなくてよくなった。
「こうでなきゃいけない」「こうしないと人から好かれない」と自分にハードルを設定して、それを大幅に下回っていることに落ち込む夜もなくなった。
自分が他人にとって何かになれることを期待していないから、他人に対してフラストレーションも腹立たしさも覚えない。
ただここに自分が存在しているだけだ。
味のない、そんなガムにもある味わい。