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無力な状態から脱したい。

1年前の自分は、1年後の今の自分に何も残してくれなかったなと思います。

いや、正確には、その瞬間ごとの課題や享楽に向き合うことに全神経を集中させてきたので、未来の自分に対する行動は後回しになっていました。


未来の予測が下手くそ

人間の脳は「未来の自分」に対する予測がとても苦手らしいです。

目の前に、スーパーじゃ売ってないような高級なチョコレートを置かれたとします。

「今すぐチョコ1個貰うか、15分後にチョコを2個貰うか」だったら、15分待たずに1つ貰ってしまうかもしれません。僕はせっかちだったので。

では、1ヶ月後に同じ質問をされると考えてください。今の自分にとっては「1ヶ月後に1個貰うか、1ヶ月15分後に2個貰うか」という選択になります。

どうせ1ヶ月先の話なら、明らかに1ヶ月15分後に2個貰わざるを得ないと感じます。でも、1か月後に選択肢を提示されたらきっと、再び「今すぐチョコを1個貰う」を選ぶのだと思います。

「未来の自分」はいつだって、今よりも計画的に行動するし、理性が働くし、衝動をコントロールできるし、後始末が得意なはずだ。という自己欺瞞によって、「とにかく今は目の前にある最大の利益を享受する」と言って聞かない僕は、目先の獲物しか見ていませんでした。ここ5年間。いや、高校を出て10年間ぐらいは「未来の自分がいつかやる気になって解決してくれる」と思って、後先考えずに好き放題していました(金銭や生活やキャリアを犠牲にして)。

未来の自分にツケを回し続けて、「で、最終的にそれを払うのは誰?」ってなった時に、それを払っているのが今日の自分です。

衝動にハンドルを握らせる

自分を満たしてくれる何かを常に求めていました。でも満足は、享受した瞬間、もしくは達成した瞬間に消えていきました。一本満足バーは1時間に1本食べれば満足できると思います。では1年間に1本食べれば1年満足できるものなのかというと、1年間を1本では満足できないと思います。全然一本満足じゃないので、刹那消失バーです。とても欺瞞を感じます。

食べ物に例えると、そりゃ、食べ物だから消化して無くなるだろうって話ではあります。ただ、一本満足バーの過食に走れば満足するのかというと、それは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。多くても少なくても不満です。わがままですね。

以前の記事「いつ辞めてもいいように推し活する。」で書いたのですが、昨年まで5年間アイドルのオタクをしてきてこのような疑問が浮かんだのです。「(任意の何か)を埋め合わせるかのように多くのお金と時間と病的な行動力が必要になった理由は本当は何なのだろうか?

「行くか行かないかは行ってから考える」というのが座右の銘でした。それは「行ってから後悔した方がマシだ」ということを示唆していて、僕(僕ら)に強力なアクセルをもたらしました。得るものも大きくありました。だけど、ブレーキの踏み方を何も教えてくれませんでした。

心から満足していれば、毎月毎週のように県外に行ってライブを見に行っていた自分、そして「この現場こそは何が何でも絶対に行きたい!!!(と毎回思っている)」衝動をうまいこと制御できたはずです。だから、自分の衝動にハンドルを握らせ続けることは、その結果として持続的な満足を受け取るのではなく、むしろ不安や緊張や渇望を生み続けるのではないか?という仮説が立ちました。

だから「楽しみを減らして幸福を増やす」生き方ができるのか?ということを、これまでの人生の反動として検証しようと思いました。

これは、娯楽や気晴らしの存在を否定することではありません。バランスの問題だと思います。それまでの自分はあまりに極端だったので、もしかしたら大半の人はこのような仮説が必要ないレベルで人生のバランスを制御できていたのかもしれません(先述の記事にはあまり共感できないと言う人もいました)。今までの自分がいかに破滅に向かって力強く歩いていたかを、より深く確認しました。

自分を構成する要素

極端な話ですが、今の自分を構成する要素があったとして、「持ち物や環境を奪われたあと、最後に自分に残るものは何か?」ということを考えていました。

それは結局は、論理と体力だけだなと思いました。

不便を強いられたとき、いざという時に自分を守ってくれるものは何かと考えたときに、娯楽や気晴らしの積み重ねは味方してくれますか?と。

いや、分かってます。この考えがストイックすぎると。だって、それらもきっと必要なものなんです。それらを排除した結果、何度も推し(かわいい)の顔が脳内に浮かび続けています(嫌いになって離れたわけじゃないので)。

問題なのは、自分が「自分には気晴らしを繰り返すしか生き方がない」と思い込んでいたこと。実は、方法は他にもたくさんありました。

「○○なしでは生きていけない!」と思い込むことは、「○○なしでは生きていけないくらいに自らを弱体化させていく」ことでもあると気付きました。それは○○の本質的価値とは関係ありません(依存させてくる○○が悪!責任がある!というわけじゃないよねということ)。

僕の最終的な目標は、「自己研鑽(未来の自分のための活動)」と「遊び(無目的な営み)」を両立させることです。これまでのように、明確な目的を定めない遊び──それこそ推し活から得られることもたくさんありました。逆に、ここ2ヶ月くらいは、全然「遊び」要素のない生活をしているので、まだ両立にはほど遠いです──それはあまり自覚がなかったのですが、だいぶストレスなのだと思います。

今やることは、やたらと研ぎ澄まされた享楽に対するセンサーを休めて、いったんリセットすること。その次に、娯楽や遊びを増やす。衝動を暴走させずに少しの楽しみで満たされることを意識する……要するに「足るを知る」ことです。そうしたら、依存症的な毎日から抜け出して、もっと健康的な暮らしができると思うのです。

退屈を愛する

で、最近このように色々なことを考えるのですが、何でこんなに色々と考えるんだっけというのは、そういえばもともと自分はめちゃくちゃ物事を考える人間でした。最近は、そんなことよりも推しの顔面に興味を持っていたから、気付きませんでした(だってかわいいもん!!!!!!!!!!!!)。

あれこれ考えるということは、あれこれ考える時間的余裕が有り余っているということでもあります。僕の場合は(多忙な仕事をしていないという要素もありますが)娯楽や堕落に割く時間を減らして、とにかく「退屈を愛そう」と思ったのが始まりです。

退屈は、ただつまらないだけじゃないですよね。すごく怖いことでもあるかもしれない。退屈すると、人生の意味や目的という大きな問題に直面することになりますから。だけど退屈は、新しい発見や発明をする機会にもなります。新しい考えに必要なスペースを与えてくれるんです。それがないと私たちはずっと周囲の刺激に反応し続けなくてはならなくなる。自分自身が感じたことを、味わうことができなくなってしまいますよね。

ドーパミン中毒(新潮新書)

なりたい自分について、自分でも何がなんだか分からなくなっていたところに、「じゃあ本当の自分は何を求めているんだろう?」という問いの答えは、退屈の中で探しました。何もしない。10分の隙間があれば10分何もしない。音楽を聴かない。動画を見ない。SNSを見ない。その時間で自分が思い浮かべる思考を観察したのです。要するに、思考するためのスペースを空けたんです。

最初はとても苦痛でした。すぐにスマホを見たくなる自分に気付きました。トイレに行っても、レジに並んでいても、「今ここ」ではなく夢中にさせてくれる何かを探していました。そんなにも現実を見るのが嫌だったのか?って、客観視して笑ってしまいました。

だけどそのうち、刺激がなくても自分を飼い慣らすことができました。近視的に何かに集中する状態から脱却できました。メタ認知という言葉で表せますが、自分をより高い位置から観察したとき、目の前の現象を遠目で見たとき、コミュニティの常識を俯瞰で考えたときに、それまでの環境とは全然違う、より大きな世界の存在に気が付くことができました。

そしてこれまでの経験論だけで対処できる事柄は限られていて、自らの可能性はどうやら、常に自分の想像力の外側にあることが分かりました。これは「無知を知る」というやつです。そして、いかに自分が無力かを思い知りました。論理と体力しかない。だから、生まれた退屈の時間で本を読んだり、運動したりするようになりました。

人生のコントロール不可だと思っていた領域をコントロールしたい。惰性や衝動に好き勝手させないために論理を持っておく。動かせないと思っていた大きな岩が、実は方法を知ること、選択肢を増やすことで簡単に動かせるのだと分かったのです。

(これは例え話……高校の時に先生が「2weekのコンタクトを半年間一度も外さずにいたら、目が開かなくなったので眼科に行った」という話をしていました。彼女が学生の頃の話だそうです。このように、知るか知らないかの些細な違いで悲惨な結果が起きる可能性があります。ただ、被害が他者に及んだのでない限り、彼女がそれを知らなかったことを誰が責められるでしょうか?)

理想の自分に戦いを挑む

僕の今年のテーマは「楽しみを減らして幸福を増やす」です。

理想の自分について考える時間を得たことで、実際に理想の自分に振り向いて欲しくなりました。何が理想かについての詳しい話は今回割愛しますが、なんとか、着実に理想の自分になるための努力ができています(難しすぎない目標を設定して、自分に着実にハードルを超えさせることが必要です)。

毎晩日記を書いたり、自分しか見れないSNSのアカウントを作って独り言を投稿したりしているので、それを見返してみました。その中に、「オタ活休止宣言」から今日までの2ヶ月で、いちばんの気付きを得られたことがあるとすればこれです。

「"今"に執着する理由から離れられたら、人生は自ずと未来に向かって膨らんでいく。」

1年前の自分は、1年後の今の自分に何も残してくれなかったなと思います。

1年後の自分には、「1年前の自分ありがとう」と言わせたいので、色々と足掻いてみます。