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殺伐とした世の中で、オタクがオタクであるために。

「推しのオタク」という状態が成立するには「推し」と「オタク(自己)」の二者のみがいれば十分だということを常々思っていた。

しかしながら、SNS上のオタクという生き物はどうもそれ以外の外的な要素によって大きく消耗し、自己の存在を見失っているように見受けられる。

まず、彼らにとって(そして私にとっても)何らかのオタクを自称するという行為には、ファンコミュニティへ帰属することで社会的欲求・所属欲求を充足する目的と、他者との交流を通して情報を得るという目的があるのではないだろうか。

そのために「推し」と「オタク(自己)」の他に「他のオタク」という概念が登場し、自称としての「オタクというアイデンティティ」は他者からの承認に左右されることとなるのだ。

集団の中で認められ有益な情報を得る──この場合は親しい間柄にのみ発生する互助を含む──には「他のオタク」の気を引くような発言と、場の雰囲気やしきたりを乱さない立ち回りが必要となる。

この過程においては、コンテンツへの「消費」(イベントへの参加を含む)と「理解」の度合いをアピールすることが重要な要素だと考えている。

それは、コミュニティに対して高い意識を持つオタクは、コンテンツの「消費(参加)」に対して自負を持ち、「理解」を共通言語としてコミュニケーションを取るためで、その対義語としての「無関心」「無理解」に対しては厳しい目を向けがちだと思うからだ。

我々は往々にして、この他者と比較する尺度の中で翻弄され疲弊し、ストレスを溜め込んでいる。

そして私もこの仕組みに身を置くことになった一人であり、他者に対する自己のあり方を形作る中で、晴れることのない気持ちを同時に抱えていた。そして、ストレスを感じながらもなぜ集団の中に身を置きたがるのだろうかということについても考えていた。それが冒頭の「推しと自己の存在だけで十分ではないか?」という問いである。これらを言語化するのにはとても時間がかかった。


マウンティングは毒にも薬にもなる

オタクとしての価値──他者の目を引きやすい要素──というものがあるとしてそこに何かの尺度を設けるなら、先程話した「消費(参加)」「理解」の度合いも挙げられるし、「(運営に対する金銭的な)貢献度」「(ファン内で企画を先導するなどの)影響力」はたまた副次的な指標としての「ファン歴」「フォロワー数」など色々とあると思うが、それらは誰もが一朝一夕で身につけられるものではない。

コンテンツの「消費」から例を挙げると、コンサートチケットやグッズなどを入手する行為だけでも、「入手できた人」「入手できなかった人」「入手したくてもその時点でまだオタクでなかった人」などに自動的に分類されてしまう。

これらは物が希少であればあるほど他者の目を引きやすく、コンサートへの参加やグッズの入手は写真を撮るだけで容易に証明ができて映えやすい。そして、会場のキャパシティ、入手にランダム性のある販売方法、または個々の金銭的・時間的な資本の多寡によって互いは容赦なく分断される。

コンテンツの「理解」から例を挙げると、映像作品の場合「全てを見た上で博識とまで呼べる人」「全てを見たことがある人」「一部を見たことがある人」「まだ全然見たことがない人」などにやはり分類される。

そして、理解度の高い人の情報というのは理解度が相対的に低い人にとって需要がある。しかし、理解度のギャップが大きい場合、オタク間のコミュニケーションや仲間意識において障壁となるということもある。

このようなオタクを分類する指標の中で、それらが優れている者にとっては「知識の提供」「フォロワーの増加」「自負」「優越感」「縄張り意識」「自己の価値観をルール化することによる連帯感」、それらを持たざる者にとっては「憧れ」「探究心」「劣等感」「嫉妬心」「アウェイ感」が誘発される。

この構造には、コンテンツの制作側の意図に起因する部分と、受け手側の人間関係の中にある心理に起因する部分が存在する。

コミュニティの中において、このような可視・不可視にかかわらないあらゆる指標によって風潮やレッテル、カーストが形作られてしまい、皮肉にもそれらが相互の心理へ作用することによってコンテンツの消費が加速していく側面がある。また「マウンティングを取りたい欲求」も刺激される。これには指標で推し量られる中での防御的な意味合いも含まれる。

そのため、オタクの行動には良くも悪くも他者との比較によって動機付けされるものが多く、そのような動機付けを狙った仕組みの中で自分がオタクをしていることを自覚しなければ、どんどん深みにハマってしまうため、注意が必要となる。

また、コンテンツは消費するペースとは関係なく供給され続けるため、コミュニティにおける自己のポジションや影響を維持することに囚われていると、消費や理解に対して義務感を覚えてしまうことさえあり、そうなってしまえば本末転倒である。