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なんかもうそんなに多くのことを期待してない。

もしかしたら人によっては全然共感できないかもしれないので、
思想が強い文章だということは先に断っておきます。


生活していく上で、「これがこうだったらいいな」という願望はいくつか浮かぶけど、それはもう自分の手が届く範囲の中で叶えられたらいいなと思っている。

「他人がこうだったらいいのにな」という類の感情がもうあんまり湧かない。

昔から「人に嫉妬しないこと」については自分の長所だと(都合よく)認識している。

なんていうか確かに周りには自分が喉から手が出るほど欲しかったものを、2個持っている人、3個持っている人、もしくはそれ以上持っている人なんてのはざらにいるが、例えばその特定の○○さんが自分の周りにいる/いないなんて偶然の話だし、その人がいなかったら別の誰かが天秤の片側に座るだけだし、だったらもうそこに誰が座っていようが何でもいい。

無関心は味方だ。

だって世の中別にAでもBでもどっちでもいいことが9割じゃないかな~。

よく誰かに馬鹿にされた悔しさをバネに「見返したい」というモチベーションで頑張ってる人がいるけど、それって結局その人に執着して振り回されてるだけだよなと感じてしまう。(それが分かっててその感情を使いこなしている人は別としてね)

なんかそんな思考を繰り返している間に成人になっていた。

結局自分の人生で大事なことってなんだっけという話になると、それは今日の飯とか、今月の家計とか、今年の車検とかであって。

なんかもうどうでもいいよ混沌インターネッツの大半、というマインドで早数年、令和5年、ハロプロ25周年。


TVニュースで流れる情報って大体は報道の必要があって報道がされているものだとは思うんだけど、実際問題自分の人生を左右する情報って何割なんだろう?

例えば歩行者天国で通り魔事件が起きて歩行者天国が中止されようとしてて、あの街に行くの怖いな、やめとこかなと感じるのは人間の当然の心理かもしれないけど、次の日にその道路を1日中歩いてたとして殺される確率って実際何パーセントなんだろうとか考えると、人間の認知バイアスっていい加減なものだなと思う。

そして電気を消した部屋では小さく光る液晶から順番に流れてくるセンセーショナルなできごとの前で、ともすればイエスorノーの回答席に座らされて白熱してしまうのだけど、寿司屋やらかしボーイの複雑な家庭環境に思いを馳せても得るものはなかったし、消費税がいつから10%になったかなんて全然思い出せない。

「私刑」と顔に書いてあるオトナ達がサークルモッシュで盛り上がってる中、あぶないからちかづかないでね!の看板を立てて見て見ぬふりをしている。いや、というか全く見てない。


干渉し合わないというのは淡泊に見えて優しさの一種だと思う。(それが本当に人の為を思っての優しさか?という論調はさておき)

僕達は分かり合えないことを分かり合わないといけない。

だからこそ、少しでも分かり合えることがあればそれは尊いなと思う。

その喜びを分かち合って生きていきたいんだよね(そうですか)。

かつてダウンタウンの松本さんが「互いの悪口10個言って、それでも一緒に飲んでくれる奴が本当の友達や」と言っていた。

いちいち価値観の相違で友達を嫌いになりたくない(俺の意見が絶対なんて言わない限りは)。

だから、どんな人の前でもフラットに☺←この顔をするようにしている。

逆を言えば当たり障りないことしか言いたくない。

いやそりゃタイムラインの各種のご意見に対して思うところはいくらでもあるけど!

それは身の回りの大事な人が分かっててくれれば十分だし。

だって「この人にはどう思われてるんだろう…もしかして嫌な気持ちにさせちゃってるのかな…」の扉が開くぐらいなら、

誰の前でもナイフを持ちたくなくて、そうすれば返り血を浴びずに済みそうだから。

それは信念の強さというよりは自分の精神衛生上の、キャパシティの問題。

やっぱりオレって淡泊なのかな??!??!?!(落ち着け)

そんな感じで、誰に嫌われたって構わない!!言いたいことは言うべき!!という境地にはまだ達せてない。

正解は押し付けちゃ不正解って好きなアイドルが歌ってたし、

私は誰かの「他人がこうだったらいいのにな」には干渉しないようにする。

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