アベンジャーズを観ての所感

2019/04/27 午前2時記す

 なんとなく鬱々とした気分だ。昨日まで軽い躁状態だった気がする。別段、うつ病というわけではない、と思う。双極性うんちゃらというわけでもない。うつ病ではなくても、鬱々とした気分の日はある。ファッションで鬱を気取る輩もいる。面倒だなあと思う。それはいったいなんなのだろう。ただただ構って欲しいだけなのか。そんな単純な話なのか。

 簡単な言葉でまとめてしまえば、承認欲求だろう。あんまり寝てないアピールも、飲み会で記憶を飛ばして吐いたことを自慢げに語ることも、僕が日記を書いたらこうやってアップしていることもそうなのかもしれない。なぜ、むしろそれが逆の効果を生むとわからないのか。不思議だ。承認欲求をひけらかせば、承認されづらい、ように思う。それに気がついていないのか。割とみんな、そんなに馬鹿ではないと思う。それが疎まれることがわかっていて、それでも病んでるツイートをしないと自分を保っていられないのか。いったいどういうことなのだろう。

 アベンジャーズを見た。可もなく不可もなく、といった映画だった。これまでに張った伏線の回収、全てのキャラクターの見せ場を作ること、次のマーベル作品につなげること、そういった大人の事情のようなものが完璧に調整されていた。特にトニースタークとキャプテン・アメリカについてはそうだ。ああすることがこれまでの総括、これからへとつなげることを考えた上でベストだろう。あの二人が主人公のだったのだ。そしてこれからのアベンジャーズを担うのはスパイダーマンとサムという若い世代だということを示しもした。要するに、世代継承の話である。その他はまあ盛り上げるための要素にすぎない。アガる場面が詰め込まれていた。霜降り明星の漫才のように。ただエモいだけ。それだけで終わってはダメだ。まずは構造を抜き取ること。それを菊地成孔に教わり、自分のものにしようとしている最中である。

 いまいち乗り切れなかった原因はいったい何なのだろうか。まずはキャプテンマーベルの扱いが雑なこと。パワーバランスをうまく調整するにはああするしかなかったのだろうけれど、つい先日『キャプテン・マーベル』を見た側からするとややスカされたように思ってしまう。タイムトラベルの設定も雑だった。結局、なぜあれでよかったのかわからない。一応説明のようなものがあるが、全く理にかなっていないように思われた。SFに詳しい友人にあれは筋が通っていたのか聞いてみようと思う。

 『ガーディアンズ・ギャラクシー』や『アントマン』のようにユーモアが散りばめられていたのはよかった。しかし、なぜキャプテンマーベルを笑わせないのか。あれではただの強いけれどツンケンとた女扱いである。『キャプテン。マーベル』のようにフューリーと冗談で笑っているダンヴァースが見たかった。まあしかし、キャプテンアメリカとトニー・スターク二人の物語で、残りは助演なのだと思えばわからなくはない。とりあえず観てすぐの感想はこんな感じだ。きちんと映画を見たら感想を書くこと、それも22歳の目標だ。