乳首をこすった

 この1週間、大量のエネルギーを放出しながら全身が崩壊していた俺は、noteの更新もままならずひたすら体力回復に全力を注いでいた。
 半透明のカプセルの中で数日間を過ごし、やっとこ人間のかたちを取り戻した俺はここ数日、ベトベトした深緑のゲル状物質だったのだ。口から出る言葉は「タスケテ……」だけだった。

 それというのも名古屋で「本社会議」があったのだ。これは簡単に言うと営業成績を会社に報告し、しかるのち、鬼みたいな顔をした鬼にペースト状になるまで金棒ですり潰され続ける2日間で、日頃てきとうにやっている営業マンにとって恐怖そのものの会議である。

 俺は「黒歴史ブログ」の回を投稿した翌日から名古屋に乗り込み、人間のかたちを失って東京に戻ってきた。ただいまnoteの皆さん。俺はいま自然に笑えているだろうか。

 ゲル化した同僚と俺、そして直属の鬼とともに鳥貴族で終電まで飲んでいたから、帰りは最終になった。

 最終の「のぞみ」の混雑ぶりにはいつも感服する。23時台に東京に戻って、明日も平日だぞ!? 一体俺たちはなんなんだ。新幹線の座席でパソコンを開いているサラリーマンがいる。働きすぎじゃないか。どこが「のぞみ」だ。この煌々と光る車内のどこに何の望みがあるんだ。

 新幹線の喫煙所に行くと、ベロベロに酔っ払ったサラリーマンが外国人と大盛り上がりしていた。片方がアイコスを持っていて、もう片方がアイコスのカートリッジを持っている。それで交互に渡し合いっこしている。なにしてるんだ。眺めているとベロベロのサラリーマンが話しかけてきた。

 「僕この人と全然知り合いじゃないんですよ」

 そうなんだ。知らないけど。お前は誰なんだよ。

 「日本酒6合飲んだんですよ」

 そうなんだ。

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 席に戻って目をつぶると、さっきの日本酒6合飲んだ奴の顔が浮かぶ。俺の走馬灯にあいつが出てきたら嫌だな。

 さりげなく乳首をシュッとこする。乳首をこすると俺はどこか懐かしい気持ちになりチルアウトすることができる。疲れたときはこれだ。名古屋駅のホームで買った「静岡茶」を口に含み、周りの乗客がこっちに注目してないことを確認する。シュッ。肩こりを気にして首筋に手を当てよう、と見せかけてシュッ。シュッ。落ち着いてきた。眠気が俺を包み込む。

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 最初に俺がこの機能に気づいたのは幼稚園のときだった。夜寝る前になんとなく胸のあたりを触っていると、指先が乳首に触れるたびに「ふるさとの景色」みたいな架空の情景が頭に浮かぶ。なんだこれは。

 シュワシュワシュワシュワ、と蝉の声がうっすらと響く新緑の雑木林。広葉樹の木々が太陽の光をさえぎり、夏の濃い影が地面に落ちる。ヒュっと吹く爽やかな風。こんな景色は実際には見たことがない。架空の心象風景、たぶん俺の脳に最初からインストールされてる「ふるさとの景色」なのだろう。

 意識して乳首を触ってみる。おお。妙な気分だ。一番近い感覚が「懐かしい」だった。5歳児にもそういう感情はあるんだな。懐かしいような悲しいような切ないような。そして「あの景色」。

 乳首から手を離す。現実の景色。寝室だ。
 乳首を触る。おお。「ふるさと」だ。
 乳首から手を離す。現実だ。
 乳首を触ると見せかけて、シュッ。触る! ……「ふるさと」だ。あぁ、「ふるさと」だなあ。

 アラジンみたいな感じだ。ああおもしろい。俺の体の新機能に大興奮して俺は乳首を触ったり離したりを繰り返していた。

 一部始終を見ていた母親に「なにしてんの?」と聞かれた。

 「なんか懐かしい気持ちがするんだよ」

 「懐かしい気持ちがする?」

 親父はニヤニヤしている。

 俺は気にせず目をつぶって「懐かしさ」を存分に楽しんだ。

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 真夜中の東海道沿線はほとんど真っ暗だ。暗闇を切り裂いて新幹線は進む。

 走る列車の窓から昔住んでいた街を見るのは楽しい。東海道新幹線に乗るとき、俺はどんなに眠くても「豊橋」だけはスルーしないようにしている。豊橋は俺が数年前に働いていた街だ。

 どこに出かけてもどういうわけか帰り道に必ず通りがかってしまうから、俺が密かに「モンハンの村」と呼んでいた柳生橋の「バロー(valor)」は今年も健在だった。
 大池の前の「アピタ」に向かう太い道路にも挨拶して、そのあとはまた真っ暗な東海道沿線に戻る。

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 夜勤に向かう通勤バスは夜9時55分に工場へ到着する。豊橋と田原をつなぐ三河港大橋からいつも、かすかな光を放つ田原市街地を見ていた。

 あの頃の仲間たちは今も元気だろうか。煌々と輝く無数の蛍光灯の光と、金属と蒸気と空気圧のやかましい音で充満した青空色の要塞の中で、あの日と同じように機械油と真っ赤な洗浄液に四苦八苦する仲間たちの姿が瞼の裏に浮かぶ。

 時速250kmで遠ざかりながら、俺は暗闇の向こうの旧友たちにエールを送った。

 みんな頑張ってる。俺も帰ったらまた頑張ろう。そこそこ。なるべく。多少は。

 最終の「のぞみ」は、人生の圧倒的な苦味と、ほんの少しの希望を乗せて東海道を進む。

 シュッ。俺は眠りに落ちた。東京まで目が覚めることはなかった。

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