ソフトボールと幼女と父

 アメリカの文学や映画を見ているとよく冒頭に「僕が子供の頃、父さんがいつもこんなことを言っていた」と、やたら含蓄のある言葉が紹介され、本編の内容に関係あるんだかないんだかわからないがとにかく結構いい言葉で、あぁ、言われてみれば人生ってそういうものだよなと思わせられる。

 うろ覚えで書くが、フィッツジェラルドは父親に「いいか、他人を批判したくなったときにはだな」「相手が自分のように恵まれてきたわけではないかもしれないと、ちょっと考えてみるのだ」と言われたらしい。

 ヴォネガットは子供の頃、よく晴れた夏の暑い日の昼間、太陽を浴びながら椅子に寝そべって冷たいレモネードを飲んでいるときに、同じくレモネードを飲んでいるアレックスおじさんにこう言われた。
 「これ以上のことって、他にあるかね?(これでだめなら、どうしろって?)」

 俺の親父もなんかそういうことを言ってなかったか? とよくよく思い出してみるのだが、そもそもうちの親父は「いいか、何々は何々なのだ」という喋り方をするタイプの親父じゃなかったから、一個もそういうセリフが頭に浮かんでこない。唯一、これを読んでくださっている皆さんが今後の人生で役立ててくれそうな親父のアドバイスを紹介するので参考にしてほしい。

 「足が攣ったときは、その場で無理やり立ち上がると治る」

 これは俺が本当に足が攣ったときに親父に言われた言葉で、実際には「無理やり立て!」と言われただけなのだが、「親父の名言」っぽくリライトした結果こういうことになった。本当に治るから試してみてください。

 「人生の中で壁にぶつかってしまうときは多々あるものだが、その場で無理やり立ち上がってみるとなんとかなる」
 というふうに解釈すると、親父もなにか意味のある言葉を発したことにならないだろうか。ならないか? なんとかなりませんか。
 冒頭「いいか、足が攣ったときにはだな」で初めたら『グレート・ギャッツビー』みたいになりませんか。憧れるんですけど。

 妙に忘れられない言葉、というのはあるものだ。

 そういうのがありまぁす!

 じゃあ無えんじゃねえか。「ありまぁす!」っていうのは「実際には無い」ときに言うんだよ。(cf. 小保方さんの会見)

 もう忘れてやれよ! いねえだろ未だに小保方さんネタにしてるやつ。


 大学生の頃、とても暇で、近所のソフトボールに混ぜてもらっていた時期があった。主なメンバーは還暦を過ぎた年寄りたちで、若いというだけでやたら歓迎される。「オタサーの姫」みたいな状態だった。

 それにしても「オタサーの姫」というのはすごいぞ。俺もそういうサークルにいたことがあるのだが、飲み会で「姫」が眠そうにしてるだけで周りに男が集まってきて「どうしたの?」「眠いの?」「眠くなっちゃったの?」とか口々に言いながらふんわりとしたセクハラが展開される。この世の地獄みたいな光景だ。小保方さんもきっとそんな……小保方さんのことはもう忘れてやれよ! もういいだろ! もうたくさんだ!!

 それで、小保方さんの話だけど……小保方さんのことはもういいだろ!

 誰なんださっきから執拗に小保方さんをいじろうとする奴とそれを止めたい奴は。整理してから書けよ。まったく。お前もそう思うだろピカチュー? 「ピカ、ピー!」

 お、なんだなんだ3人目の俺とピカチューが登場したぞ。頭おかしいのか?

 君のそぉ〜づぉ〜どぉりだよ。

 今度は本田翼じゃねえか。古いんだよ時事ネタが。

 で、ソフトボールは結構楽しかった。中学の頃は野球部にいたんだが、俺は補欠中の補欠みたいな存在で、練習といえばひたすら走らされるか球拾いしかさせてもらえなかった。俺は野球がしたくて入ったのに、野球部が野球をするのは試合の時だけなのだ。「勝つため」には退屈な練習も仕方ないが、そもそも「勝つ」ってそんな大事か? と思っていた方である。しかし、実際にソフトボールの試合に出てみると「勝ちたい」と思う。「もっと上手くなりたい」と思う。「もっと練習がしたい」と思う。

 だが、趣味で集まってやっているソフトボールで「練習」はほぼしない。集まったら試合して、試合が終わると帰る。なんてうまく行かないんだろう。俺は練習がしたいのに、今度は試合しかしないのだ。

 だから全国の野球部顧問に言っておきたいのだが、入ってきた新入部員になんにも考えずバカみたいに「よし、走れ!」とか言ってないでまず試合をさせてあげてください。試合に出れば自分のエラーで負けたり、自分のバッティングで勝利をつかみ取ったりするだろう。そしたら「もっと上手くなりたい」と自然に思うから。そのあとに練習をさせるべきだ。

 あるときの試合は白熱をきわめた。最終回が始まる時点で4−4。同点だ。

 7回表、こっちのチームは守備。俺はサードだった。サードは右バッターの強烈な打球が飛んでくるポジションでもあるし、草ソフトで有力な「バント」も走り込んで処理しなければならない体力を使うポジションだ。

 相手バッターがバントの構えをするたびにバッターの前へ走り込み、腰を沈めて待つ。ヒッティングの構えに切り替えるとダッシュで三塁まで戻り、ボールの行方に集中する。一瞬でも集中を切らすと打球が外野まで飛び長打になってしまう。俺の後ろ、レフトを守るのは還暦を超えた爺さんだ。あんまり走らせると死ぬかもしれないからその緊張もある。

 7回までサードを守り続けて、俺の下半身はとっくに限界を迎えていた。投球のたびにしっかり腰を落として構えないとゴロの処理をエラーする確率が上がる。もう筋肉は悲鳴を上げていた。だがこの時点で俺は漫画の主人公のような気分だった。「俺の体がどうなってもいい。この試合に勝ちたい」

 鋭い打球が俺の目の前に飛んでくる。頭を超えそうな弾丸ライナーだ。ジャンプすればギリギリ届くか? 反応よりも先に体が動く。下半身のすべての筋繊維がブチブチと切れかかりながら、太ももに溜めた力を解放する。全身全霊のジャンプ。肩を外す勢いでグローブを突き出す。視線を外すと手はもっと伸びる。もうボールは見ない。俺の肩よ、取れろ! このボールを取るために、俺は生まれてきたんだ。

 全力を賭けた大ジャンプが炸裂した。
 グローブの中には、大きなソフトボール。

 3アウト。7回の表が終わる。

 7回の裏。こちらのチームが点を入れれば勝ち、入れなければ引き分けか延長戦か。一応、草ソフトでもリーグがあって、この試合はリーグの「公式戦」だった。公式戦だとまず延長戦があるかどうか謎である。助っ人の俺は知らない。あと公式戦において「引き分け」がどういう扱いになるかもリーグによって違う。サッカーみたく「両者勝ち点1」のようになるのか、プロ野球みたいに勝ちにも負けにもカウントされないのか。引き分けだとどうなるんだろう。気になっていた。

 と、試合を見に来ていた相手チームのメンバーの子供で8歳ぐらいの幼女が「引き分けになるとどうなるの〜?」とパパに聞いた。
 ナイス質問。俺も気になる。延長戦で決着がつくまでやるのか、お互いに勝ち点が付くのか、ノーカウントか。どうなるんだ? するとパパはこう言った。

 「思い出になるだけや」

 幼女のパパはこともなげに放った一言だったが、「思い出になるだけ」というのは良い表現だ。

 要するに多分、延長戦にもならないし、記録としても別になんにもならないということなのだが、でも数字としてはなんにもならないけど、この場所でみんなでソフトボールをやった。それは少なくとも思い出にはなる。思い出になれば十分だ。

 俺がこれまでnoteの中で、過去について語りまくってるのは実は「思い出を大事にしよう」というメッセージが含まれている。思い出の中には悲しい話も楽しい話も辛い話も明るい話もあるが、今現在の自分を構成しているのはこれら全思い出で、どれひとつも捨てていいものなどない。だからこそ、今の自分を肯定できればドミノ倒しに過去の全部の俺を肯定できると思っている。どれがなくても、今の俺じゃないからだ。

 いつか思い出になるから、今つらいことがあっても信じて生きていける。なるべく多くのことは忘れないで覚えておきたい。どうせ死んだら向こうですることなんて、こっちでの思い出をお互いに語り合うだけなのだ。「スマホ見てたんで住んでた街の景色なんか記憶にないです」なんて言ったらがっかりされちゃうぜ? 歩きスマホはやめて景色を目に焼き付けよう。

 それでいうと小保方さんも……もういい!

 おしまい!!

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