募金する額を間違えた

 肉体労働をしばらくやってから塾講師と来て、今は営業マン。塾講師の頃なんか毎日パワハラの恐怖におののきながら朝が来るたびにキングエンジンばりの心臓の動悸に悩まされ、でも生徒が「勉強したい」って来るのがもうスーパー嬉しいのでそれだけが俺にとって救いだった。

 質問なんてされようもんならそんな嬉しいことはない。徹夜で解説を作った。中1の生徒が「ゲームのプログラミングで三角関数を使うらしいからイチから全部教えてくれ」と来たときには、おいおい、なんて、くぅ、お前さん、頼んだぞおい、未来の日本を。と思いながら、一次方程式から三角関数まで「俺の知る全て」を詰め込んだ冊子を作って渡した。後日「意味わからなかった」と言われた。ごめん……。

 余力を残して帰宅することなど社会に出てから一度も無かった。「やりがい搾取」とよく言われるが、学校の先生方も同じだろうけど、教壇に立つのはやりがいがありすぎてついつい全力を出してしまう。結局俺は「そのまま行くと辞めることになるだけだよ」と先輩の先生に予言された通り、「俺がぶっ壊れる」と「生徒が混乱する」の天秤で自分の身を選んだ。かっこつけて言ってるが単に中途半端な時期に退職したわけだ。今でもたまにあの選択が正しかったのか考えることがある。もう少し続ける余地は無かったのか。

 しかし! しかし、その俺が今はなんだ、この体たらくは。だらだらだらだら仕事しくさって。当時の生徒に示しがつかんぞ。ダサいぞ、端的に言うと今のお前は。

 と、あるとき俺の脳内の「官房長官」に当たる人物が突然言ってきた。は? うるせえな。俺の内閣の方針に従わない閣僚はただちに更迭だ。今からお前は「グローバル・サステナビリティ担当大臣」だ。

 「何する大臣です?」
 「知らねえ」

 だがたしかに、元官房長官の言うことももっともだ。最近の俺は余力たっぷりで家に帰ってくる。スマブラの実力が大いに上がったのもそのおかげだ。だがスマブラよりは仕事頑張ってる方があれだろきっと、モテるし。ちょっと頑張ってみるか。モテたいのもあるし。

 それでここしばらく、いつもの10%増ぐらいで仕事に取り組んでいたら、成果はからっぴし出ないしそういえば全然モテないが、不意にコインパーキングの釣り銭箱に「500円玉」が残ってるのを発見した。

 ご、500円じゃねえか! すげえ! 500円なんて大金を取り忘れるなんてとんでもねえ大物政治家か? 10円や100円じゃないぞ。500円だ。とんだお大尽がいたもんだぜ。

 ははん、これはあれか、お天道様も俺をよく見ていらっしゃって「最近頑張ってるしこれで牛丼でも食いな」ってか。へへっ、こりゃ嬉しい。そういうことならありがたくどうも。と500円玉へ手を伸ばす。

 待ちなさい!

 と、脳内の「高潔な俺」が俺の手を止めさせた。

 人のものを盗ってはいけません! 立派な泥棒ですよ。そのまま置いておきなさい。まったく、すぐに悪いことを考えるんだから。

 なんだと、うるせえな。「高潔な俺」だと? いい子ぶりやがって。そんなこと言ってると感度3000倍にするぞ。俺次第だからな言っとくけど。

 や、やめなさいこのスケベ!
 へへ、興奮してきたぜ。じゅるり。
 あ、ああ〜〜!!

 しかしどうしようかな。500円玉を前にしばし固まる。さっきまで高潔だったはずの「全身性感帯の俺」が息も絶え絶えに止めてくるが、う〜む。どうしよう。
 まあ要らねえっちゃ要らねえんだよな。お天道様も500円ごときで俺を揺さぶりやがって。5億円だったら迷わず持って帰るんだけどな。釣り銭箱にどうやって入れるのか気になるけど。猪瀬都知事にコツを教えてやりたかったよ。

 迷ってるのも馬鹿らしくなって、そのままにしておくことにした。500円損した気分だ。

 あれは6年ぐらい前だろうか、大学時代の先輩と新宿の駅前を歩いていた。バッティングセンターに行きたかったのだ。

 駅前では東日本大震災の募金活動をやっている人がいた。これはほとんど皆そうだと思うんだが、俺は募金先を探して送金したりしたことは無いんだが、募金活動をやってる人がいると募金箱にちょっと入れるぐらいの善意の持ち主だ。「善意無くはない」ぐらいだ。「善意検定」があったら8級ぐらいだろうか。気持ち的には「罪滅ぼし」に近い。

 ただそのときは横に先輩がいて、なんとなく善意を出す感じがちょっと恥ずかしいというか、なんか良い子ぶってるみたいな風に見られたらあれだし……みたいに思って、ここはスルーすることにしてしまった。気づかないふりをしたのだ。

 歩くルート的にはちょうど募金活動をやってる人の前を通る。俺は明後日の方を見ながら目の前を通り過ぎようとした。すると、こう声をかけられた。

 「小銭だけでもいいので……、お願いします」

 ぐお、しまった。と思った。言いにくい言葉を言わせてしまった。相手がどういう立場の人か知らないが、自分自身のためにやってる募金活動じゃないぞ。そんな人に「小銭だけでもいいので」なんて言わせてしまった。俺が。まずい。俺の脳内の閣議が紛糾する。

 総理、恐れながら申し上げます。「官房長官」がかしこまりながら言ってくる。

 お前ここで聞こえなかったふりして歩いていくような人間だったらなあ、お前なんかな、はっきり言ってクソだぞ。止まれよ。今すぐ。

 ありがとう官房長官。俺はピタッと足を止めて、財布を出した。『小銭だけでもいいので』……。いや本当に申し訳ない。小銭じゃないぞ俺は。1000円だ。財布からお札を出して、募金箱にスッと入れようとする。今度も罪滅ぼしだ。申し訳ないという気持ちを忘れるためだけの募金。言葉は喉に引っかかり、何も出なかった。

 入れる瞬間、手に持ったお札が5000円札なことに気づいた。え!? 5000円じゃねえか。もう半分近く募金箱に入っている。え、どうしよう。5000円だと!? 5000円か! 5000円!?

 5000円ははっきり言ってマジでやばい。いや決して無理な額じゃないんだが、ていうか限界まで募金するとすればもっと多くてもいいぐらいなんだが、ただ俺も文字通り「汗水垂らして」稼いだ5000円だ。具体的には500台の自動車部品をラインに流す光景が目に浮かぶ。ラインが遅れると脅すようにテンポが加速して工場内を流れる「エリーゼのために」が脳内にこだまする。5000円。大金だ。

 ただここで「おっと(笑)、へへ間違えた。こっちこっち(笑)」って1000円札出すのはダサいよな。え、どうしよ。官房長官どうしよう。「知らねえ」。くそ! お前なんかグローバル・サステナビリティ担当大臣にしてやる! むう、何が正解なんだ!

 結局ここでも「見てくれ」を気にしてしまう俺がいた。多ければ多いほどもちろん良いに決まってるんだが、なんかこういう場面で5000円とかひょいって出してしまうのは「ほうら、明るくなったろう」って100円札燃してた船成金みたいでいやらしく見えないか? 俺はそんな形で教科書に載りたくない。いや、良いんだけど。どうしよう。

 結局、何事も無かったかのようにそのまま5000円札を入れることにした。

 何事も無かったかのようにそのまま歌舞伎町へ向けて歩き出したのも束の間、相手の人がいたく感動してくれたらしく、わざわざ追いかけて来て「どちらからいらしたんですか?」と聞いてきた。

 たしかに俺も立派な身なりをしてるわけじゃない。新宿によくいる「金だけは無い」若者の代表みたいな見た目だ。夢とかはいくらでもあるんだよ。新宿にいる若者は。
 その俺が瞬時に色んな表情をしながら入れた5000円は、いやらしくなんて見えなかったみたいだ。俺は愛する故郷の評判を上げておこうと思って「埼玉から来ました」と答えた。

 「私も埼玉なんです!」
 福島で震災に見舞われて、集団で埼玉に避難して来ている人だった。一番大変な人じゃねえか。そのあとは「免許センターが変なところにあってすいません」的なわけのわからんトークをして、その場を後にした。

 直後に寄ったバッティングセンターでは、上記のような色々な思いが脳を支配して当然集中できず、5000円かあ、5000円なあ。と思いながらバットを振った。

 お金なんか大して重要じゃねえぜ! みたいなスタンスで生きてるはずの俺だが、今でも忘れてないぐらいだから小市民も甚だしい。俗物である。釣り銭箱の500円だっていつまで覚えていることだか。

 だがあれだろ、お天道様よ。善行はレバレッジがかかって俺に帰ってくると信じてるぜ。5500円の3倍ぐらい、だから6万円? ぐらいのキックバックを天にいる神様には期待している。風俗でキリ番みたいなの踏んで3000円安くなったことがあったが、あれ20回ぐらい頼むよ!

 募金する額を間違えた。いや、間違えてないな。きっとちょっとは役に立ったはずだ。俺もここでネタにさせてもらおう。一介の俗物のちっぽけな逡巡の記録だ。面白く書けたかは謎だが。

 今回は以上!

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