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鬼滅の全てを背負う時透無一郎②無一郎の“無”

こんにちは。鬼滅記事久々更新します。
アニメ鬼滅の刃 刀鍛冶編、めちゃくちゃ良いですね。
無一郎に対するエモーショナルでエモエモな感情が蘇ってしまいました…うっ…。

いつも重い記事になってしまうので(というか情緒が爆発して書けないので)今回は無一郎の名前について雑多なメモ的な軽いものにします。気楽にテキトーに読んでいってください。

アニメ以降のネタバレありますので原作最終話まで読んでいない人は今すぐ帰ってね。




1、名前について

鬼滅の刃はとにかく名前が格好良い。字面がめちゃくちゃ良くて思わずペンで書きたくなる。
その名前についてですが、数字に関連した名前が多いと感じます。
例えば数字の“1”だと「縁壱」「善逸」「無一郎(有一郎)」の3人です。善逸の「逸」は「いち」とも読みます。他にも1が隠されているキャラだと「禰豆子」(十二支の鼠は一番目)「伊之助」(いの一番という諺)もいます。かなり苦しいですが「義勇」も武士道の理念のまず一番目が“義”なので数字的には“1“かもしれないですね。ちなみに炭治郎は長男ですが「次郎」とも書けるので数字的には“2”だとぼくは思っています。

と、まぁ色々書きましたがストレートに「縁壱」「無一郎」の二人が“イチ”で関連付けられているので今回はこの二人のうち特に無一郎に注目したいなと思うわけです。無一郎は継国家の子孫ですし、双子ですし、深読みしないわけにはいかないだろうと。
はい。
さて、アニメが刀鍛冶編に突入したタイミングでNHKが「無限」をテーマにした番組を放送していたのをご存じでしょうか(NHKはまじで狙って放送していると思う)。「笑わない数学」「地球ドラマチック」で“ゼロ”と“無限”が取り扱われてました。ぼくには内容は理解出来ませんでしたが(数学という概念が個人的に無理)大変面白かったです。その内容も交えながら個人的な妄想考察をしていきたいと思います。(相変わらず前置きが長い)


2、無一郎の「零(ゼロ)」

刀鍛冶編では炭治郎がからくり人形の縁壱零式を見て夢に出てきた侍を思い出します。ここで無一郎の鴉の銀子が「あのこ(無一郎)は日の呼吸の剣士の子孫」と教えてくれ、炭治郎が「はじまりの呼吸の?」と問いかけます。
“はじまり”とはゼロからイチを作り出すことです。からくり人形の縁壱“零”式はまさに縁壱こそが“はじまり(ゼロ番目)”と同時に“イチを作り出した人物”であることを強調しており、無一郎の“無(ゼロ)”と“一(イチ)”に関連付けられていると感じます。

ゼロと無限は数学界では“神の領域”と言われているらしいです。なぜならどちらも“概念”でしかないから。
ゼロ、という無いものを証明することは不可能ですし、無限に存在するものを証明することも不可能だからです。また、数学はイスラム教と共に発展したと言われ、イスラム教の中心地だったバグダットは円を描くように街が設計されました。“0(マル、零)”は完全であり神を象徴する形とされています。縁壱の“縁”も“円”と読みが同じなので無(0)に掛けているんでしょうかね、、。何が言いたいかというと縁壱も無一郎も神の領域の人間として名前がつけられているんじゃないかということです。
、、こういうこと言い始めるとなんでもかんでも関連があるって言えてしまうような気がしないでもないですが、、、、、。

続けます。

あとですね、12巻の表紙が無一郎っていうのも意図的なんじゃないか?と思ってしまいますね。12という数字は日の呼吸の型の数と円環もそうですが、時計で言うと12であると同時にゼロでありはじまりです。なんか出来すぎじゃない???

(関係あるようなないようなメモ)そもそもゼロという概念はインドで生まれたそうです。といっても確証はないらしく、インド発祥という仮説、にとどまっているようです。
なぜインド発祥なのか、について一説によると
インドではヒンドゥー教や仏教が盛んで、そこには“空(クウ)”という概念がありました。“空”とは心が空っぽになった状態であり、瞑想によって到達する境地のことらしいです。この概念が数字のゼロ発明のきっかけだったのではないか?と。

無一郎が上弦の壱と対峙したとき、沸き上がる怖気を一瞬で押さえこむ場面がありました。この若さで無の境地を極めている無一郎…………………………………………………………………………………これについては別で書きますね、、、。

もうひとつ、空っぽについてですが、
無一郎は記憶喪失によって空っぽな状態であり、なんとなく“空(クウ)”の概念が当てはまりそうですがそれは違います。無一郎の刀鍛冶の鉄井戸さんが「お前さんがどれだけ手一杯か  どれだけ限り限りと余裕がないか  物を覚えていられんことの不安がどれだけか」と言っているように、空っぽであることはむしろ無から遠ざかります。
無の境地にたどり着くためには記憶を取り戻すこと、“無意識”を認識すること(無限夢列車編のような)、つまり確固たる自分を掴み取ることが出来なければ到達出来ないのだと思います。
たぶん誰かが既に解説していると思いますが鬼滅の刃には心理学用語が出てきますよね。
鉄井戸さんの“井戸”は心理学者フロイトの“イド”を現しています(例をあげると村上春樹の『ノルウェイの森』に登場する“井戸”はあまりにも有名)
イドとは無意識領域のことです。鉄穴森さんの“穴”もそういう意味だと思います。“無意識”の名を冠する刀鍛冶が打った刀を得たことは無一郎が確固たる自分を取り戻したことを視覚的(刀)に現していたんですね。



“無限”についても書きたかったのですが長くなるので今回は以上です。

無一郎は全てにおいて無限ですから…………うん………………………





読んでいただきありがとうございました。















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