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初めてのフェリー(9)若き女王の肖像

ルーブルのことを書いていて思い出したことがある。これは間違いなくガイドブックのせいだと思うのだが、ロンドンでナショナルポートレートギャラリーに、エリザベス女王の若き日の肖像があるというので、これだけは観ておきたいと考えた。別にエリザベス女王のファンというわけでもないし、むしろヘレン・ミレン(『クイーン』という映画でエリザベス女王を演じている)のほうが好きなくらいで、そのとき、どうしてそんな考えに取りつかれたのか全く不明なのだが、とにかく、それを観ないといけないような気がした。

そもそも、すぐ横にあって、どう考えてもそちらがメインの建物であるナショナルギャラリーに行くつもりが全くなかったなんて、今となっては訳が分からない。ナショナルポートレートギャラリーに行きたい、それもただ行ってエリザベス女王の肖像だけを観たいと思ったのだった。自分では自覚していなかったが、どうやら二十代のわたしは、かなり思い込みの強い人間であったようである。それにしても、ずいぶんおかしな思い込みに取りつかれたものだ。

ナショナルポートレートギャラリーは、トラファルガー広場に面した一角にあるので、最寄り駅の地下鉄チャリングクロス駅で降りて、地上に出れば、一目瞭然だろうと考えていた。

実際、トラファルガー広場はすぐにわかった。ところが、ナショナルポートレートギャラリーがみつからない。トラファルガー広場に面して建っている大きな美術館はすぐにわかったが、それはナショナルギャラリーであり、その横にポートレートギャラリーがあるはずなのだが、どこにもないのである。結局、道行く人に聞いて、ポートレートギャラリーが、実はナショナルギャラリーの「裏」にあることがわかったのだった。裏というのは、トラファルガー広場から見れば、ということである。

東洋の田舎者らしく、地図を広げてあたりをきょろきょろ見回しながら歩いていればすぐにわかったはずだが、わたしとしてはそんな恥ずかしい真似をするくらいなら、地獄に落ちたほうがましであった。いつもの散歩道をなにげなく歩いている風に、さりげなさを装いつつ、あっちへ行き、こっちへ行き、していたのだった。とはいえ、誰が見たって、ジーンズにTシャツ姿の東洋人がうろうろしていれば、そしてそれが観光名所のトラファルガー広場であってみれば、おのぼりさんなのは明らかだった。

ようやくのことで、ナショナルポートレートギャラリーに辿りついたわたし(と妹)は、目的の女王陛下が、地下1階に飾られていることを、すでにガイドブックで確認済みだったので、一目散に階段を駆け下りて行った。

エリザベス女王の肖像が展示されているのが、階段を降りて右の奥であることは、建物を入ったところにあった全館のフロアガイドで既に把握していたので、わたしは階段を降りて、小走りに右に曲がろうとした。ところが、そこには女性の警備員が立っていて、通せんぼをしたのである。わたしは訳が分からなかった。即座に理由を聞けるほどの英会話力は当時のわたしにはなかった(今もあやしいが、当時はまったく話せない、というレベルだった)し、相手が言うこともちんぷんかんぷんだから、わたしとしては、身振り手振りで、そちらのほうに行きたいのだ、と説明しようとした。女性警備員は、首を振り、両手でわたしを制止しようとする。ところが、一緒にいた妹は制止されないのである。それどころか、手招きして、率先して通してくれようとする。なんだ、誤解は解けたのか、と思って、わたしが後に続こうとすると、またしても制止されてしまった。

「もしかして、女王陛下を観られるのは女性だけなのか」とわたしは妹に言った。冗談ではなくて、本当にそういうことがあるのかと思ったのである。

妹はキツネにつままれたような顔をしてこちらをみている。いくらなんでも、そんなことがあるはずはない、と思いながらも、彼女もわたしが止められる理由を思いつけないのであった。

とにかく、目的の肖像画はすぐそこに存在しているはずなのに、行き着くことができない。訳が分からないまま、とりあえず妹は行けるわけだから、と妹がひとりで様子を見にいくことにした。女性の警備員さんは、相変わらずこちらを警戒しながら見張っている。

(なんてこった、ここまできたのに)とわたしは思いながら、でももう女王の肖像は女性しか見られないという思い込みにとらわれてしまって、それを聞く英語力など持ち合わせてないから、ただ黙っているしかなかった。そもそも妹は女王の肖像画になんて興味はなかったのだから、行かされるほうはいい迷惑だったかもしれなかった。

待つこと数分。笑顔で妹が戻ってきた。

わたしは悲壮な顔をしていたのではないかと思うのだが、実のところよく覚えていない。

妹は言った。「こっちは女子トイレなのよ。男子トイレは階段の反対側にあるの」

分かってみれば実にばからしい誤解だった。わたしは再び、身振り手振りで、女王陛下の肖像画を観に来ただけだと、必死に説明しなければならなかった。妹が一緒にいたので、単に英語ができない変な東洋人と思われて終わっただけだったが、わたしひとりだったらどうなっていたことやら。

ちなみに、エリザベス女王の肖像画は、National Portrait Galleryのウェブサイト( https://www.npg.org.uk/collections/search/person/mp01454/queen-elizabeth-ii )ですべて見ることができる。

どうして、こんなものをわざわざ観に行こうと思ったのか、まったく理解できない。当時日本で絶対見られなかったことは確かであるが。それにしたって、ナショナルギャラリーにも行かず、ポートレートギャラリーも、ここ以外はまったく観なかったのである。シェイクスピアの肖像画など、もっともっと重要なポートレートがいっぱいあったのに。


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