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ヘットナー石をさがす旅

趣味興味関心は広く浅く、日々ミツバチのように生きているわたし。
小さいころから地図が好きで、今でもチラホラと地図をめくる。
旅をするよりも、旅の前に地図を見たり、旅の途中で地図を見るのが好きかもしれないと思うほどだ。

さて、ふと見た地図に広告が載っていて「復刻版教科書 大正9年 帝国地図」というものがあったので買い求めてみる。大正9年、西暦1920年である。明治期の日清・日露戦争はこの国にも鉄道の発達をもたらした。鉄道の一つの目的は兵と物資の輸送にあったからだ。では、大正9年の鉄道とはどうなっていたのか?そんな興味を持ってちらほらと見ていた。

「日本アルプス 飛騨山脈.乗鞍火山脈 100万分の1 」というコマ(附図)がある。過去、登山ブームと呼ばれる時期が何度かあった、今現在(2023年)もある種の登山ブーム期なのだろう。この時代も、そうであったのかもしれない。上高地までの道は赤線で示された徳本峠(とくごうとうげ)経由で、現在の県道24号上高地公園線の元になった上高地までの道は記されていない(焼岳噴火による大正池生成・大正4年=この地図の前、旧釜トンネル開通・大正13年=この地図の後)。ちなみに赤の2重線は国道を示すと明示されているから、この時代の付近の国道は旧中山道・現国道19号線しかないことが分かる(上図右下)。

さて、ふと目につく文字がある

「 ローナトッヘ ∴ 」

!!!? ろーな とっへ???

いや違うな

「 石ーナトッヘ  ∴ 」だ もちろん戦前の刊行物だから右から左に読む。

ヘットナー石!

∴ の記号は昔も「史跡・名勝・天然記念物」を示すのだろう。赤線で示される徳本峠の分岐より先、大野川への分岐(今の梓川沿いの国道ではない)より手前。黒線が川を示すのがややこしい。
さて、問題はここからだ。ingressというゲームをプレイしていると、やたらと石碑に詳しくなる。その私が地元で、全く知らない、ある石の表示が大正9年の地図帳に載っているのだ、しかもこれは中学の教科書である。

このあたりで有名な、地図帳に載るような石、石碑、史跡、名勝と言えば、上高地や上高地を世に広めたウエストンのウエストン碑(昭和12年・1937)か、風穴(天然の冷蔵庫・明治期には蚕のふ化調整に使われていた)くらいなのだが、場所も違えば時代も違う。
ちなみにウエストンは明治29年・1896に『日本アルプスの登山と探検』という本で上高地を紹介し(もちろん徳本峠を経て入った)、この辺りから日本における最初の登山ブームがやってくる。山小屋も作られ始める。そんな中でこのようなコマ(附図)が中学の地図帳にも載っているのだろう。

さて、話をヘットナー石に戻そう。現代は良い時代だ。ググればいいのだw

ヘットナー石に関するwikiの記載(2023・6・23)

ふむふむ。なるほど。氷河の跡を示す擦痕(さっこん?すりきず?)があるとされた石で、その後氷河の跡ではないと否定された、ヘットナーとは発見者の名前、と。
で、なんで私は知らないのだろう?
こちらのページに詳しく調べられていた。こうして調べていただけるのは本当にありがたいことだ。

そうか、もう存在しないのだ。登山ブームは戦後にまたやってくる。このページによれば、戦後の登山ブームと高度成長期の時代、昭和30年・1955年頃に、国道158号(野麦街道・ひだ道)の工事によって破砕されたのだという。戦後のレジャーブーム・観光ブーム(旧釜トンネルを通るバスのガイドさんは片側通行にとても苦労したそうだ)・マイカーブーム(スバル360・昭和33年・1958発売)の時代に、かつてその名を地図帳にとどめ、そしてその氷河説を否定された石は省みられることなく爆砕されてしまったのか。

がぜん、興味がわいてくる。

1)現在その痕跡・石は残っているのだろうか?現地調査。
2)ヘットナー石(一部)は現存するのか?東大?安曇資料館?
時代背景と人物
3)ヘットナーの生い立ちと人物、業績
4)日本地学会の成り立ちととその周辺の人物
5)氷河説について(長らく日本に氷河は無いとされてきたが)。
破砕の過程と方法
6)付近の国道の変遷(ダムの建設があった)
7)破砕に関しての検討や反対運動はあったのか?
8)破砕の方法とその詳細な位置

こうした方法は、私の好きな故吉村昭氏の小説のようでワクワクする、少し調べてみようかと思っているが、なにしろミツバチな私のこと、そのうち飽きてしまうのだろうなぁ

だれか、大学の卒業論文ででもやらんかねぇ
(2023・6・23)

ヘットナー石のあった場所

さて、ヘットナー石はどこにあったのだろう?
この地図帳から見ると、梓川の左岸(北側)であることは間違いなさそうだ。
まず、ヘットナー石命名の元となる原著にあたる。それは、wikiに記載のある山崎直方という人の論文だ。

(58p.)島々(地名)山駅がある。島々より本流に沿い街道を上がること約2キロメートルばかりにして明が平(地名)の路傍、川の北岸に吾人(私)がその発見者の名を取りてヘットナー石Hettner Steinと称するものが露出している。
 この石は雨雲母花崗岩の大塊であって長さ約3メートル高さと幅とは各1.8メートルしかして一部は地中に埋まっている、石の一端は道路改修の際破砕されて角稜をなしているが、そのほかの全部は極めて円滑に削磨せられている上にさらに無数の擦痕がほぼその石の長さの方向に引っかかれてある。しかしてまたその擦痕は石面の円みを帯びている所にはその円みのままに これに沿うて書かれている、寛に氷河作用を示せる見事な標本である。

山崎直方「飛騨山脈に於ける氷河作用に就いて」『地質學雜誌』第21巻第245号、日本地質学会、1914年、51-61頁 一部漢字旧字を訂正、カッコ内は私の説明

今のところの私の目的は氷河説の歴史の検証でもなく、ただ単に『ヘットナー石はどこにあったのか?その石の痕跡はあるのか?』だ。

まず、地図を見てみよう。
見い出せるヒントは3つ。
1)島々山駅(驛)から梓川上流へ2キロ
2)明が平にある、梓川北岸(左岸)
3)当時の街道の道ばた(路傍)。道の改修の時にどちらかの端が砕かれていた。

国土地理院のページから、「島々山駅」が分からないけれど、島々郵便局から2kmの線を引く。

国土地理院

「明ケ平」が見つかる。そして読みが「みょうがだいら」であることがわかる。ちなみに「稲核」は「いねこき」。
ダムがある…ダムは戦後のものだ。ダムができる前の街道を知らねばならない。

国土地理院

同じ国土地理院のサイトでは、1947年・昭和22年の空中写真が見られる。戦後、日本に進駐したアメリカ軍はつぶさに空中写真を撮影したのだろう。

国土地理院HPより

ダムができる前の稲核橋が見える(使われていないが2023年現在現存する、現代の地図にも現在の稲核橋の少し上流に表示が見える)。

よかった、稲核橋より下は少なくともダム建設による大規模な地形の変化は無いようだ。国道は半島部分?を突っ切るようにショートカットされたようではあるが。
ということは「北岸」であるということより、
稲核橋より東(下流)~2つある洞門(半トンネル)のうち東側(明が平洞門)の間、ということになる。なぜ東側の洞門と言えるかというと、それより東側(下流側)だとすると、川と道がカーブしているので「北岸」というより「西岸」と書くはずだからである。地質学会の学会誌であるから、この「北岸」という記載は信用したい。

とりあえず、こちらのサイトを信じると、「昭和30年ごろ国道改修工事により破砕された。」とある。
ということは、以下に示す緑マーカーのどこか、にヘットナー石はあったのだろう。

Googleのストリートヴューでも、それらしいものは見つからない。

Googlemap これは…コンクリート…やろうなぁ

詰まったw
さて、こんな時はどうしたらいい?
そうだ、国会図書館デジタルコレクションだ!

このような街道の、とある桑畑のふちに、何の奇もないない大きな岩が転がっていたのが、すなわちヘットナー石らしかったが、立て札も無ければ里人に聞いてもよく知らず、

黒田米子 著『山の明け暮れ』,第一書房,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1043663 (参照 2023-06-25)

戦前、1941年・昭和16年の女性の旅行記だろうか。この本で分かるのは戦前期にはすでにヘットナー石が、忘れ去られつつあったかもしれない、ということだけだ。(昭和16年12月8日に戦争が始まる。)

矢沢米三郎, 河野齢蔵 共著『日本アルプス登山案内』,岩波書店,1923. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1880204 (参照 2023-06-25)

お!ついに写真を見つけることができた。1923年・大正12年出版の本である。先の山崎論文が1914年、その9年後の出版。

ここまで、分かっているのは「明が平」の「川の北岸」ということくらいで、道のどちら側にあったのかは分かっていない。イメージ的には北側・山側ではあるのだが、実は確証がないのだ。
しかし、この写真の(A)図の左上を見ると空白が見える。これを空か道路だとして、山崎論文には「一端は道路改修の際破砕されて角稜をなしている」とあるから、道の北側にあったと推測できる。

この「日本アルプス登山案内(1923)」には島々から徳本峠に向けて「軽便鐵(鉄)路」があったと書いてあるので、島々山駅とはこの駅であったのだろう。森林鉄道なのかな、パッとは検索で出てこない。まぁ、これは別の話。ここでは現アルピコ交通新島々駅・旧島々駅と間違わないようにするだけで事足りる。

南安曇郡誌改訂編纂会 編『南安曇郡誌』第1巻,南安曇郡誌改訂編纂会,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3009093 (参照 2023-06-25)

ああ、やっと図らしいものがでてきた。

中野尊正, 吉川虎雄 共著『地形調査法』,古今書院,1951. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1370519 (参照 2023-06-25)
中野尊正, 吉川虎雄 共著『地形調査法』,古今書院,1951. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1370519 (参照 2023-06-25)

おお!もうちょっとだ!

上から 現在の地図・衛星写真・1947年の空中写真

再び川田氏の野稿図に戻る。

中野尊正, 吉川虎雄 共著『地形調査法』,古今書院,1951. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1370519 (参照 2023-06-25)

矢印が道の下を指しているのでしばし悩んだが、道の上の●が石のことなのだろう。とすると
現在の明ケ平下洞門(東側)と明ケ平洞門(西側)の間。当時のカーブ出口あたりの内側。

1947年の空中写真と現在の地形図をなんとなく重ねる…

うーん、正確な位置は分からない、な。
空中写真は測量した地形図ではないし。

画像を重ね合わせる格闘を数時間…
このヘットナー石北側の沢・境沢と、先代の稲核橋くらいしか基準にできるものがない。
とりあえず、1947年の空中写真にヘットナー石推定地点を赤丸でプロットし、最近の空中写真と地形図を重ねる。
標高840mというヒントもこれではあてにならない。標高840m地点の道が広げられたのは確実なことだし、山が削られ、梓川側が補強されているかもしれないからだ。

さらに拡大や

ああああああああああ、アスファルトの下やん…
まぁ、なんとなく想像していたけど。一片の痕跡も無いんだろうな。
よく見ると左側にチェーン脱着所がある。これが旧道の名残なのかもしれない。

正確な位置は分からないが、この写真のどこかにヘットナー石はあった。

勝手な想像図はこうだ。

個人の空想です。

とりあえず最後をどう締めようか、まったく思いつかない。
私の愚師(愚弟という言葉があるのなら愚師という言葉があってもよいだろう)秋田巌医師は、古事記でイザナギとイザナミの間にまず生まれたヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)に思いをはせていた。曰く、なぜ葦船で流されたヒルコが戻ってきたという物語は無いのか、それこそが重要となるべきではないのか、と。
12,3歳のころ、私が好きで何度も読んだマンガは「栄光無き天才たち」であった。

20世紀の初めに、その名を知らしめ、多くの人の想像力を掻き立て、そして忘れ去られ、道路拡張のために省みられることもなく爆砕された石のこと。
110年という時を経て21世紀に、ただただこの駄文を放流するのだ。私はヘットナー石かもしれない。それは誤解であったかもしれない、間違いであったかも、ヒルコであったかもしれない、栄光は無かったのかもしれない。しかし、それには意味があったのだ。
ヘットナー石の議論の後、日本に氷河は無いとされてきた。しかし、日本に氷河はあったのだ。もちろん、この島々谷・梓川渓谷ではなかったのだが。

私は、死ぬまで、間違いをおかす、失敗を繰り返す、一人の凡人でありたいと願う。そういう思いがヘットナー石に惹かれた一因かもしれない。

数十年におよんだ氷河論争も、昨年まで上高地ゆきのバスの車掌さんが「右に見えます石は、有名なヘットナー石で、ハイデルベルグ大学教授ヘットナー先生が発見し、日本に大論争をまきおこしました。」ブ・ブーッ……と説明してくれたものですが、もうこのごろはやめたようです。そろそろこんな話はわすれたほうがよいとおもいます。

舟橋三男 等著『地球』,福村書店,昭和33. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1629127 (参照 2023-06-25)

私はわすれないけどね。わすれたほうがよいとも思わないよ。
(2023・6・25)

現地へ

ちらりと時間が空いたので、現地に赴いてみる。これで、5日間集中してヘットナー石のことを考えていることになるw

松本市神林の鎖川沿いから島々谷
旧安曇村役場より島々谷を見下ろす
明が平下洞門と境沢

旧南安曇郡安曇村は小さな4つの村かが合併してできたのだと旧役場のレリーフに示されていた。ということは、ここは稲核村と島々村の境の沢なので境沢と言うのだろう。
下は同じ撮影地点から反対側を映したもの。

70年前には、ここのどこかにヘットナー石があった。

チェーン脱着場はダンプの時間待ちエリアのようになっていて、おちおち停めていられない雰囲気。現在も多くの道路工事や保全工事、ダムの保全工事などが行われているのだろう。
国道158号は、大動脈とは言わないまでも、中小動脈くらいの物流道路である。もちろん上高地や白骨温泉、乗鞍などへの観光地へ行く道でもあって、多くのトラック、バス、県外ナンバーの車が走っている。
こうして地図と歴史を知ったうえで訪れると「まぁ、こんなとこによく道を作ったな」と感嘆する。島々まではゆるい傾斜が、島々を越えて傾斜がきつくなり、ぐっと谷が迫ってくるのだ。

あ、話がそれた。
なぜか?まぁ、想像通り
ヘットナー石の痕跡すらなかったので書くことがないのだ。もちろん看板・解説板の類ももなにもない。「チェーン脱着場」の看板があるだけだ。

数10メートルの見える範囲で、ヘットナー石がここにあったときから今もその時から残っているのは、境沢と梓川、上方の木々くらいのものだろう。境沢も道路に近い部分は流路を変えられているのかもしれない。

斜面が削り取られ、コンクリート+ネットで覆われているのが分かる。

チェーン脱着場から明が平洞門(西側の洞門)を望む
ここ、ここにヘットナー石はあった。チェーン脱着場入り口から明が平下洞門(東側)方面

まるで、星の王子さまの最終ページのようだ。

これが、ぼくにとっては、この世で一ばん美しくって、一ばんかなしい景色です。(中略)
もし、あなたがたが、いつかアフリカの砂漠を旅行なさるようなことがあったら、すぐ、ここだな、とわかるように、この景色をよく見ておいてください。

サン=デグジュペリ作 内藤訳 『星の王子さまオリジナル版」岩波書店(1946・2000)

安曇資料館へ

爆砕されたヘットナー石の一部は東大と安曇資料館に現存すると飛曇荘のページにはある。安曇資料館はさらに上流の道の駅の近くだ。

2023年は土日と繁忙期のみ開館のよう
まさかアレじゃないよな?
これだった…
安曇資料館駐車場より上流側を望む、左手に道の駅風穴の里が見える

何を言おう?
昨日もそうだったが、何も言えなくなってしまうのだ。
こういうときはアレだ、ポエムで終わるか…

この地に
ある石があった
その石はひどく有名になり
そして忘れられ、こぼたれた
そういう石のはなし

(6・26・2023)

[付録]安曇村誌における記述

「安曇村誌 第1巻(自然)(1998)」 における記載
(p.89 第6章 梓川の地形)
第6節 明ヶ平におけるヘットナー石
稲核のアーチ式ダムの堰堤の約600mの下流で, 梓川が大きく右へ曲流する段丘 の先端部にあったヘットナー石について, 簡単にふれておく。
1913年(大正2年) ハイデルベルク大学のヘットナー教授一行は、明ヶ平の梓 川の曲流部の道路端にあった長さ3m, 幅2m,高さ1mの両雲母花崗岩の亜円 礫の巨礫に腰をかけて休憩中, ヘットナー教授が巨礫に刻まれた擦痕を発見, 氷 河の侵食による擦痕と言明した。 同年東京大学の山崎直方教授は、この巨礫にヘッ トナー石と命名した。 山崎教授は「氷河果して本邦に存在せざりしか」 の地質学 雑誌の論文で有名で, 立山にある数少ない南斜面のカールに山崎カールと命名さ れている。 京都大学の小川琢治教授は,地溝帯の松本盆地も氷河の侵食谷で,そ の末端モレーンは青木湖北の佐野坂丘陵だと, 低位置氷河説を唱えた。
その後、ヘットナー石は、 対岸の鉢盛山斜面の大薙の大崩壊で, 巨礫花崗岩が
(p.90)
梓川の川原に落下し、その勢いで反対側の明ヶ平の段丘面に押し上げられたとき の摩擦擦痕であるという考えにもとづいて、2回にわたって道路幅の拡張工事に 際し、細かに切断されて梓川に捨てられてしまった。 その破片の一部は東京大学 の資料室に保管されている。 安曇村ではかつての稲核小学校で保管していた50cm ほどのヘットナー石の破片が一時不明になったといわれたが,水殿の安曇村資料館にあるというので安心した。 つぶさに調べたが擦痕は見あたらず,擦痕のない 部分であった。 実は、その隣にならべられた安山岩礫には、数本の擦痕が認めら れた。この安山岩礫は、ヘットナー石と同じ場所で発見され、擦痕が刻まれてい たので,ヘットナー石の破片とともに保管したのだという。
ヘットナー石の擦痕が氷河であろうと岩石の摩擦痕であろうと、この石をめぐっ て日本の氷河論争が一段と高まり, 氷河研究が発展した点を考えれば,また岩石 の摩擦痕にも疑問点が残ることを考えれば, ヘットナー石は記念すべき大切な石 である。
ヘットナー石については, 梓川流域に関する地学事象を上流から順を追って取 り扱ってきたので,明ヶ平のところで簡単にふれた。
なお,明ヶ平下位段丘面末端部に開かれた道路沿いで, 標高740mにあったヘッ トナー石は、長軸がN20°E方向で,水平面に対し約30° 傾いていたらしい。 ヘッ トナー石に刻まれていた擦痕の方向は,石の長軸とほぼ同じN20°E 方向に規則正 しく平行に走っていたが,擦痕は石の表面と側面にあり,表面の方が側面より擦 痕が太かったようで、擦痕の太さに2種類あるように見受けられたという。ヘット ナー石とともに散在していた小型の両雲母花崗岩の礫を、寺田寅彦博士に見せた ところ,博士は即座に2種類の擦痕を認め, 太い擦痕は氷河ではなく山崩れによ る条痕と答えられたといわれる。
ヘットナー石のあった段丘は梓川の河床まで10mの急な崖をなし, 梓川の対岸 は鉢盛山 (2,446.4m) の北尾根の斜面であるが,斜面の標高1,020mから梓川の 右岸(標高730m) まで, 比高約300m, 最大幅150mに及ぶ山崩れの跡が今も残さ れている。この山崩れ跡は1667年(寛文7年)に起きた大薙の大崩壊地で,崩壊 による落下砕屑岩は梓川を6時間余にわたって堰き止めたと記録されている。
加藤鉄之助と大関久五郎は1914年(大正3年)に、ヘットナー石は大薙の大崩 壊地から落下した両雲母花崗岩の巨礫が、 対岸の明ヶ平下位段丘面上に約10mの
(p.91)
段丘崖を押し上げられたときの, 岩石摩擦による擦痕が刻まれたものと考え,氷 河による擦痕説を否定したのである。
なお、ヘットナー石のあった付近の河床には、上流や下流において擦痕の刻ま れた泥岩や花崗岩などの礫が発見され,中には片面が平らに磨かれた三稜石のよ うな礫もいくつかみられたという。 今なお, 山崩れによる擦痕説だけでヘットナー 石を片づけてしまってよいのか, 疑問視する者も少なくない。

(数ページあけて p.95)
第7章 氷河地形と周氷河地形

槍・穂高連峰は,3,000mを越える日本では最高の山岳が密集したところで,数 多くの氷河地形がある。また,この氷河地形は,明治30年代から多くの学者によっ て研究されてきた。本章では,小林国夫 (1956a) 「氷河及び氷河周辺地形」(『南 安曇郡誌 第一巻』所収), 五百沢智也 (1979) 『鳥瞰図譜=日本アルプス』,伊藤 真人(1982) 「槍・穂高連峰の氷河地形」, 小野有五 (1991) 「神々のみた氷河期へ の旅』, 堀口万吉 (1988) 「山岳氷河のつめあと」 (『日本の山』所収), 原山智ほか (1991) 『槍ヶ岳地域の地質」などの文献を, 引用および参考にした。

第1節 槍・穂高連峰の氷河地形

氷河研究と安曇村

現在日本には氷河は存在しないが,北アルプスをはじめ, 中央アルプス 南ア ルプス北海道日高山脈には氷河地形が残されていて、過去には氷河が活動して いたことを多くの人が知っている。
明治初年に来日した政府お抱え学者たちが指摘した日本の氷河地形の研究は, 100年ほど前、明治30年代に開化した日本の近代登山の発展に合わせて深められて きた。1902年(明治35年),山崎直方によって白馬岳・葱平に擦痕のある羊背岩が あることが発表されて以来, 日本の氷河研究は幾多の論争の時代を経て、その形 成年代や規模などが系統づけられて今日にいたっている。
その間, 1913年(大正2年) に来日したドイツ ハイデルベルク大学のヘットナー 教授は、松本から北アルプスへの巡検の途次、稲核・明ヶ平集落入口, 野麦街道 の右手、路傍の段丘中にあった花崗岩の巨礫に深い条線を見つけて,氷河の堆石 であると指摘した。 ヘットナー石と名づけられたこの石が糸口となり,小川琢治 (1914) 槍ヶ岳から上高地・島々を経て標高700mの新渕橋付近の平地まで, 氷河がU字谷をつくって現在の梓川の流路を流下していたとする低位置氷河説を 提唱した。
(p.96)
いっぽう、加藤鉄之助 (1914) は,
ヘットナー石周辺 の現地調査の結果,この巨礫
は鉢盛山の基盤岩から供給さ
れたもので,山崩れの際にも
このような条痕が刻まれると
反論した。 ヘットナー石は, そ
の後、松電バスのガイドによ
る説明でも有名であったが、
戦 後の昭和30年ごろ、
国道改修 工事の際, 破砕されて
とりのぞかれてしまった。

辻村太郎 (1933) は,槍沢
が氷食谷 (U字谷) であると発
表した。 また,(以下略)

上記の引用文献:
矢沢米三郎 著『上高地』,岩波書店,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1170768 (参照 2023-07-01)(「日本アルプス登山案内」の写真と全く同じもの。)

小川 琢治, 信濃國梓川の氷河遺跡, 地学雑誌, 1914, 26 巻, 1 号, p. 1-7, 公開日 2010/10/13, Online ISSN 1884-0884, Print ISSN 0022-135X, https://doi.org/10.5026/jgeography.26.1, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/26/1/26_1_1/_article/-char/ja

加藤 鉄之助, ヘットナー石に對する疑義, 地質学雑誌, 1914, 21 巻, 253 号, p. 417-421, 公開日 2008/04/11, Online ISSN 1349-9963, Print ISSN 0016-7630, https://doi.org/10.5575/geosoc.21.417, https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc1893/21/253/21_253_417/_article/-char/ja

メモ:信濃毎日新聞、朝日新聞でのデジタル検索(松本市図書館)で「ヘットナー」「ヘットナー石」検索結果なし(2023/6/30)

残された疑問点

ヘットナー石が壊されたのはいつか?2度の道路拡張?
どうやって壊されたのか?爆砕?切断?
梓川に捨てられた?どこに?
東大の資料室?どこの?現存する?
安曇資料館の石はどっちがヘットナー石?

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