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懐かしさをもった名作と人間らしさ

ドライブ・マイ・カーという映画を見た。

夕食を済ませ、使い終わった食器をシンクにつける。冷蔵庫から冷やしておいたジョッキを出し、缶ビールをあける。つまみは。と思い冷蔵庫を開けるが目ぼしいものがなく、とりあえずいいか。と頭の中の言葉の続きを呟いて、ぼくは映画を見始めた。

作品の中の登場人物たちは“どうしようもなく人間らしかった”

全員が愛や癒しを探しながら生きていた。失ったり、すり抜けたり、いろんな形で手の中からこぼれ落ちていった幸せや愛について語り合いながら物語は進んでいく。最初、彼らの状況は特別に見えた。でも見終わったときには彼らはぼくでありみんななんだと気づいた。

時計を見ると深夜2時だった。

こんな時間からすることもなく、でも寝るでもなく、部屋の中を歩き回りながら、机の上を片付けたり、溜まっている領収書や書類をまとめてみたりと文字通りうろうろしながら、映画の登場人物と自分達のつながりを考えてみた。



ぼくらは幸せになるためにはこうすればOKという正解が欲しいと思っている。

もちろんそんなものはないし、みんな正解がないということは薄々わかっている。少し前に、地元の飲み仲間の先輩と話をした時に「手放すことで新たに持てる」という話をした。誰もが手に持っている古いものを手放したら欲しかった新しい幸せや、気持ちを手に入れられることは知っている。手の中にあるのが不幸だとしたら、それを手放して少し周りを見渡せばなんとかなるとわかっていても、なんとなく手放したくない気持ちになったりする。

こうやって幸せを求めながら、幸せになることを迷うという事実をおもしろいと感じる。自分が手放せないからっていうこともあるし、手放した人はどうやってたばなしたのだろうという気持ちがある。だからぼくは、いろんな人と話をしたり、会いにいくことを続けている。

いろんな人と話していると、むしろ手放せないということが人間らしさなんじゃないかとも思う瞬間がある。もちろん手放せる人も、なかなか手放せなくて悩み抜いた挙句、なんとか手放したひともいる。

でも、それは一部だ。うまくいかないことは多々ある。

幸せになるには手の中のしっくりこないものを手放すといいよ。
手放してみたらどうってことないものだったって気づくからさ。大丈夫だよ。

うん。知ってるよ。本にもネットにも書いてあったよ。
でも、どんな自己啓発本にも手放す方法は書いていない。
それは人や状況、手放したいものによって方法が違うから書けないのだ。

自分はこうやってよ。それしか言えない。

そっから先に起こる出来事は周りはおろか、本人にもどうなるかわからない。

ドライブ・マイ・カーに出てきたそれぞれの登場人物は「手放したい」と「手放せない」の間にいる人たちだった。

彼らは心のすきまを手放したいと願いながら、その隙間を埋めようと人と関わる。
彼らは手放せないという妙な納得の中で時間を過ごす。
彼らはもう戻らない時間や過ちを抱えながら時間を過ごす。

彼らはぼくであり、みんなで、どうしようもなく日常だった。

見終わって最初の感想は「なつかしさを持った、たまに見返したくなるだろう作品」だった。

そこには派手さも、高い温度も、ドラマチックさもなく、リアルと、理想の間で起こる、不幸や悲しみと折り合いながら、なんとか生きる人たちの話だった。


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ひとしきり机の上がかたづいた。べつに今やらなくてもよかったなと思いつつ、満足してやっとベッドに入る。

今住んでいる街に来てそろそろ2年。

この街に来る時に1000キロの道を2日間かけて運転してやってきた。ぼくはそれまで関東圏からほとんど出たことがなかったからか、車窓を流れていく景色や五感で感じる全てが新鮮だった。晴天や曇り、雨、風、空気のにおい、気温。新鮮であるということは、それまでと違うということであり、それを気に入ろうが、気に入らなかろうが、ぼくに変えられるものは何もない。

唯一できるのはただぼくの車を走らせること。

なんとなくいろんなことがわかったような気分になって、そのまま眠りについた。

読んでいただきありがとうございます。もし気に入っていただけたらサポートをおねがいします。今後の感性を磨くための読書費や学びへの費用とさせていただきます。