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[読書の記録] 松谷創一郎『ギャルと不思議ちゃん論 』(2012-11-08読了)

女子の時代!」といい、なんか最近、女子文化風俗研究関連の面白い新刊によく出あいます。(※この感想文は2012年に書いています

松谷創一郎氏の新刊『ギャルと不思議ちゃん論 -女の子たちの三十年戦争-』(原書房)を読んだ。

 タイトルのとおり、「ギャル」と「不思議ちゃん」を若い女性の2大文化/社会勢力であると措定し、それぞれの進化と相互作用、生態系の歴史の比較を中心にしながら、80年代〜00年代にかけての女性ファッションの変遷を描出している、という本だ。
 豊富な言説分析と統計に基づいて議論が展開されており、かなりアカデミック寄りの女子スタディーズ本であると言える。

 筆者によれば、80年代、コンテンツの発信者と消費者の共犯関係的な内輪空間を構成して行ったメディアが、アイドルに「素人っぽさ」を必要とした結果、「女子高生」という記号を持つおニャン子クラブが大人気となった(第1章)。それと同時に、学校側は不良文化排斥とベビーブーマーの獲得を目論み、次々と制服のモデルチェンジをおこなった。そして、80年代後半から90年代前半に、女子高生がボディコンスタイルに身を包んでディスコに通う。そして彼女たちが「高ギャル→小ギャル/子ギャル→コギャル」と呼ばれるようになる。
 コギャルムーヴメントは若い女性たち自身の変化だけでなく、彼女たちに相対する成人男性=大人たち、ムーヴメントを報道するマスメディア、マーケットとして注目する企業等々、さまざまな方面から注目を浴びることで盛り上がって行った(第2章)。コギャルは常にその中心にいたが、その引き立て役として他に多くのプレイヤーが存在した。
 例えば、80年代の新人類(ニューウェイヴ、トンガリキッズ) による差異化競争の延長線上に生じた個性信仰は、微細な差異を求めるその苛烈なサイクルの中で、いつしか差異化を回避する策として内閉的個性を求めるようになった(第3章)。つまり、「あなたと私は違う」という差異化競争から、「私は私」という絶対的な感性にシフトして行く。不思議ちゃんの誕生である。
 ギャルと不思議ちゃんの差異は90年代後半からさらに明確になって行った(第4章)。彼女らは渋谷と原宿、プリクラとガーリーフォト、飯島愛&浜崎あゆみと椎名林檎など、さまざまな対立構造を持ちながらも同時代を生きていた。
 時代が2000年代になり、「モテ」を中心としたお姉ギャル文化が主流になりながらも、ギャルは『小悪魔ageha』やケータイ小説などさまざまな文化を生み、他方でゴスロリや腐女子など不思議ちゃん的スタイルも存在感を増していった(第5章)。同時に、携帯電話やインターネットの浸透、日本経済の停滞と政策転換も大きく彼女たちの生き方に影響を与えていった。
 コギャルの誕生から20年を迎えようとする今日、ギャルは縦にも横にも分化し、他の属性と結びついたりしている(第6章)。きゃりーぱみゅぱみゅの存在によって不思議ちゃんも目立ってきているが、彼女が戸川純のような強力なアイコンでありつづけるかはまだ未知数である。。

とザックリと、以上のような内容であった。

以下、私の限定的な体験に基づく感想

 90年代、援助交際やブルセラ売買が社会問題化し、ガングロ〜マンバへと連なる一連のコギャルブームが世を席巻していた時代、私は田舎で小学生業を営んでいたのであり、こうした文化については(かなり感度の低い状態で)メディアを通じてしか情報を得ていなかったはずだ。
 それでも同時代人として一連の現象をある程度正確に感知していたと思う。それは本書を通じて90年代のギャルカルチャーを歴史として読み返すことで検証confirmedされた。
 要するに、コギャル文化はそれくらいメディア露出もあったし、マスを持っていたし、勢いもすごかったのだろう。

 それに比して、今日にあって田舎の小学生でも感知できるくらいの強度と慣性を持った若者文化と呼べるものはあるだろうか?もはや確かな答えは個人としてはわからないが。
 かろうじて候補として考えられるagehaやケータイ小説、あるいはギャル演歌も、その内容が一般の人口に広く膾炙しているかと考えると、甚だ疑問である。(※この感想文は2012年に書かれています

 この本の論旨に従えば、常にギャルというカルチャーの「中心」があったからこそ、不思議ちゃんたちは「周縁」として自分たちのアイデンティティを記述できたということになる(この本は、いわゆる新人類は田中康夫『なんとなくクリスタル』に出てくるようなJJガールへのオルタナとして登場した!というところから始まる)。
 ところが、メディア環境と女子のトライブそのものの細分化が進んだ結果、もはや絶対的な参照点の失われてしまった今世紀にあっては、自己記述を多元化させ、友達によってファッション(所属するトライブの民族衣装)を使い分けることが女子の生存戦略となる。。。というような議論はいかにもありがちなゼロ年代批評っぽいんだけど、とにかく個々のトライブレベルで見ると、クリティカルマスは縮小せざるを得ないし、世間の耳目を広く集めるレベルには達することはないのかもしれん。

 しかし待たれよ。
 ギャル文化の中心性はコギャルブーム終焉後(世紀の転換点ころ)、すぐに失われたわけではないと思う。
 思い出してみてほしいが、いわゆる「お姉ギャル文化」(ギャルを卒業し大人になった女性たちの文化)はついこないだ(※ゼロ年代後半)まで、ものすごい求心力がなかっただろうか?
 私がロン・アーテストばりの鉄壁のディフェンスで童貞を守り抜いた男子校中高時代を終えて大学生となり、女性という他者と漸く邂逅を果たした2006年頃、エビちゃんに率いられたCanCam軍団は圧倒的な快進撃を続けていた。
 もちろん、私の母校である百万遍大学にお姉ギャル文化圏に属する女子が多かったかと尋ねられれば頷くのは難しいし、そもそもCanCamはOL向け雑誌なので女子大生は読者層から外れているのだが(しかしキャリア志向の総合職OLをターゲットにしていたことを考えあわせると、潜在的な読者層はいたはずである)、それでも私の大学生活は、特定の女子文化圏におけるエビ様のカリスマティックな求心力を肌感覚レベルで感得するに足る程度にはリア充的であったと信じている。

 松谷氏によれば、2000年以降にJJが失速したのは男への「コビ」を推したからであり、コギャルがそのままコマダムになるというライフパスがリアリティを欠いていたためであるという。
 逆にCanCamの快進撃は、同年代の男性だけでなく誰にでも好かれる「モテ」を推し、総合職のキャリアOLをロールモデルとしたことで可能になったと分析する。
 この説は非常に興味深く、私が同書の中で最も面白く読んだ部分でもあるので、以下重要だと思う箇所を抜き書きする。

・・・2002年に蛯原友里・山田優・押切もえの3人が専属で揃った『CanCam』は、従来のコンサバスタイルにギャルテイストを盛り込むお姉ギャルスタイルで、2003〜2008年頃まで快進撃を続ける。このとき、強く推し進めたコンセプトが「めちゃ♥モテ」だった。- p.249

押切もえの登用は、彼女と同世代の元コギャル層を取り込むことを意味する。(中略)彼女が担っていた役割は、従来のコンサバティブとは異なり、セクシーな要素を多分に含んだギャル的なスタイルだ。(中略)言うなれば、同性から「カッコイイ」と評価されるポジションだ。- p.223

そこで見られるのは、彼女たちが男性よりも同性からの評価を重視していることだ。- p.250

"モテ"においては、恋愛や結婚も同性からの支持を得ることが理想と見なされる。(中略)コンサバティブ(保守的)な赤文字系ファッション誌において、"モテ"は大きなパラダイム転換でもあった。というのも、従来(旧来)のコンサバティブは、その終着点に結婚を経て専業主婦を捉えていたからだ。そのため、異性にモテることを愚直に提示し、玉の輿を最高のゴールとしていた。- p.252

この両者—"モテ"と"コビ"に見られる差異は、微細なようで大きい。同性からの承認を得てはじめて男性に提示できる"モテ"と、男性の目ばかり気にして自らをプレゼンテーションする"コビ"とでは、主導権を男女どちらが握っているかという点で大きく異なっている。(中略)"モテ"の内実とは、男女間において女性が主導権を握り、優位にコミュニケーションを展開する戦術のことでもあったのだ。- p.254

『ギャルと不思議ちゃん論』


 女友達にモテることを一義とする行動規範は、現在のコンサバ女子カルチャーにも連綿と継承されているように思う。SATCとかグータン、、、女子会重視みたいなイメージ。
 しかしながら、私と同級生たちが大学を卒業するまでに、CanCam無双は終了してしまったのであーる。著者はその理由を主力モデルの移籍などに見ているが、私はここに、外部要因から加わった蛯様OL的ライフパスのリアリティの減衰を加えたい。

 2008年9月のリーマンブラザーズ証券の経営破綻に端を発した世界的金融危機により、00年代初頭の氷河期以降、上り調子に転じて一時は売り手市場とさえ言われていた文系大学生の新卒就職戦線は一気に地獄絵図と化した。
そもそもエビちゃんOLのような、仕事も恋愛もできて、女友達との付き合いもソツない何でもできる女性像というのも幻っぽく、だからこそ(スラヴォイ・ジジェク的な「消える媒介者」として?)熱狂的に受け入れられたところはあるだろうが、就職難でCanCam的キャリアを送るのが簡単でないことが明らかになり・・・悲しいので以下自重&省略。
 とにかく、われわれ2010年大卒世代にとってサブプライム危機とシュウカツの関係はインパクトが大きい出来事だったと信じているし、それだけにワシと同世代のキャリアOLは既にポストCanCam無双を生きているのである。

 原初の神話だったエビ様のフォロワーたちはどこに消えたのか。。


 00年代末まで、周縁が差分を切り出すことで自己記述の参照点となっていたお姉ギャルも、いまやひとつのサブカルトライブとなった。
 CanCam無双で赤文字雑誌のプレゼンスが下手に向上したことのサイドエフェクトとも言えるが、特にノンキャリア系赤文字の"コビ"スタイルは、例えば「ゆるふわパーマ(笑)」のようにしばしばネタ的に扱われるし、いわば肉食系の象徴と見なされている面があるように思う。合コンで商社マンや弁護士を捕食するブリっ子のイメージである。
 したがって赤文字文化圏内部でも、従来から存在した以上に、差異化と多様化の競争が進んでいるのではないか。
 男に媚びていると思われたくないキャリア系のドメインで、ツヨめで辛口なギャル寄りのスタイルが再帰的に立ち現れるのはここにおいてである。また、トラッドでマニッシュなスタイルも推されているな。

 いずれにせよ、恋愛においても仕事においても、自分の親友たち(女友達)からの承認を得ることが極めて重要であるというのはずっと同じらしい。松谷氏の書いている通り。これについては、皮肉とかやっかみ抜きで単純に羨ましいとか思ってまう。
 彼女らはこの貧困と非モテの時代にあって、少なくとも相対的にはむちゃくちゃ輝いているしリア充だが、もちろん必ずしもCanCamでロールモデルとされていたような人生を送れているわけではない。だからこそ赤文字雑誌の読み物ページは面白い。

 とにかく今後も(サブと化した)赤文字雑誌群とその読者の動向をフォローして行くことが重要である。


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