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[読書の記録] 國分巧一郎『暇と退屈の倫理学』(2013.07.29読了)

國分巧一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)

2011年ころに話題になっていた人文書である。

私たちの生活を満たす「暇」と「退屈」についてルソー、ホッブス、フロイト、マルクス、ユクスキュル、ハイデガーといった西欧思想の大家たちの論考を引きながら体系的に考察した大著、などと書くとゴツそうだが、かなり平易な言葉で書いてあるので読みやすい。
豊かさとは何みたいなことを考えたい人におすすめ。

私の中で一番印象に残ったのは、やはりボードリヤールを援用した消費・浪費論の部分(第3章)だ。

ボードリヤールの整理によれば、浪費とは、具体的なものを受け取ることである。一定以上いってしまうと、あ”〜満足した、で終わってしまう。例えば1回の食事の量には限界がある。腹一杯になればひとまず終わりである。
いっぽうで消費は、観念や意味、希望を受け取ることを指す。
消費には限界がない。例えば、「今、あの店がキテいる」ということを知ると、その店に行って、何かを食べてSNSでリア充アピールまでするけど、それでも満足することはできない。リア充であることを示ししつづけるためには、次の新しい情報がくると新しい店に行き続けなければならない。
このサイクルには終わりが無い。なぜなら、一回一回の空腹を満たすことではなく、「イケている店に行き続けていること」こそが、テメェのグルメキャラという社会的価値を生み出すからだ。ここでは一回一回の食事ではなく、グルメキャラという称号こそが消費の対象なのである。

このような消費のサイクルを作り出すことで、ものを無限に売りつづけることができるというのが、20世紀以降の経済成長の仕組みとなっている。

このことを説明するために国分さんは映画『ファイト・クラブ』を題材にするのだが、この解説が実に鮮やかである。

ファイト・クラブは言うまでもなく、鬼才デヴィッド・フィンチャーが監督、ブラッド・ピット&エドワード・ノートンが主演を務めた1999年の名画だ。
マイフェイバリットムービーのひとつであり、チャック・パラニュークによる原作小説もこれまた最高なのだが、それはひとまず置いておく。

エドワード・ノートン演じる主人公は北欧家具をコレクションし、自室をブランド家具で埋め尽くしている感じのスイーツな男である。家具は増えて行くいっぽうだが、いつまでたっても充足感を得ることができずにいる(=終わることのない記号的価値の消費)。
仕事マンでもある彼は昨日とそっくりの今日を繰り返して行く中で、日付の区別さえおぼつかなくなっていき、やがて不眠症に陥る。
そんな主人公の前に、ある日タイラーという男(ブラッド・ピット)が現れる。消費社会に対して徹底して反抗的で奔放なタイラーの言動は主人公の生活に大きな変化をもたらす。彼の日々には現実感が回復され、「退屈」ではなくなる。消費的な行動も打ち捨てられる。

フィンチャーはファイトクラブ以外だと、聖書をモチーフにした含蓄のあるオシャレ映画を作ってるイメージだが、こうして見るとファイト・クラブはボードリヤールの資本主義批判をかなり正確に表現しとるんだなぁという感慨を抱く。
徹底してアンチ消費社会に見えるタイラーこそが、消費社会の鬼子であるというところがポイントである。つまりアンチ消費的イデオロギーのほうこそ、消費社会のミラーイメージにすぎず、消費社会を参照せずにはアイデンティティを記述できないのだ。
そんなタイラーが、主人公自身がつくりだした虚構的な存在であることがまた・・・もうわかりましたね?

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