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『古見さんはコミュ症です』⇔『弱者男性はコミュ障です』

著書『超陽キャ哲学』の編集と出版作業を担当してくれたモザイクのアニメ評論がkindleで出版された。30年近く生きていると、アニメや漫画などの創作物には一定のパターンがあり、どんなに目新しいキャッチコピーの付けられた作品を視聴しても、多少の既視感は感じるものである。我々は子供ほど純粋にアニメや漫画を楽しめないのかもしれない。古臭い作品群にも斬新さを与えてくれるのが批評である。批評者の数だけ批評があり、世界や社会に対する見方がある。生きるということは批評なのである。今回はモザイク著『現代アニメ評論』から『古見さんはコミュ症です(以下、古コミ)』というアニメ批評を取り上げ、現代におけるコミュニケーションの在り方を考察していきたい。なお、この作品は厳密には週刊少年サンデー連載の少年漫画であるが、モザイクの著書がアニメ評論をテーマにしていることから、本記事でもアニメ版を取り上げることにする。批評性は高いが、作品自体がすごく面白いということはないので、8話でギブアップしてしまった。全2クール24話なので、まだ2/3ほど残っているが8話時点での批評となることを了承いただきたい。

古見さんにとっての学校空間

古コミという作品について軽く説明しよう。主人公は古見硝子という高校生の女の子である。苗字は古見と書いて『こみ』と読む。古見(こみ)という苗字に硝子(しょうこ)という名前で、コミュ症というわけだ。上手く人と喋ることの出来ない女子高生が、平凡な高校生男子である只野仁人を介してクラスメートたちと仲良くなるという物語である。コミュニケーションが苦手な女子高生の物語といえば、10年前に陰キャ女子萌えの火付け役として一世を風靡した『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(以下、わたモテ)』を連想するかもしれない。『現代アニメ評論』の中でモザイクは、わたモテと古コミから受ける印象の違いについて以下のように述べている。

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!、これはどっちかと言うと、そういう陰キャな自分、ネクラな自分を肯定するような作品なんです。古見さんはコミュ障ですっていうのは、それとは異なっていて、「個性っていいよね」みたいな考えがテーマになってます。多様性ですね。

現代アニメ評論

わたモテの主人公の黒木智子は、社会の異端者として描かれている。智子には友達がいないため、日常生活をおくっていれば自然と獲得できるような社会常識が欠如している。さらにプライドが高く捻くれた性格をしているため、知ったかぶりや勘違いで痛々しい行動を取ることが多い。その間抜けな行動がコメディ漫画としての笑い要素になっている。智子がスターバックスに行くエピソードでは、エスプレッソの苦さやドリンクサイズの勘違い(Gサイズをジャイアントと読む)など、彼女の世間に対する無知が嘲笑いの対象となっている。一方で古コミにおいての古見は徹底的な人気者として描かれる。主人公の只野が彼女に思いを寄せているのは勿論のこと、彼女に対するストーカー行為をする女子や、下僕を志願する女子など、古見を無条件で肯定するキャラクターが複数登場する。古見は発話での会話は殆ど行わず、只野と筆談を行い、彼が古見の意思を周囲に伝えるというコミュニケーションスタイルで作品が進行する。音声通話では多少の発話は行えたり、頑張れば人前でも喋ることができるため、完全な発話障害ではないと思われるが、彼女の特性が周囲とのコミュニケーションにおいて障壁となるべきなのは間違いがない。しかし、本作において古見の行動は蒟蒻問答のように好都合な解釈をされ、彼女に憧れるクラスメイトが彼女を取り合うというやり取りが一話からずっと続いていく。容姿の良さが人気の理由付けとなっているが、それだけで発話を全く行えないキャラクターが新学期から人気者になっているのは解せない。しかし、それこそが私たちが学校空間に抱いているバイアスなのである。モザイクの言うように共同体とは本来様々な個性が共存する空間であるべきなのである。しかし、私たちの中で学校空間は多様性とは対立する概念として描かれることが多い。制服、規律、学年、試験といったシステムで生徒を管理して、記号としての役割を与える。学校空間がそのように運営されているということの他に、生徒たちがカースト制度を無意識にインストールし、互いに序列を与えあっている。古コミでは、関係性においての記号的なキャラ付けでは存在せず、自分がどう在りたいかという意思のみが学校空間を作り出している。アニメ第四話で、ストーカー女子の山井が古見に対して『私は人から好かれるように努力してきた、私こそ古見さんの友達にふさわしいでしょ』という発言をする。それに対して古見は『私の友達は私が決める』と筆談でアンサーする。

私の友達は私が決める

また、この後のシーンで自分の所為で友人がストーカー被害にあったことを憂いた古見が、只野と友達を続けてもいいのかと質問する。これに対して只野の回答もまた、『僕の友達は…僕が決めるよ』であった。このような作者のメッセージは各所にみられる。クラスで一番の人気者である長名なじみは、全生徒を自分の幼馴染として定義している。これは人間関係や社会に対する極端な客観視が加速する現代社会に対するアンチテーゼとして受け取ることができる。関係性とは本来は虚構であり、多様性は意識して浸透させる義務ではなく、主体的な個人が自由を追い求めた結果成立する社会の在り方なのではないだろうか。

弱者男性は古見さんになれず

この漫画のタイトルは『古見さんはコミュ症です』である。コミュ症であって、コミュ障ではない。障害という文字面を避ける意味でこのようなタイトルになっているのだろうが、これにはもう一つ意味があると考える。本作品において、発話機能の有無がコミュニケーションの障害になっていないという意味が含まれているのではないだろうか。古コミはアバンタイトルで『コミュ症とは、人付き合いを苦手とする症状。またはその症状を持つ人をさす』というナレーションが毎回入る。古見さんの発話機能の不具合は、症状であっても障害ではないということである。症状とは事実であり、障害は解釈である。識字障害は文字を持たない文化圏では障害にならない。検索エンジンが発達した現代社会では辞書を引けなくても問題はないが、30年前なら勉強や仕事の効率に大きな影響を与えたことだろう。つまり、古見硝子にとっての発話能力は症状であって、学校生活においての障害ではないのである。このアニメに対するツッコミとして『古見さん最初から友達多いじゃん』というものが考えられる。私もパッと見た感想ではそう感じたが、そもそも古見さんは友達の作り方を知らなかっただけで、友達が作れなかったわけではない。上述の通り、古見は完全に発話が行えないわけではなく、人と対面したとき限定で発生する発話障害を持っているにすぎない。現実でいうところの場面緘黙のようなものである。現実の場面緘黙であれば、オンラインコミュニケーションの発達によって彼ら彼女らの生き辛さの問題は解消される。思考以降から発話までの流れをAIが行うという未来的な話から、オンライン通話での対面コミュニケーションにおける緊張の緩和という現実的な話までテクノロジーには夢がある。このアニメでは、前者のような身体機能の拡張を友人である只野が行ってくれている。他人に興味があり、コミュニケーションに興味があり、認知の歪みが少ないというコミュニケーションにおいての必須条件をクリアしている古見は、前提としてコミュニケーション強者だ。さらに容姿の良さもプラス要素である。もっと言えば、古見が女性であることも彼女の強さの源泉である。モザイクがわたモテを『ネクラな自分を肯定するような作品』と感じた理由には『主人公を生物学上の女性として設定しているだけで、内面は男のチー牛にすぎない』という浅ましさが透けて見えるからではないだろうか。生物学的に考えて、女性は男性よりモテる。遺伝子バラまき戦略が安定行動であるホモサピエンスのオスは、不特定多数のメスと交尾を行えるように全方位に対してアプローチするのが基本である。一方でメスは一生に妊娠できる回数に制限があるためオスを厳選するのが基本である。この性差によって、男性は女性と同じコミュニケーションスタイルを取っていても、コミュニケーション弱者になってしまう。所謂『男のメンヘラには需要がない問題』である。わたモテの黒木智子には歪んだ見下し意識があり、これはマッチョイズムの代表的な有害性である。わたモテには『僕は性格の悪い男だけど、女の子になって皆からチヤホヤされたい!!』という気持ち悪いチー牛の妄想が垣間見えるのに対し、古コミでは『自分の足らない点を友人に埋めてもらおう』とする謙虚な女性像が描かれている。モザイクは『メタバースで美少女になって弱者男性同士でチヤホヤし合おう』というバーチャル美少女ねむからインスパイアされたような発言をしているが、皮肉なことに古コミという作品が、男性性の限界を浮き彫りにしてしまった。弱者男性は一生キャバクラの女性キャストや兎田ぺこらをチヤホヤするしかないのだろうか。世知辛いものである。


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