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訂正可能性の哲学は読む価値なし

先日にYoutubeでも紹介した東浩紀の『訂正可能性の哲学』について批評してみる。一言で言えば、老害の現状肯定的意見を、未来への希望的観測でカモフラージュした観念論と抽象論を書き連ねた駄作である。人間の思考限界を家族という共同体に求めたところは素晴らしいと思うが、後半で家族と訂正可能性が具体的にどのように社会や個人をよくすることが出来るのかについては全く言及されていない。東は徹底的にルソーの一般意志を擁護し、必ず政治的決定に介在し続けなければならないことを述べている。カーツワイルやユヴァル・ノア・ハラリ、落合陽一や成田悠輔など、今有名で世間から支持されている言論人を批判対象に挙げて、彼らのテクノロジーへの過剰な期待を諫めている。私見だが、彼らの仮説や言説には指示される妥当な理由があり、東の言うような理想論者であるとは思わない。一部には東浩紀の言論人としての嫉妬もあるだろうが、もちろん妥当な部分もある。どのような批判があるかは本書を読んで欲しいが、序章として一つだけ訂正可能性の哲学で述べられている批評を取り上げることから始めよう。

矛盾する主張

成田は「無意識民主主義は、生身の人間の政治家を不要にする構想でもある」と高らかに謳い上げている。彼の構想では、未来の政治家は「世論のガス抜き」をするためのアイドルやマスコットの役割しか担わない。けれどもぼくの考えでは、そのような理想は絶対に実現しない。【中略】
一般意志がどれほど正確に抽出され、それを統治に変えるアルゴリズムやら人工知能が完璧になったとしても、そんなこととは関係なく、肝心のアルゴリズムや、解釈を並べ、「訂正」を迫り、一般意志そのものを再定義しようとする人々は必ず現れるだろう。

訂正可能性の哲学

上記は成田悠輔が『22世紀の民主主義』において提唱した無意識データ民主主義に対する批評である。ルソーが提唱した一般意志の概念は、共同体が成員一人一人の特殊意志(自由な考え)をくみ取り、総意として一つの大きな意志を形成するという考え方である。一般意志は共同体の意志であるため、常に正しく間違うことがないというのが定義に含まれており、そんなものが存在するのかということすら怪しい。東はルソーの一般意志を必要に擁護しつつも、成田悠輔のいうビッグデータに内包された国民の無意識を使い政治を行うという新しい政治のカタチを批判している。ルソーの一般意志が存在するとすれば、それはまさしく統計やビッグデータ分析の中にあると言って間違いない。それは東自身も否定はしていない。しかし、東はAIが憲法や法律を制定したところで、運用する側の人間が完璧でないため常に使用者の側から訂正を要求され続けるため、結局は従来の政治の在り方を乗り越えることが出来ないのではないかという問題提起を行っている。

確かに、戦後にGHQより押し付けられた日本国憲法は、戦後70年一文字たりとも変更が加えられていない日本人の旧約聖書と化している。日本が再び軍国主義に傾倒することを防ぐために作られた憲法9条は、警察予備隊という抜け穴によって突破され、のちに自衛隊となり防衛省も設置された。ここでは憲法論議をするつもりはないが、国家が他国と交渉するための暴力装置を持つということは現代の国際政治の常識であり、日本にとっても不可避だったことは間違いない。如何に絶対的なルールが存在しても、現状に即していないと国民が判断すれば、共同体がルールを破壊せずに抜け穴を使って運用されるというのはよくあることである。ここまでは私も東浩紀の意見に納得できるのだが、問題はその後である。

未来国家では、特定の人々がビッグデータ分析に基づいて「テロリスト予備軍」に分類され、次々に予防拘禁されることが日常になるかもしれない。あなたもその中に含まれるかもしれない。それはアルゴリズム的統治性がいまだ支配的でない現在の常識からすれば、とんでもない人権侵害にみえる。

訂正可能性の哲学

全く意味不明である。成田悠輔を批判する文脈で書いた文章では、我々国家の構成員が持つ訂正可能性が統治のあり方に対して常に変化を要求するという主張だったはずだ。しかし、上記の文章では高度な統計やアルゴリズムが支配的になれば、アニメPSYCHO-PASSシリーズの世界のようなディストピアが訪れ、我々が属性や所属で区別され、犯してもない犯罪の予備軍として隔離される世の中になることを懸念している。東浩紀のいう訂正可能性とは彼に都合の良いときにしか発生しない能力なのであろうか。人間の主体性を信じるのならば、アルゴリズムによって失われつつある主体性を回復するという陽キャ哲学的な結論に導かれるのが自然である。しかし、東は人間の訂正可能性を資本主義的な競争社会に求めている。東浩紀の言う訂正可能性の哲学は新自由主義のことだったのである。これは皮肉ではない。

アメリカ人は自分の力しか信用していない。社会を当てにしていない。困難は可能な限り自分たちで解決する。アメリカ人が結社をつくるのは、大きな公共に参与するためではない。むしろ逆で、彼らはそんなものに価値を感じていないからこそ、「社会的権威」の指示を待たず、勝手に連帯し自己の利益を守ろうと試みるのである。それはいまではリバタリアニズム(自由至上主義)と呼ばれ、共和党支持の一翼を支えている。【中略】民主主義の本質は喧騒にある。終わることのない対話が一般意志を取り巻くことで、政治は健全なものになる。かりにトクヴィルの思想をそう要約してよいとすれば、ここまで議論してきた訂正可能性の思想ととても近い。

訂正可能性の哲学

少しわかりずらいが、太字になっている部分はフランスの政治思想家トクヴィルのアメリカ政治への見解である。トクヴィルはアメリカの民主主義の成功を喧騒(遠慮のない対話の応酬)にみた。それはアメリカの新自由主義的な文化を醸成させ、現代の二大政党政治を形作っている。細字の部分で東浩紀は自身の訂正可能性の哲学とトクヴィルがみたアメリカ政治は近いと明言しているではないか。成田悠輔も落合陽一も、ユヴァル・ノア・ハラリも現代の資本主義と政治の在り方を良しとせずに未来の構想を絶えず描き続けている。しかし、東はそれを否定してアメリカ型の新自由主義がデジタルネイチャーや無意識データ民主主義より素晴らしいものであるという結論に落ち着いたのだ。トクヴィルの件は最終章の一番最後にまとめとして書かれている文章である。彼は老害的な「人間の思想ってやっぱりすごい!」「俺たちはどこまでいっても資本主義の檻の中だ!」という進歩のない思想を新刊として我々に売ってくれているのだ。本当にありがたい。

資本主義を乗り越えるのは最低限

現在、もっとも成功しているイデオロギーである資本主義が、現状一番機能的であることは言うまでもない。そんなことは一々著書にして発表する意味がない。これからの思想家は最低でも資本主義を乗り越える思想を打ち出す必要があるだろう。それがテクノロジーによるものでもよいし、加速主義によるディストピアでもよい、ベーシックインカムによる疑似共産主義でもなんでもよいのだが、少なくとも新自由主義が答えになっているようでは、ポスト現代の思想家を名乗ることは許されないだろう。かくいう私も資本主義を乗り越えてなどいない。「お金があれば働かずに暮らせるのになー」という資本主義の枠内でのラクな生き方に憧れを持っているのも事実である。不労への欲求は共産主義の父であるマルクスも持っていたらしく、彼にはシンパシーを感じる。資本家を打倒して彼らの持つ富を分配することを後世の革命家たちに求めたのである。しかし、そのような暴力革命は現実的ではない。いくら先進国の治安が悪化しようが警察権力の鎮圧力には敵うわけがない。ゆえに無敵の人によるテロリズム待望論を支持している人たちには「夢を見るな」と言いたい。統計や資本が介在できない場所(価値観)を捜し歩くディアスポラこそ、これからの若い世代に残された唯一の道なのではないかと感じる。そう考えれば、既存哲学も既得権益である。特に啓蒙思想チックなエッセンスこそ資本主義に最も迎合する思想であるように感じる。ルソーやジョンロックなどを有難がっていては、いつまでたっても既得権益側のパラダイムから脱却することは出来ない。

東浩紀は素晴らしい哲学者であったという事実は揺らぐことはないが、もう彼の時代は終わったのである。彼が本書で批判していた成田悠輔や落合陽一の思想こそ読む価値があると感じる。もちろん、個々の思想家の考え方を鵜呑みにするのは問題ではあるが、少なくとも優秀な考え方のベースとなることは間違いないだろう。陽キャ哲学も成田や落合と同等かそれ以上に価値のある思想であるので、ぜひご一読いただきたい。


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