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批評される喜び

作品を作れば、批評されるのは当たり前の話である。批評されるのが怖いなら作品を作るべきではない。成功は多作とトライ&エラーによって発生する偶然で、エラーの部分では厳しい批判にさらされる。作品に対する批判は影響力に比例して大きくなる。作品を作ることで間接的、直接的を問わず社会に対して影響を与えてしまうのだから当然だ。これをある理系YouTuberは『通知攻撃』と呼んだ。ニッチエコノミーで細々と人気者になるという幻想は不可能だ。何故なら、グローバリズムが世界を繋げ、50人に評価されるコンテンツは5万人に評価されるということと同義だからである。良くも悪くもコンテンツの無料化が進んだ現代社会では、コンテンツクリエーターたちは複数のファンを共有している。美術家に資産家のパトロンがついて、彼や彼女を一生食わしていく時代ではない。多数の庶民たちが、少ない可処分時間を費やして、大きな資本をコンテンツクリエーターに与える構図が現代の芸術や文学の基本収益である。50人という人間が多少なりとも可処分時間を消費して作品を見てくれる、もしくは読んでくれるという実績があれば、後は認知の問題を解決するれば知名度を獲得するということは容易い。究極を言ってしまえば、現代において作品作りに才能は不要であるということだ。作品を作り続けるということで、社会の認知にアクセスすることが、それ即ち『芸術』なのである。本記事では、通知攻撃の重要性について考察していきたいと思う。

良作の定義

論壇、文壇、各種創作界隈における『良作』の定義とは何だろうか。芸術は理系学問ではないので、車輪の再発明が許されている。車輪の再発明とは、車輪のような歴史において既に誰かが発明した技術を後世の人が再発明しようとする試みである。長い労力をかけて車輪を発明したとしても、既に車輪は存在するため社会には何の影響も与えない。理系研究においてパクりには一切の意味がない。しかし、文系の学問においてはその限りではない。例えば、問答法という質問や反論することによって相手の矛盾を炙り出し、賛否を超えて第三の選択肢を模索しようとするソクラテス発案の手法がある。これは後世でヘーゲルが提唱した弁証法とほぼ同じ概念である。若者の厭世ムーブメントである、だめライフ愛好会は古代ギリシャのディオギネスが2500年前に実践していたことの焼き回しに過ぎない。世間で称賛されている経済学者の成田悠輔は、若い頃の宮台真司にそっくりである。同じことが繰り返されていても、時代が違えば、捉え方も社会的評価も全く異なる。文系の車輪は再発見される価値があるのだ。現代創作においての『良作』とは斬新さや作品自体のクオリティーとは別のところにある。創作の意義は、社会を動かすことである。世間的には納得できないかもしれないが不謹慎系YouTuberは社会運動家と同等以上に社会を変える力がある。学歴系YouTuberは人を殺す力があるし、政治活動家の外山恒一は2007年に都知事選で大敗したにもかかわらず、その影響力や思想は現代のインテリ系左派学生たちに受け継がれている。アナーキストなど珍しくもなんともない、国家権力に縛られず自由に生きたいというのは人間思想のアーキタイプであり、無学な人間でも簡単に思いつくだろう。しかし、それでも彼が都知事選に出て、ニコニコ動画や黎明期のYouTubeに取り上げられたことには、日本思想史において重要な意味があった。人が人に影響を与えることが創作活動においての『良作』の定義である。経済的な勝ち組である推しエコノミーの勝者たちも、彼ら彼女らの推したちが一生匿名ではつまらない。それは単に、能動性を搾取しているというだけの話であり、金儲けの成功者にすぎない。にじさんじは多くの匿名的退廃者を生み出したという罪もあるが、二期生三期生、もしくは個人勢として数多の後続発信者を生み出したという功績は素直に称えられるべきだろう。人間には承認欲求があるので、社会的意義よりも自身が社会で称賛されることを望むのも無理はない。だが、それならば偽善はやめて銭ゲバを前面に押し出そう。承認欲求の発露も、それはそれで芸術性が高い。一番問題なのは『社会の役に立てれば』という態度である。本当にひっそりと社会の役に立ちたいならば、なぜ街のごみ拾いに出かけないのだろうか。それは自身の才能や天才性を信じているからではないのか。貴方が天才ならば承認など後からいくらでも得られるのだから焦る必要はない。

他人の人生には誰も興味ない

推しエコノミーに対する批判として『他人の人生を応援するなら自分の人生を応援しろ』というものがある。他人の人生を応援することで、自分の人生を頑張っている気持ちになれるといったメカニズムを投影と呼ぶ。確かに投影は、一見何の生産性もないように思えるが、凡人にとっては一番夢に近づいている状態を疑似体験できる機会なのである。一般人は日常生活においてドーパミンが放出されることが少なく、興奮状態を味わうことができない。故に、養殖された感動であっても、摂取しないよりは幾分かマシなのである。食物連鎖を生きる人間以外の全ての野生動物にとって、意欲がないということは死を意味する。その為に、ドーパミンを始めとする興奮を司るホルモンが存在する。ホルモンのサポーターが機能不全に陥ると大抵の場合、数日で死んでしまう。意欲なく生きることが可能なホモサピエンスという生き物の特殊性がうつ病を作り出している。他人の人生で興奮できているうちはうつ病にもならない。しかし、それは生物としてのセカンドベストであって、本当は天然の興奮を味わうことの方が健康に良い。何故なら、ホモサピエンスは本来的には自身の興奮と意欲を求めており、対症療法としての推し活でお茶を濁しているからである。もし、貴方が誰かに応援されていたとしても、本質的には『他人の人生には誰も興味がない』ので、応援の基本は、あらゆる下心で構成された欺瞞のカモフラージュした表現であると考えた方が良い。もちろん、友達や恋人を応援するという社会性に基づいた応援も存在するが、それでも自分以上に他人を応援することはできない。表現者とファンの関係は、能動性の搾取によって成り立つ加害行為であり、ファンはいじめられっ子に近い。冒頭で述べた『他人の人生を応援するなら自分の人生を応援しろ』という指摘は、『自分がいじめられるくらいなら、他人をいじめろ』という言葉に置換できる。これは典型的なメリトクラシー側の言い分で、それができれば苦労はない。このような発言をするなら、お前がいじめっ子と戦うのが大前提ではないか。私は自分の才能を信じているが、社会的評価は未だ得ていない。そんな私が、いじめっ子を批判したり批評したりすることで、いじめられっ子は脳内でパニックを起こすだろう。『なぜ、僕と同じか少し上くらい(そう見えるだけ)の陽キャ哲学普及協会が、月ノ美兎や兎田ぺこらと同格に戦えるんだ!?』となる。権力に迎合する人間を減らすには権力を破壊するしかない。

逆に自分が猫的な存在としてインターネットで権力側に回りたいのならば、直接的な繋がりのない他人同士が興味や関心で繋がっているという幻想を捨てるべきだ。詐欺師はコールドリーディングを多用する。なぜなら、人は自身の実存を何より愛しており、それを言い当てた他者に対して心を許してしまいやすいからである。マーケティングなしで、自分の人生が親しくもない誰かに監視されている、もしくは興味を持たれているという自意識過剰性こそ、インターネットメンヘラ芸人たちが克服するべき課題なのである。メンヘラはコミュニティ支配はおろか、友達すらまともに作れない。当然、アイドルになることもできない。そのことについては、ぼっち系YouTuberモザイクのチャンネルで対談したのでそちらを視聴いただきたい。何れにせよ、同業者に批評や批判をされることの方が、自己愛性の強い凡人たちの応援のターゲットにされるよりは幾分かよいのではないだろうか。

誤読&誤配について

私事にはなるが、以前に天才高校生思想家の稲葉君の著書である『コミュニティ支配論』を書評したことがある。彼にとっては、私の批評には解釈的な誤読があったらしくかなり憤慨していた。書評動画を消すようにとまで伝えてきた程である。自分の伝えたかった自分像が他人に100パーセント伝わるということはあり得ない。人間はテレパシーを使うことができない以上、言葉や文章を通して伝えられた主張や意見には、必ず受け手側のバイアスが含まれる。伝わる人間が多ければ多いほど、多くの人間に誤読されることになるだろう。それを恐れているからこそ、稲葉君は自身の動画やXのポストを簡単に削除する。誤配する、もしくは誤読されることの喜びが分かっていないのだ。常に格好良く解釈されたいのならば、空想の人物を主人公にしたライトノベルを書けばよい。我々はクリエーター側の人間なのだから、評価は他人に任せて、後は自分の信じるアートするだけだ。これが肌感覚レベルで通じればよいのだが、そう簡単にはいかないのも分かっている。なので、彼ら彼女らのメンヘラ行動を見るたびに、同じ主張を繰り返すつもりだ。思想の単純接触効果を信じて待つとしよう。


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