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構造上の不可能性 is エンタメ

我々は得てして、構造的問題に対して道徳や倫理の力によって解決を図ろうとする。内心では薄々不可能であることが分かりながら、不条理が倫理を覆い隠してしまうことに対して義憤にかられる。『いじめはいじめる側が悪いのか、いじめられる側にも要因が存在するのか』『組織に蔓延るフリーライダーは排除するべきなのか』『ズルい人間が得をして善人が損をする社会は肯定してよいのか』などの問題は度々、人間性の劣化や道徳観の退廃などといった言葉で表現されてきた。西洋文明では、永らく現象への位置づけに神を持ち出した。個人主義の萌芽ともいうべき実存主義の第一人者であるセーレン・キルケゴールですら、神を基準として世界と個人の関係性を語ろうとしていた。その後、ニーチェによって神なき世界の実存主義が弁証法的に発展し、西洋人たちは倫理や道徳を神という文脈を抜きに考えるようになった。一方で我々東洋人は孔子の儒教に見られるように、祖先崇拝を基盤として個人の存在を『守るべき歴史』の一部であると捉えてきた。儒教は発祥の地である中国から朝鮮、そして日本へと基盤を変えることなく微妙に解釈を変えながら伝わっていった。王朝が頻繁に変わる中国大陸では、国家を不変なものと考えず家族主義が『守るべき歴史』として認識されている。朝鮮では10世紀ごろに朝鮮半島が高麗として統一される。統一の大義名分とされたのは易姓革命という儒教の考え方である。簡単に言えば徳の高い者が国家を支配する正当性があるので、腐った政権は革命によって倒されるべきであるという革命思想である。同じく中国から輸入された仏教も朝鮮では大きな力を持ち、儒教と仏教は使い分けられながら朝鮮の歴史を作り上げてきた。このような複数の宗教が国民たちによって使い分けられる状態は近代化する以前の日本でも神仏混交というかたちで存在していた。しかし、李氏朝鮮成立以降は国教が儒教に定められ、仏教は弾圧された。現在の韓国に年長崇拝や祖先崇拝などの儒教色が色濃いのはそのためである。一方で日本は、神道という日本古来の神を信じる宗教を残しながら、永らく仏教を重要視してきた。鎌倉時代には多くの開祖たちが仏教宗派を開き、武士から庶民までその檀家となった。しかしながら国教というかたちでは、どの宗教やどの宗派も永続的に祭り上げられることはなかった。日本は『宗教や思想の違い』を根拠に現政権が転覆させられたことは1回もなく。明治の大政奉還も、国としてヨーロッパ列強と対峙するために幕府と新政府のどちらを立てるべきかという結論によって起こった政変である。

各国の政変の根拠

日本人は強者迎合!?

東洋人は論理的な問題を倫理と同じフィールドで語ることが苦手である。ヨーロッパでは有史から、神に選ばれるべき行為や政権はなんなのかということを無限に反省してきた。構造上解決不可能な問題においても、現実世界で蔓延る不条理を露悪として位置付け、偽善として精神世界での解決を行ってきたのである。現実では悪行が行われているが神は悪行を許しているわけではない。つまり、不条理は神が許してはいないが、現実問題として存在するという矛盾をキリスト教的思考によって受け入れてきた。しかし、儒教の影響が強い韓国では不条理を受け入れることが難しい。韓国は特質してSNSでの誹謗中傷が問題視される国の一つである。不徳は裁かれるべきであるという易姓革命思想が国民レベルに根付いており、不条理を攻撃し続けることを止められない。日本は韓国とは別の意味において倫理と論理を同じフィールドで語ることが苦手である。日本は強い者が政権を取り続けることに歴史レベルで順応してしまった。鎌倉時代の新仏教の弾圧、江戸幕府のキリシタン弾圧、大日本帝国による廃仏毀釈など、政権が宗教や思想に干渉することはあれど、宗教や思想によって政変が起きることはない。日本人にとって『何が正しいか』ということは強い者が決めることなのである。

民主主義によって強い者は国民の多数派ということになり、常に多数派の道徳観念から逸脱したものを攻撃し続ける。一神教の伝統を持たない国では強い者が不条理を正せないということはあってはならないことなのである。しかし、構造上の問題は特定の個人や事象について感情論を述べ立てるだけでは解決することはない。それを理解した者たちは『構造上の問題は個人レベルでは解決不可能なのだから真剣に議論するのは時間の無駄である。感情論に対して上げ足を取ろう。』という冷笑的態度に出る。その結果、日本の意見表明は感情論か冷笑意見かのどちらかしか存在しなくなってしまった。勘違いしないで欲しいが、私は感情論を否定しているわけではない。事象に対してどのような感情が発露されるかということはその人物の個性であり存在証明である。問題は道徳観の押し付け合いに終始することで議論が停滞し、挙句の果てには個人攻撃の応酬になってしまうことである。いじめられた経験を持つ人がいじめに対して強い怒りを抱くことは当然であるが、いじめというものが生物学上のシステムとして存在し続けることもまた事実である。事実を認めた上で、立場を越えて構造について語り合うことを是としたのが構造主義である。構造主義は実存主義のアンチテーゼとして勃興した比較的新しい哲学である。実存主義では、それまでのキリスト教的な理性や悟性といった西洋文明的な倫理を継承していたが、構造主義ではキリスト教やイスラム教のような一神教も宗教という一つのパラダイムに過ぎないことを前提として議論することを要求した。構造主義は文化や国家システムなど多くのことを相対化して比較検討することを可能にした。のちに登場するポスト構造主義と呼ばれる哲学では、より個人化した我々人類をより微細な構造ごとに分けることを要求する。実存主義では西洋の個人主義を前提とし、構造主義では文化を相対化した。その後、ポスト構造主義で個人主義を相対化した文化に属する構成員一人ひとりに割り当てて考えた。ここまでが現在の哲学の限界地である。次は現代哲学の哲学の限界について詳しく考えてみる。

革命家は団結できない

私に言わせれば、ポスト構造主義を含むフランス現代思想は冷笑主義の温床である。私は1994年生まれだが、フランス現代思想を代表する哲学者の一人であるジル・ドゥルーズが没したのは1995年である。脱構築で有名なジャック・デリダは私が小学4年生である2004年に没した。もう20年以上も前に故人となったフランス人の思想を日本でいまだに有難がっているのははっきり言って異常である。もちろん、研究者たちは単純に有難がってなどおらず、批判的検討がなされていることは間違いない。私の問題意識はフランス現代思想の解説本の焼きまわし行為をしている輩やライフハックと称してフランス現代思想を自己啓発に応用しようと考えている輩に対してである。noteで何度も書いているがその手の輩では千葉雅也がかなり故意的である。彼は現代思想入門という書籍を新書で出版し、その表紙には『人生が変わる哲学』と銘打っている。フランス現代思想は全てを相対化しすぎるがゆえに、極めても冷笑主義にしか終着しない。例えば、ジル・ドゥルーズは『法の転倒』を考察した革命思想的な政治哲学者である。彼はアイロニーとユーモアという概念を大衆にインプットすることで革命をなせると考えた。アイロニーとは屁理屈であり、現行システムに対する深堀から矛盾を抉り出す行為のことである。ユーモアは現行法(ここでの法とは法律に限らず世界を規定するルールや法則)を拡大解釈することで疑似アナーキズムを成そうとする試みである。千葉雅也はアイロニーとユーモアをツッコミとボケというお笑い的な要素に再解釈し、体制批判をよりカジュアルに行えることを訴えた。フーコーの権力批判から始まったフランス現代思想は『革命』を成すための思想であるため、如何に現行システムを破壊するかということを是とする。当然、既得権益との戦いは多数決ような現行システムを支えている意思決定方法では改革することが難しいため、大きな屁理屈が必要となる。

私も思考法的なトリックで世界を分割することを考え、それを普及協会と名乗り啓蒙している。上記の記事は現実に起きる現象と個人の関係性を自身が規定し、それを他人の世界から分割することを主張したものである。もちろん、これは理論上で唱えるだけであれば屁理屈であるし冷笑に過ぎない。これまで記事で主張してきたポスト構造主義の言葉を変えて再発明しているだけに聞こえるかもしれない。しかし一世紀前のフランス人おじいちゃんたちと私の違いは、インターネットでの意見の民主化が行われた世界へのアプローチが検討されているところにある。ミシェル・フーコーは監獄の誕生において、パノプティコンという円形の監獄を紹介している。囚人は、中央の看守が見えない構造になっている独居房に収監される。看守は囚人に認知されず24時間好きな時に囚人の様子を確認できるので、囚人たちは常に見られていると考え規律意識を強めるというのだ。

パノプティコン(イギリスの思想家ジェレミー・ベンサム考案)

パノプティコンは支配の構造として20世紀では説得力があったが、現代ではかなり陳腐化している。規律意識を高めるには評価経済によってお互いに監視させ合う方が効率が良い。例えば、Youtubeは黎明期は何でもありのカオスだった。過激系や不謹慎系Youtuberなどが席巻し、低評価というかたちで衆目を集めていた。しかし、低評価は高評価の価値には勝てず、Youtube側の健全化の名目で彼ら彼女らをプラットフォーム上から排除していった。排除の最終決定はAIや管理者が下したのだろうが、彼ら彼女らを不要と判断したのは我々大衆の評価である。パノプティコンの中央の監視塔は不要となり、我々は我々を評価というかたちで管理し規律意識を高める時代に到達したのである。パノプティコンは一例に過ぎないが、かつての哲学者たちが考えていたような権力や既得権益は今では全く違うかたちに置き換わっていることも珍しくない。我々がフランス現代思想書をいくら読んでも『革命』を起こせないのは、戦うべき権力や既得権益が我々自身の中に存在するからである。マルクスの思想が多くの共産主義国を生んだ背景には、事実として世界の大部分の富を独占する少数の資産家が存在したからである。一方で、インターネットで『特権階級は誰だ?』と問えば、出てくる答えは、老人かもしれないし、男性かもしれない、女性であるかもしれないし、高学歴かもしれないし、裕福な親を持つ者かもしれない、日本人かもしれないし、韓国人かもしれない、バブル世代かもしれないし、Z世代かもしれない。団結して妥当すべき革命の対象は存在せず、個人個人に仮想敵が存在するだけである。革命家は団結できず、行動なき冷笑言論人になり果てる。これが革命思想であるフランス現代思想の限界なのである。

冷笑を乗り越える行動

これからは最低でもクリエイター、できればアーティストになることが求められる。上記でも述べたように我々は大きな物語はおろか、小さな物語ですら団結できない。唯一団結の希望があるとすれば、立場を乗り越えるクリエイティブな相互関係性である。人は社会に対して冷笑することは出来ても、クリエイティブやアートに対して冷笑することはできない。発信や創作は、バタフライエフェクトの如く社会に多大な影響を与えていくことになるからである。よく炎上するインフルエンサーがいるが、立ち回りの上手さは兎も角として議論を巻き起こしているという意味では非常に有益な存在であると言える。名前と立場を明らかにして意見や作品を提示しているからこそ炎上するのであり、我々は全員が炎上予備軍になる必要があるのである。炎上は大衆の怒りや違和感の表出であり、火種がなければ大衆は自身の感情に気が付くことが出来ない。東浩紀は、ネットの炎上はハッシュタグによる動員活動であり、大衆の愚民化であると嘆いていたが、インテリが行動しないのであれば愚民が行動をもって言論空間に乗り込んでいくこともやぶさかでない。そもそも立場からくるユニークネスは個々が皆持っているはずで、語る権利は平等であるはずだ。千葉雅也がフランス現代思想にこだわり、SNSや飲食店の自動化に対する批評として懐古主義な意見しか出せないのならば、彼が立命館大学の教授だろうが何だろうが、陽キャ哲学の知性をもって物申しても文句はないはずであろう。

構造上の不可能性に対して、哲学で解決できるというのは思い上がりである。また、遺伝学や社会学などを用いても簡単に乗り越えられる話ではない。不可能だからこそ、解決せずに『解決できないことをどう考えるか』ということを語る哲学も必要なのではないか。現象は現象として放置するという考え方は私の考案する陽キャ哲学の基盤にもなっている。構造を作っている既得権益が無能だから、既得権益がしがみ付いているからという謳い文句は哲学者以外にも社会学者や社会運動家からよく聞かれる話であるが、私は既得権益が存在しないから、個人が個々の立場で既得権益を定義しているにすぎず、既得権益を語る貴方も誰かにとっての既得権益かもしれないということを伝えて本記事を終わろうと思う。ここまで読んでくれた読者の皆様ありがとう。また次回の記事でお会いしましょう。


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