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偽の完璧が苦しい理由 ③


✅「より良い立ち位置」


まとめ③批評しない
 
【おさらい】
✅「突っ込まれたくない」素は「生産性」主義による殻(呪縛)でした。
✅「法律という自分の外側」に自分自身が立つと選択しているから、メディアが取り上げる法律という物理は「行動力」を抑制し摂理から離れている。
✅自分自身の歓喜する内側は他の誰にも見られないが、そこが根源でありますから「ルール」という他も活かさない物からは自分の歓喜は、いつまで経っても満たされません。
✅そして起床したら自分自身に「おはようね・今日も宜しくね・元氣でありがとうね」としておりませんから僕すらも通りすがりの「他人」に対しても「相手を包み込むような・おはようございます。」が出来ていない。
✅ 🆕偽の「完璧が苦しい理由」は「素・ス」でないから、つまり自分自身を「許していないから」
 
「より良い立ち位置」まとめ③批評しない
 
「言葉(意識)がすべて」
その創造は第七日に完成したのであります。「七日」とは、暦日(こよみ)の七日ではなく「言霊学」で解しますと「成々続(ななつ)」であって、成り成り続くということ「無始無終を包容した、すべて」のことであります。「ヨハネ伝」では、「太初(はじめ)に言霊(ことば)あり、言霊は神と偕(とも)にあり、言霊は神なりき。この言霊は太初に神とともに在り万の物、これによりて成り、成りたる物に一つとして、これによらずに成りたるはなし、これに生命あり、この生命は人の光なりき」とありますが、「コトバ」とは、ヘブライ語の「ロゴス」を訳したのであって、空気が振動して発する言語ではなく、神が心に「かくなれよ」と思い念じ、たまいし「霊的思念振動」であります。「成る」というのは「鳴る」という語源から転じて波動のような振動が存在していることをあらわしております。
 
※他人を「批評」する言葉を発すると→言葉には主語が無いので「自分自身」に対しても「批評」します。
 例えば、約束の人がいつものように遅れてくるから「あいつ、いつも遅いな!」と発しますと「人に迷惑かけないように」自分で縛りをかけ始めます。次に思考は、自分に意味があって「約束の時間に間に合わない場合」無理してハラハラドキドキと「緊張を精製」しはじめ急いで事故を起こしたり・・・焦りは視野を狭くしますね。僕らは生きて来たときに、一度たりとも迷惑をかけないで生きてきたのでしょうか?もしも「迷惑をかけていない」と言い切られるならば、それは何も行動しない地に「はいつくばる蛆虫」でしょう。蛆虫は行動が遅いので「はっていれば」鳥の餌になるでしょう!そういう貴方は誰かの餌になっておりませんか?挑戦を繰り返せば失敗はつきもので「乗り越えれば」自己成長となりますが、その成功にも執着すると失敗したりと・・・ですから失敗を笑い飛ばして「言葉の鎖」をほぐしていたいものです。
 
「生きること」
悟れ悟れ、お前が仏であり、お前が極楽である。永遠の過去より、永遠の未来を包容する常住の今。その今とは、初めから仏であるから仏になるのであり。仏になるとは、死ぬことではなく「生きること」であります。自由自在に生きることが仏になるのであります。「ホトケ」というのは「解ける」の意であり、縛りの解けた状態が「仏」なのであり、仏教では解脱(げだつ)と申します。その縛りがホドケますと「ああ楽になった」という感じがする。これが極楽である。極楽浄土は自分に在るのであります。
 
※解く(ほどく)とは「執着」「絡んだひも」「緊張」などを解くには、その掴んだ人自身が「言葉を解き」「緩め」「内省」して参りますが・・・「批評」という失敗を乗り越えるには「挑戦」「自己成長」の連続なのですから批評を辞めて「そうなんだ」とあらゆることがバランスよく完璧な存在と「自己都合」で捉えなければ「絡まらない」のであります。つまり法律という自分の外側・物理にて「規格・基準・縛り」を超越する必要があります。
 
※超越とは何かと申しますと方便となりますが・・法律とは最低限の決まり事ですから、最低を掴んでも最低のままであります。例えば僕は建築士でもありますから、その「縛り」を大切にすると、その規格を超える柔軟な発想へは辿りにくくなることも選択していきます。経済優先の舵をきりました果ては建築コストが、その呪縛によって増大致しますと誰も手が出せなくなり全体経済が成り立たない・・・一億年前の竪穴式住居ならば自然から無料で取得して食べるだけの野菜を栽培して小さなことにでも「感謝」できる豊かな心、宇宙は一体ですから、地面に手をあて「今日のご機嫌はどうですか?と地面に耳を傾けると」お日様があたって心地いいよ!とかたりかけてくれたり・・・
 
「まとめ」
僕たちは人に迷惑をかけないように、覚えきれない多くのルールを設け過ぎておりませんか?ルールが多いからミスを犯す人も増えて、そのミスが報道されて、新たなルールが設けられて私たちを縛る紐が更に太くなり、裁かれる人を増やします。それよりも目の前の人と喜べること、愉快になれることを語り合えるように「納税」するために「労働時間・拘束時間」を減らす知恵が必要です。智恵は法律(物理)を掴んでいるうちは湧いてきません。つまり、現代人は物理的豊かさを掴んだ結果、唯心的豊かさを放棄しておりますからバランスが悪いのです。そういった意味では縄文時代が遥かに唯心的に進んでいたと思えますならば、唯心さを退化させてきたと感じるのは僕だけでしょうか・・・・?
 
他人に機嫌をとらせずに、自分で自分の機嫌を取ってくださいませ(o^―^o)ニコ🌞
 
僕の別なアカウント:みんなが救世主💕@casa_c_satake_n
にて↓のリンク「ガンダーラ」を聞いて頂けると、既に縄文時代の遺伝子を「復活・蘇り」を可能にするかもしれません。※息がつまっている方は、何度か繰り返して聞いてみると極楽が見えて来るかもしれませんよ(笑)

https://x.com/casa_c_satake_n/status/1752069808919867427?s=20

「今日、誰のために生きる?」

他を尊重できる器(思想)
アルフレッド・アドラー
健全な人は相手を変えようとせず、自分が変わる。
不健全な人は相手を操作し、変えようとする。
 
自分を愛せるから他人を愛せる
ブンジュ村で教わったショーゲンも
 
念(こころ)が物を動かす
肉体は存在しない。それは「念」の物質化したものである。すなわち「念体」である。
「念(こころ)」に描いた形に、結集するのには時間がかかる。かえって病気の念を起こしたことを忘れてしまっている。いつ種子を植えたか忘れてた時分に花を開いて実を結ぶこともあるのです。念(こころ)が物を動かすのは、どういう訳であるか、無形が有形を動かしているとは?結局「念(こころ)」と「物(もの)」とは、同じ質量のものであるから「物質は無い」といいます。物質という固定したように見えるものは、その実「念体(ねんたい)」である。念が形を顕わしている。心の健康を念ずれば健康な肉体となり、病気を恐れれば病気の肉体となる。
 
恐怖心の正体
会社の仕事を熱心にすると自分の精力が減るから、いい加減に働いていないと損だとなる。この思考は会社と自分というものが離れ離れになって、その間に隙ができているから「生かす」という働きが十分にできてこない、ところが会社の仕事というものと、自分の生命というのは、融け合って本来の自他一体になってくると、はじめて偉大な働きができてくる。上役の目を盗んで、なまけるほうが得だという気が起きると、上役の目の向きを注視するという余計な仕事をも、していることになる。なまけるどころか人の二倍、余計に心労をしなければならないことになっている。その心の使い方は、なんとなく後ろめたい恐怖心のようなものを伴うので、心の使い方が消極的になって早く疲れる。その結果、怠けようとする人ほど神経衰弱になりやすい。
 
一対(いっつい)
元来夫婦とは、二人ではなく。二人揃って完全な一人となるものであります。「妻(つま)」とは「連金(つま)」すなわち連なって一つの完全なものとなり、夫婦が揃って一つの「家」すなわち、家庭が成り立つ、夫婦が揃わねば無限に成長し、永遠に繁盛し、創造を続けてゆくことは出来ない。陽と陰が揃ってこそ火水(かみ)「神」のすべて創造力が発現するのであります。
 
人間知に捉われ分別している
「生命の樹」と「善悪を知る知恵の樹」
 前者は、神によって造られた生命であるから真の知恵を象徴化してあり、後者は「これは悪い、これは善い」と人間知に捉われ分別している。したがって「悪も存在し、不完全も存在する。したがって、病気も不幸も存在する。」物質的知恵を象徴化している。
 
「与えれば自分のものが減る」という理論から出発しているならば、蓄積をつづけていくうちに、その欠陥を暴露するに至る
悪というものは、一時的に善のように見えていても、結果が悪になってきて正体をあらわすのである。昔から美徳だとされてきた「節約」も、それが愛という神の働きを認めず、唯物論から出発して、「与えれば自分のものが減る」という理論から出発しているならば、蓄積をつづけていくうちに、その欠陥を暴露するに至るのだ。唯物論は罪(積、蓄積、排他、流通不円満)の門戸に伏すのだ。平等に分配して見えても結局は、蓄積経済にて、この世を治めるようになる。唯物経済(企業)というものは営利事業であるから兄弟愛などいっていられない、営利事業は営利にならないとみると解雇も殺人も平気でする。それでは、自己撞着(じこどうちゃく)に陥るばかりで、結局は空しき、さすらい人となって自壊するばかりなのです。※自己撞着(じこどうちゃく):表現などが自ら矛盾を来たしていること
 
公的な立ち位置
「自分」というものが本来利己的な存在ではなく公な存在であるという根本自覚から出発すれば、たとえ富のすべてを自分に集めても利己的とは、ならないで「自分がより善く生きる」ということは、全体を「より善く生かす」ことだとなるはず。もし「自分」というものが本来利己的な存在だという自覚から出発するならば、最小限度の生活で生きたとしても、ただ粥(かゆ)をすするだけの生活でも利己的行為だとなるでしょう。ですから自分へ引き寄せる物質の多い少ないとかではなく、自分という存在が①本来、利己的な方向を向いているか?②公的な方向を向いているか?ということによって決まるのです。ですから、われわれは一つの行為とか所有物が利己的とか批判しているよりも「私」という存在が、まず利己的なのか公的なのかという自分の立ち位置を吟味することが、いっそう必要なのです。自分の生活態度の向きを公的存在にクラリと変えると、何をしても自分の行為に公的な実感がともなって内的争闘などということが無くなるのです。
 

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