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愛ということ

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*この記事は冊子「たねのおと(2017年9月)」に掲載いただいた文章を全て引用したものです。改行、句読点などそのまま写しております。
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「青い空と、地平線が見える場所」

CASAに出会った日。
今にして思えば
久しぶりに人生が悲しかった時。
個人的なことで、
例えば、大好きな人に
好きな人は別にいると言われたような
ともに歩くには
あなたで不十分と言われたような、そんな日だった。

CASAのサイトのトップページ。

「家は、人が集い、語り合い、安らげる場所です。
同じものを食べ、喜びも悲しみも分かち合えるところです。

そして一緒に囲むテーブルの上には常に「食」があります。

CASA(家)が人と人をつなぐ場所になり、
一人一人の当たり前の日常が少しでも心豊かな毎日になりますように。」

この場所で私に浸透した時間は
きっと正確には伝わらないような気がする。
それは、私だけの体験だから。
それにこのふくらんだものを
どんなふうに伝えればいいのか
的確な言葉も持ち合わせてないような気がする。

読んでいただいている方々にも
そんな時 そんな場所
それが交差するタイミングがあるはず。
そんなものがあるのだとしたら、事細かに記さなくても
きっと、受け取ってもらえるのではないかという
浅はかな期待を込めて
「CASA」さんで受け取った
「愛ということ」を形にしたい。

12月9日
たねのおと1号が出た頃
その前日の日記には
こう記されている。
「なんで終わりにしたくなるんだろう。大切なはずなのに。」って。
この終わりは何を終わりにしたくなるのか、今では思い出せない。
秋ぐらいから、抜け出せない場所にいるような気がして、
編集部の仲間は未だに
「あこさん あの頃、悲しかったからしょうがないよね。」と言われたりする。

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理由のわからないそんなことを持続していく荒涼とした感じ。
それでも、人は生きていける。

そんな日々、
ある方と出会うためにセッティングされた場所がCASAだった。
行く前から、評判を聞いていて、どうしても食べたかった「おにぎり」。

時間外なのに、出していただいた
それは、圧倒的な優しさの「むすび」になった。
その圧倒的な優しさは、優しさゆえに強烈なものだということに
その時、気づかなかった。
そう 後からじんわりやってくる。

このおにぎりは・・・
「愛されている人が握ってる」
その時、そう思った。

今、さらに思うのは
「愛されて、そしてまた、
何よりも愛してる人が握ってる」

圧倒的な優しさと
愛に満ちた場所。
CASA。
それは、いつの時もどんなでも
ここにあって、なくならない。
その前で荒涼とした自分はここにいてもいいんだろうかと思ったことが何度かある。
食卓の上には、いつも誰かのことを慮(おもんばか)る食が存在して
そして同時に、絶えずオープンハートのこの人たちがいるこの場所で、自分は浮いているのじゃないかとふと思うことがあった。

ずっと私は、
「やりたいことをただやればいい」
そう思って生きてきた。
でもこの日。
たねのおとの取材でCASAさんを訪れた日。
オーナーのJoさんはこう言った。
「やりたいことをただやればいい。
それだけじゃダメなんだ。」
今このタイミングでその言葉を受け取るのかと正直驚いた。

20代中頃までオーナーのJoさんも、やりたいことをやっていればいいと思って生きていたという。
けれど旅の途中、人生を変える一言に、一場面に、出会ったんだそうだ。
「お前の哲学はどこにある?」という目の前の青年の言葉。
「何のために旅をしてるんだ?」というその言葉に、心を奪われ動揺した。
その答えを求める日々の中で、
出会ったものは、今にしっかりつながっている。問いかけにしっかりと向き合ったことで、かけがえのない今に存在しているように見える。

語られる言葉ひとつひとつに、
風景がある。
確かに、そこにその青年は存在し、
そして、彼の哲学がどんどん彩りを増していく。

「お前の哲学はどこにあるのか?」と。
たねのおと。響き始めた。

画面に映し出されるまばゆい笑顔は、何年か前に、Joさん親子がカミーノ巡礼の道を旅した時の映像だった。
830キロ。
2人の愛息子をつれた90日間の旅の記録。
人と人のつながりは言葉を超えた先にある。
親子の信頼は双方で創り上げるもので、最初から「親子」だからではないことが画像から伝わってくる。海外の治安がいいとは言いにくい場所を、小さな子供を連れた旅で、考えられる想定内のアクシデントを最大限にとらえた支度は「愛」そのものだった。
彼らが身にまとったオレンジ色のユニフォームは、カミーノの太陽と同じ色でまばゆい。
愛に飢えていた私がその映像で深く癒され、涙があふれたことを覚えている。

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「あるんだな。」

自分の中に、まるで求めているものはないのではなくて、その「たね」は最初からそこに存在していることに気付かせてもらった時間。
あの時、次号のたねのおとは
この場所のことを書きたいと思った。

本当の愛のことは、一方通行じゃない。その中で完了しているようで
実はまわりに与え続けている。
そして、与えられた側は
自分の中にもちゃんとそのものがあるんだと気づくタイミングが来る。私にとってその時が、そのタイミングだった。

「旅に出ること」
「知らないことを知ること」は誰かを愛することに似てる。
知れば知るほど安心し
知れば知るほど喜びになる。

近所の人に会えば挨拶するのに
知らない場所で知らない人に会ったら、挨拶しないことがいつも疑問だったという。
確かに、外国人の方々は道端で目が合うとニコッと笑顔で返してくれることがよくある。

恥ずかしい。

そんな気持ちが自分の中にあって
なかなか一歩が踏み出せない。

勇気なんていらないでしょう?
知り合いに会ったら「こんにちは」って普通に挨拶するじゃないですか。
旅というシチュエーションは、
そんな非日常を提供してくれる。
いつもの自分じゃない自分を
思い出させてくれるのかもしれない。

Joさんの話を聞いて
旅に出たいと思った。
それも、ひとりで、ゆっくりと
何をするでもなく
出会えていない人に会いたいと。

「川井さんにとって一番大切なものはなんですか?」

Joさんが青年に問いかけられたのと同じ。私にとっては、Joさんのその問いかけが自分を知るきっかけになった。
即答できなかった。
逆に問いかけてみたら、即答で返事が返ってきた。
「僕は人の笑顔です。」
そのきっぱり感にしどろもどろになった。
「なんでしょう?一番大切なもの 自分かなぁ。」なんて適当にごまかした。

その後、ずっと考えた。
自分にとって一番大切なもの。
一番大切なもの。
それが一番であること。
見えてくる顔がある。
浮かんでくる顔がたくさんあって。
何度目かの夜、「つながり」だと気づいた。

私が一番大切にしてるもの。
「つながり」だと、きっぱり言えるようになった頃、今まで生きてきた人生の中で、感じていたどうしようもない荒涼感の原因は
「ごまかしと噓」だと気付いた。

丁寧に生きることに憧れてきた。
そんな人たちに少しでも近づきたくていた。
でも、それは形や体裁だけではなくて、きちんと自分に向き合うことでしか手に入らないことを、今は知っている。
決断のはじまりは自分を知ることでしか始まらない。
自分を知ったときに生まれ出るものがある。
向き合う気持ちが育ててくれる強さがある。
なにより、自分を知ることは
誰かを愛することと同じ。
そして、誰かを愛することは、自分を生きることにほかならない。

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久しぶりに人生が悲しかった時。
生きることに無駄はない。
このタイミングでここに来れた事。
大きな意味がある。

「人はみんな幸せになるために生きているとシスターに言われたんです。
昨日よりも今日、今日よりも明日、1ミリでも幸せだと感じるために生きているんです。」

冒頭に書いたCASAのサイトの
「1人1人の当たり前の日常が少しでも豊かな毎日になりますように。」
この言葉に繋がっていく。

今が、社会の発展と経済活動の行き着いた先にあると信じたい。
この先にまだ進化があるとしたら
それは愛ということに帰結した進化であってほしいと祈る。
時間の概念を超えることは、
1ミリの幸せを大事にすることではないのかと思う。
1ミリの幸せを追いかけることが、今の時間を超えることだとしたら、社会の発展と経済活動の行き着いた場所から抜け出すことはそんなに難しいことじゃない。

難しいことじゃないんだよね。


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(CASAを訪れた日 CASAからの綺麗な夕空)


「旅に出ること」
「知らないことを知ること」は
誰かを愛することに似てる。
知れば知るほど安心し
知れば知るほど喜びになる。
そして、自分に結ばれていく。

大切な人と美味しいものを食べること。
旅に出て、知らない土地で知らない人に出会い、つながりを持てること、それだけで幸せを感じられる。

花を見る。
育てた野菜が大きくなる。
そんなことが、昨日より今日
1ミリ分の幸せを届けてくれる。

夏が終わる。
花火を見ながら
耳に入ってきたのは 秋の虫の声。

愛ということ。
真面目に真剣にとらえ続けた夏が終わる。 あ



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素敵な文章にしてくださった川井さんに心からの感謝と愛を





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