20230311

久しぶりに日記、というか、内省録(?)を書く。
別に何かを深刻に悩んでいるとかではないのだが、
まあ多分単に飲み会の後で身体がだるいがカフェインも摂っているので眠れないし、かと言って仕事をするほどの元気もないから、出張帰りの新幹線の中で時間を持て余してこういう時間を設けてたわけているんだと思う。

前回のnoteは、就職が決まった、という話だったかと思う。

27年間、何か特定の社会的身分が保障されることなんてなかった俺にとって、「就職」という呪いが俺自身にもたらす恐怖は計り知れないものである。
就職を、するという覚悟、つまり腹を括ってからも、やはりそれにまつわる自分の自意識に付き纏う諸々のことを俺は考えざるを得なくて、なんか、「結局、人間はリズムを感じて生きているのであってその波に乗れさえすれば大丈夫なんだ」とか「俺は社交的ではあるが社会的ではないんだ」とか「踊りたいわけではないがダンスができる身体感覚がほしい」だとか「痩せてイケメンになってもっとキラキラと生きていてえな」だとかいう考えが相変わらず頭の中をうぢうぢと駆け巡っている。

環境の変化と言えば、いくつかあって。
4ヶ月前の俺は、就職こそ決まったようなものの、博士課程の修了がまだ決まっておらず、というかむしろ、半年間留年になるんじゃね〜?と思っていたくらいの状況だった。が、修了が無事、そして急に、決まってしまったというのが一つ変化である。

これまでの学生生活においてギリギリの、ヒヤッとする場面は数多くあったものの、決定的な「俺的なミス」、例えば、浪人や留年は全くなく、また、その内容や質自体も、程よく単位を落とし、程よく遊び、程よく握手会に足を運び、難なく大学院への内部進学をして難なく研究をこなして博士課程まで9年間上手くやってこれたと思う。学部から大学院への進学の時に、俺は学生時代に何もこなしていないしこのままじゃ社会に出れない、と思っていたことを思えば、今は後悔も未練もなく、やれることはやった、と言えるだろう。まあ、今思えばその時の理由は、ただ自分が社会に出るほどの人格の統合ができていなかっただけのことを言い訳しているだけに過ぎないのだが。そんな俺が、またギリギリ、ギリギリセーフをやってしまった。別にいつも意図しているわけではなくて、「まあなんとかなるだろう」と思っていて予定通り結局ギリギリのところで踏みとどまってなんとかなったか、「まあなんとかならなくてもいいだろう」と思っていて予想外になんとかなってしまうかで俺の人生は構成されていて、その人生に再現性はないのだけれど、その変遷の中で俺は内省を繰り返して再現性がある(と言いたい)人格を形成して、いまここにいる。

だから、「まあ半年後くらいに就職になりそうか〜」と思って、「半年間ついに留年しちまうか〜やらかしたな〜まあいいか〜」と腹を括っていた矢先、つまり、就職じゃなくて、その前に留年の現実と向き合おうとしていた矢先、その現実が吹き飛んでいきなり目の前に「就職」が飛び出してきた。これが一つ目の環境の変化。

そんなわけで、俺はなんか、そう。ビックリしている。

ここ1ヶ月くらいずっと、ビックリしているのだ。

覚悟は決めていたことだが、いざその現実が目の前にやってくると、「おっ。」となってしまっている。

いつの間にか、半年後だろうと思っていた「就職」が目の前に急にやってきて、「おっ。」と思っていて、段々と、これまでのアルバイト先の在職証明書を出せやらこれまでの卒業証明書と修了証明書を出せやら言われているうちに、「おっ、おう。」となってきたのがここ数日のことだ。

実際、俺自身何か調子が悪いとか思っているわけではなく。例によって、暇は嫌だしなんだかんだ多動だし働いてしまうので、コネで遊び半分でやっているクソハードな仕事をなんか適当にこなしたりしているうちに、ゲロ疲れてブチギレたり、実際働き過ぎて吐くみたいなことを初めて経験したりしたはしたが、なんかもう一周回って、所詮この仕事って俺の人生における暇つぶしでしかないよな、と。もう別にやりたいことも欲求もない俺にとって、ただTikTokで可愛い女の子が踊ってるのを見るのと、チャットツールに流れてくる業務報告に目を通してタスクをこなすのと、別になんの違いもないよな、と。そのバランスって、結局、夜寝る前にTwitter見過ぎたら良くないですよね、みたいなバランス感覚でしかなくて、ああ、結局そう。自律神経のリズムね、っつって。俺がどんなに意味わからん暮らしをしたところでそれも俺が俺の自律神経をどこまでコントロールできるかの話でしかないし、じゃあかといって俺が今更ルーティンみたいな感覚を導入して自律トレして健康に朝陽を浴びるようになったところで俺自身の根本的なところで、なんかストレスが入ってきたらブチギレて深夜にタスクを鬼のように全部片付けるまで寝れないようになってしまうとか、こういう俺の俺らしい根本的なところを全部書き換えて生まれ変わってしまうのってめちゃくちゃ困難だろうなって思ってて、確かに、もうどうでもいいから俺が毎朝ランニングして筋トレするような爽やかムキムキ男になってしまってもいいだろうけど、別にそれは俺の求めているものじゃないというか、爽やかムキムキ男になるゲームをしてるだけであって、結局俺は、どこにも立脚できない、何も同じ「私」や「公」をやってられるような俺じゃねえんだって、いや、がんばったらできるかもしれないけど、べつにがんばりたいわけじゃねーし、俺が「白紙」らしくあるために「白紙」らしくない人格を持つことができるようになることなんかよりも、もっとなんかもっと俺が「白紙」として追究できることってまだまだたくさんある気がする。例えば、彼女は別に要らないし、好きな食べ物はないし、好きな音楽はないし、家は別に要らないし、最近はリュックひとつでカプセルホテルで暮らしている。そのカプセルホテル代はどこから出ているか?それは雇用契約も何もない会社の経費で落ちている。そういう俺が俺の未知の道の上に立つことが結局一番いいじゃん、って言って。ここにいる。

俺が、「俺」になったから、じゃあもう「俺」を頑張る必要なんてないよねって言って、なんか暮らしたってべつにいいんだけど。お坊さんが、仏道修行に満足して、庶民に還って平凡で簡素な暮らしをする、とか。べつにいいんだけど。ゲームをクリアしたから初心に帰って別のゲームを始める、とか。べつにいいんだけど。でも、やっぱりもっと、強くなりてえ。

なんか、もうある程度ゲームはクリアしてしまっている。「白紙」ゲームはもう100点のクリア、100%のトロフィーのコンプが、済んでいる。が、じゃあ、それで、べつのゲーム、べつの人生、平凡な暮らしに行くか、(べつにこの「白紙」にこだわらずに平凡な暮らしをしてもいいよね、だって俺にはこだわりがないし、俺自身にこだわることももう終わったもんね、)と言われると、今はむしろ、「白紙」をすることじゃなくて、「白紙」をするために「白紙じゃない」も平気な顔してできるようになる、とかなんかじゃなくて、「白紙で」何をするか、を、やっぱりやるべきなんじゃないか、って思う。だから、俺は、いくつなっても平気で寝坊をするし、夜更かしをするんだし、定住はしないし、雇われてない会社で働くし、働き過ぎて吐くのはもう疲れたからしないが、かと言って働きすぎることをやめたりはしないし、じゃあ遊ばないの?って言われたら遊んでないわけじゃない。お金はあるのか?って言われたらお金があるわけじゃない。お金がなくても遊ぶし、というか、何も持っていたくない。だから、平気で借金をできるようになったし、自由、そう、自由でいたい。なんか、ズ〜っと、ズズズ〜っと、生きてたいんだよなぁ。死んだっていいやって、なんかずっと思っちゃってて、でも、やっぱ俺が「俺」を行使して生き続けていくためには、何かに染まってしまいたくは、ないよね。そのためには、何もかもを理解、したいよね。俺が、例えば日本の文化に染まって、左から右に流れる文字に染まって、キーボードで文字を書くことに染まって、俺の認知がJapan的であるしても、それを理解、しようと試み続けていたい。そういうことを考えると、俺は、ちゃんといま「人工知能」の「研究者」として、いられているんだと思うし、結局探究者(=哲学者)なんだな、と思うし、「俺」(=「白紙」)なんだなって、やっぱり思う。だから、自分の思っているよりも下っ腹が出始めてきたらムカつくし、身体が思い通りに動かせなくてダンスができないとムカつくし、太っててブサイクでダサかったらムカつく。「俺」が、「俺」の支配下であってほしい。支配下であってここにいてくれないというのであれば、支配下におくための努力(というか思考、理解)を怠りたくはないし、それが物理的に(現実的に)不可能になってしまうことがあるというのであれば、俺はもう死ぬしかない。まあ、死ぬというか、惚れた女に尽くすことだけして生涯を終えるだろう、そこに人格はないだろうが、、、

とは言え、「そこ」はそれはそれで俺の重要な人格のピースであって、結局のところ、俺は高校生の時の彼女がいじめられて鬱病になって母親が死んで孤児になったのを介護して更生させて他の男に寝取られるキラキラした青春を送って以来、もう「そこ」にもう一つ明確に「白紙」があるのだと思う。「白紙」の白紙足る所以、例えばバイタリティとかデカくて頭でっかちで諦めの悪い脳みそとか、コミュニケーションへの執拗な固執とか、ソフトSM専門店に通ってしまうとか、抜きなしの風俗に通ってしまうとか、コンカフェでキャストたちからいじられる立ち回りをしてしまうとか、いつまでも自虐的に振る舞って隙を見せて「ダサい男」で在り続けていたい。「まとも」とかの面白くない制御不能なレッテルはべつにどうでもよい。「意外とまとも」とか「ダサい」とか、そういう、不定な場所にずっと立っていたい。定められたくない。俺の何がわかる。うるせえボケが。って思う。

しかし・・・・・これでいいっ・・・・・!これでこそ博奕・・・博奕だっ・・・・・!

誰にもわかられたくねえから、「白紙」をやめるという形で「白紙」をやるのは、逃げだろう。誰にも追いつかれないように、「白紙」をやり続けなきゃいけないんだっ・・・・・!倍プッシュだ・・・!

だが、、誰にもわかられたくはねえけど、何もかもをわかりたかったし、何より、誰にでも受け入れられたかったんだな、、とは思う。でも、なんかもう満足なのよ俺は、、俺は十分に幸せ者なのよ、、これから先、誰とも分かり合えなくてもいいなと思えるくらい誰かと分かち合ってきたものがあるなと思えるいまの俺がここにいるだけで、もう俺は幸せ者なのよ。。。だからもう終わりです。終わりなんですね。


次の文章は、本当はこの後のオマケの、博論の謝辞の原文のあとにこっそり書こうと思っていたのですが、伝えたくなったので載せてしまいます。


気づけば、もう2時間はほぼノンストップにこのnoteを書いていた。時間の感覚で言えばほんの数十分のことのように感じる。過集中。

このnoteは、この内省は良い作品になっただろうか?べつにいつも、誰かのために書いているわけではなくて、あくまで自分のために、自分にしかわからないつもりで書いているだけだけど、誰かによかったと言ってもらえたら嬉しいし、俺が、「キラキラと生きていられてるか」はいつも気になっている。もちろん、俺は俺を信じていて、俺として生きていくだけだし、たとえ何かズレがあったとしても、それは些細なものとして修正できるくらいの自信、絶対的な評価は既に持ち得ているのだけれど、それでも客観的な評価は気になる、安心する、ありがたいものであるから、もし感想があれば書いてくれると嬉しいです。

みんなは元気ですか?僕は元気です。

岡山から出た新幹線も、もうすぐ、東京駅に着きます。
先週は北海道にいて雪を見たから、間違えて着てきてしまったコートを手に持って、明日からは福岡に行きます。
忙しいけど、自由です。
(博多におすすめの「お店」がある人は教えてください。)

あなたは元気にしてますか?

僕はみんなのことが好きだし、人間を愛しているけれど、俺が俺でいるかぎり友達の誰かのことを思い出して毎月連絡をとって会おうとするような人間にはなれませんでした。

友達って、なんなんですかね?恋人ってなんなんですかね?

何もわかりません。いやわかるけど、べつに正解があるとも思いませんが、俺にとってはそういうものでした。

だから、不義理で、生意気で、甘えてて、ごめんけど、会いたい人や話したい人は気軽に連絡をください。予定が合わないこともあるかもしれないけど、それでも嬉しいです。

べつに会わなくても話さなくても、いいや、わかってるし、って思ってくれてる人は、そのままで嬉しいです。

俺はいつ死んだってべつにいいやと思ってるし、誰がいつ死んだって、まあ哀しむかもしれないけど、悔いなく生きてるつもりだし、あなたとの未練のない思い出がここにあります。

でも、もしあなたがまだそうじゃないっていうならそれはそれで理解できるし受け入れられるから、もっと会ったり話したりして「友人」になりましょう。


以下は、僕が今月に提出した博士論文の謝辞の原文になります。今後、半永久的に残される公的文書にて、俺が多方面に配慮をしながら俺を遺したものになります。べつにおもしろいものではないですがつまらないものでもないので備忘録的に残しておきますが、コンプライアンス的に有料としておきますのでご了承ください。さすがに風俗やコンカフェの話はかけませんでしたが。

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