自我について 2

(このnoteは 2020.09.19 18:30 に書かれたものです)

本文

ここ数日、本当に苦しい日々が続いていた。


自分の自我について考えるとき、それは自分で自分の首を絞めるような、自分で崖に歩み寄っていくような、自分で自分の首に刃を当てていくような、そんな想いに駆られる。

昨日まで、俺が当然のようにそこにあると信じていた自我が、果たして本当に存在するのか、存在していたのか、それを確かめようとする必要があるのだろうか。

でも、俺はそれをやり続けて生きてきた。

俺は物心がついた頃から自分と他人を比較して生きてきて、学生でいる間ずっと自我について悩んでいた。その悩みに答えを出すことができず、悩む時間が惜しくて、社会に出れず、大学院に進学した、のだと今になって理解することができる。

自我についてずっと悩んでいたが、俺は研究者の“方向”に進めば、後悔はないと感じて、結局博士課程に進学してしまった。ちょっと思い違うこともあったけれど、何の後悔もなく、幸せな日々を過ごしてきた。自我に反することは何もなかった。


そんなある日、ちょうど2ヶ月前くらいのことである。ほんの些細な本当に小さなきっかけが積み重なって、俺は自分の自我について、改めて内省する機会を得た。


俺は今まで、

「認められたい」「愛されたい」
「他人に勝ちたい」
「唯一無二の存在になりたい」「自分が無価値であると認めたくない」
「働きたくない」
「自分は何のために生きているのか知りたい」
「自由でいたい」「縛られたくない」
「研究していたい」
「頭を使っていたい」「飽きたくない」
「自分のやりたいことが何なのか知りたい」「自分のやりたいことを知らないのが耐えられない」
「俺の自我が何なのか知りたい」

という流れで自我の変遷を辿ってきた。そして、それに納得して博士課程に進学し、働かず、自由で、縛られず、研究しながら、頭を使って、飽きず、自分のやりたいことや自我について考えながら過ごしていた。


改めて。

そんなある日、ちょうど2ヶ月前くらいのことである。ほんの些細な本当に小さなきっかけが積み重なって、俺は自分の自我について、内省し直した。

その結果、俺の自我というのは、結局のところ「愛されたい」「認められたい」から出発していて、

「自分が好きだ」「理不尽が嫌いだ」「論理が好きだ」「偏見や主観が嫌いだ」「均衡や調和が好きだ」「俺は自分がめっちゃ好きだ」

という結論に至った。俺は、自分のことが大好きで、自分以外に好きなものが手に入る前に完璧主義を患ってしまったから、こんな風に捻くれて自我について考えている、と。その結論に至るために、俺は自分とも他人ともたくさんの時間をかけて対話して、俺はそう感じて、2時間で1万文字のnoteを書いてしまった。そのnoteが「自我について」である。


俺は、満足した。

これまで俺は、自分の自我を信じることができず、それを知りたいという想いが強すぎて、それを知りたいがために自分自身の好奇心や探究心、そして目の前の生活の幸せに満足に没頭することができない、という問題を抱えていた。

でも俺は、「俺は自分のことが好きなんだ」「俺は論理が好きなんだ」という“自我”を理解することができて、本当に嬉しかった。

だから、この2ヶ月、概ね没頭して生きていた。嫌な記憶が何も残っていない。充実した日々を過ごしていたんだろう。

2ヶ月間で、自分の自我についての頑強性を向上させるためにも、自分の自我についての理解を深めるためにも、「自我とは何か」つまり、「自分以外の人間の一般的な自我について」の議論を深堀していた。「論理が好きだ」からね。

俺は「自分の自我が何なのか知りたい」という自我から「自我とは何か知りたい」という自我を持つに至った。

そして、今月に入り、俺はまた他の新たな好奇心、そして目の前の生活の新たな幸せと向き合って過ごしていて、なんだか、疲れてしまった。

いや、疲れが先なのか、沸騰が先なのかわからない。2ヶ月間没頭していた「自我とは何か」についての議論が自分の中で一段落して、改めて「自分の自我」について立ち返ったからなのか。

(ここで今、「自我とは何か」について言及することは控えたいと思う。まだ完全にまとまっているわけではないし、死人が出てしまうかもしれないから。でも、議論したい人がいたら、一緒に議論しましょう。俺は、外界との調和がポイントだと思う。きっと、いくらでも古典に書いてあるんだろうな。)

俺は改めて、「自分の自我」を少しふと考える。

俺は「俺は自分が大好きだ」「俺は論理が大好きだ」という自我を持っている。




…、本当か?



まだ、もう少し深く潜れる余地があるかもしれない、と思った。


「なぜ俺は完璧主義になったんだ?」


「なぜ俺は自分以外に好きなものを得るよりも先に完璧主義になってしまったんだ?」



「なぜ俺は自分が大好きなんだ?」


「なぜ人間は自分を愛するのか?」

「なぜ人間は他人を愛するのか?」

「なぜ人間は怒られたくないのか?」



そう思ったら、いつの間にか、気づいたら夜に寝ることができなくなっていて、朝に起きることができなくなっていた。

また、俺の身体と精神と自我がめちゃくちゃになった。


だから、ここ数日、本当に苦しい日々が続いていた。

いつも頭が冴えていて、動いていて、でもいつも頭が曇っていて、止まっていた。


自分の自我について考えるとき、それは自分で自分の首を絞めるような、自分で崖に歩み寄っていくような、自分で自分の首に刃を当てていくような、そんな想いに駆られる。

昨日まで、俺が当然のようにそこにあると信じていた自我が、果たして本当に存在するのか、存在していたのか、それを確かめようとする必要が、俺にはある。

俺のこれまでの人生の長くて短い時間の間にずっと俺が当然のようにそこにあると信じていた自我が、果たして本当に存在するのか、存在していたのか、確かめなければならない。それが俺の自我であるのだから。



俺が今まで辿ってきた

「認められたい」「愛されたい」
「他人に勝ちたい」
「唯一無二の存在になりたい」「自分が無価値であると認めたくない」
「働きたくない」
「自分は何のために生きているのか知りたい」
「自由でいたい」「縛られたくない」
「研究していたい」
「頭を使っていたい」「飽きたくない」
「自分のやりたいことが何なのか知りたい」「自分のやりたいことを知らないのが耐えられない」
「俺の自我が何なのか知りたい」
「自我とは何なのか知りたい」
「自分が好きだ」「理不尽が嫌いだ」「論理が好きだ」「偏見や主観が嫌いだ」「均衡や調和が好きだ」「自分が好きだ」

という自我の変遷がある。

果たして、この自我の変遷はなぜ起きているのか?何に基づいて起きているのか?

これらの自我の変遷は、どれも誤りじゃない、どれも自我だったと信じたい。

もしもそうなら、これらの自我の変遷のすべてに、俺の自我の根源的な何かから、説明を付けることができるだろう。


「認められたかった」のはなぜなのか?

「愛されたかった」のはなぜなのか?

「他人に勝ちたかった」のはなぜなのか?

「唯一無二の存在になりたかった」のはなぜなのか?

「自分が無価値であると認めたくなかった」のはなぜなのか?

「働きたくなかった」のはなぜなのか?

「自分は何のために生きているのか知りたかった」のはなぜなのか?

「自由でいたかった」のはなぜなのか?

「縛られたくなかった」のはなぜなのか?

「研究していたかった」のはなぜなのか?

「頭を使っていたかった」のはなぜなのか?

「飽きたくなかった」のはなぜなのか?

「自分のやりたいことが何なのか知りたかった」のはなぜなのか?

「自分のやりたいことを知らないのが耐えられなかった」のはなぜなのか?

「俺の自我が何なのか知りたかった」のはなぜなのか?

「自我とは何なのか知りたかった」のはなぜなのか?

「自分が好き」なのはなぜなのか?

「理不尽が嫌い」なのはなぜなのか?

「論理が好き」なのはなぜなのか?

「偏見や主観が嫌い」なのはなぜなのか?

「均衡や調和が好き」なのはなぜなのか?


上記のすべての自我の変遷に答えられる、俺の自我の源泉は何なのか?

別に答えられたからと言ってただの物語付けでしかないが、もしも俺の自我の源泉があるのであれば、少なくとも上記の問いに答えられる必要がある。


俺が自分の自我について20年考えた後、自我そのものについて2ヶ月考えてきて気づいたことがある。

端的に言えば、「自我」とは「社会とのどのように関わるか」である。

「自我」と「外界」、そして「欲求」と「感情」、そして「学習」と「呪い」については、まだもっと掘り下げていきたいところであるが、つまるところ、「呪い」や「構造」に従って人は「学習」をして、また「呪い」を受けて、その「呪い」に基づいた「欲求」が「外界」と関わった時に満たされないと、「自我」が発生し、「感情」が起こる。

社会と関わる必要がないのなら、自我は生まれない。

社会と上手く関われていないなら、強い自我が生まれる。

社会と関わる時に自我が生まれ、感情が起こる。


では、俺の「自我」はどのように生まれ、どのように変遷してきたのだろうか。

俺は何に呪われてきて、何に呪われてこなかったのだろうか。

という問いが生まれる。


もう一つ、気づいたことがある。

ヒトは、社会的な生き物である。他人と関わって共存していかないと生きていけない動物である。なので、社会に所属できないとき、社会から承認されないとき、ヒトはストレスを感じる。これは本能的な不快感である。

そして、ヒトは、知能的な生き物である。虚構に対して興味を持ち、惹きつけられて、未来を考えて、興奮することができる。これは本能的な快感である。もちろん、食欲や性欲を充たすこともヒトの動物的な部分の本能的な快感としてあるだろう。

また、動物は、外敵から危害を加えられた時や生存が危ぶまれるような時に、ストレスを感じるだろう。これは動物としての本能的な不快感であり、ヒトもその感覚を持っている。食欲や性欲が満たされない状態も、同様にストレスであるかもしれない。


ヒトは社会的な生き物だ。他人と関わって共存していかないと生きていけない動物だ。だから、社会から排除されるとき、生存が危ぶまれて動物的な本能として強烈な不快感を覚える。

人は、誰しも怒られたくないだろう。特に日本人は怒られたくない傾向が強いと言われている。謎の呪いだ。しかし、そこは問題じゃない。

怒られるということは、自分への否定を表す。それはつまり危害である。あるいは、怒られるということはその社会での失態を起こしたことを表す。これはつまり、その社会における自分の価値を貶める行為、排除される可能性を高める行為だ。だから、人は誰しも怒られたくない。


俺もヒトである。

俺も、怒られたくない。

俺も、俺が属する社会から排除されたくない。


外界に対する防衛本能がはたらく。はたらいてしまう。

これは、本能的なものだ。

人間の動物的な本能として、俺は他人から怒られたくないし、外界の均衡や調和を求めてしまう。


俺が今まで求めてきた「欲求」、俺が理解して見てきた「自我」は、すべて、この本能的な性質から、得られているのだろうか?


脳は、身体の一部である。

思考も、意識も、自我も、すべて身体の一部である。


身体は、生きてきた環境から経験し、学び、脳の神経回路の結びつきが弱くなったり強くなったりして、思考や、意識をつくるんじゃないか。?


自我だけが、「身体は、生きてきた環境から経験し、学び、脳の神経回路の結びつきが弱くなったり強くなったりして」作られていないなんてわけが、ない。


もちろん、自我は、往々にして具体性を持つ。

こんなことがしたいとか、こんな家に住みたいとか、こんな人と結婚したいとか。


だが、それらは主観的なものである。

俺は、主観を信じることができない。

主観的なものでしかないからである。


主観的なものは、自分の考えでしかない。

自分の身体が、これまで生きてきた環境から経験し、学び、脳の神経回路の結びつきが弱くなったり強くなったりしてできた““だけ””の「直感」や「意識」や「思考」や「好み」や「偏見」なんてものを、どうして信じることができるか?

俺は、そう思って、「自我について」という記事を書いた。

俺は絶対的な価値観だけを求めて、主観に頼らないようにして、自分とは何か、自分はどこに向かっているのか、考えようとした。

そして、「自分が大好きなんだ」ということに気付いて、「自分は論理を信じれるんだ」という定理を導いて、俺は、満足した。

満足して、論理を使ったり、自分のこれまでの経験や直感を使ったりして、世の中のヒトがどんな自我を持つだろうと、一般的な理論を考えてみた。


そしたら、どうだ?


自我というのは、身体から生まれる。それは当然だ。

身体は経験から学ぶ。それも当然だ。

経験というのは、主観の塊でしかない。


そうなったら、薄々、わかってはいたけれど、やっぱり、自我って主観的なものでしかないんじゃないか?

俺の絶対的な価値観なんて、わかりようがないんじゃないか?

第一、「俺は自分のことが大好きだ」ということの、絶対的な根拠はなんだ?

完璧主義だから?一番最初に好きになったものだ?自我が芽生えるのが早すぎた?

何を言っているんだ?2ヶ月前の俺が何を言っているのか、全然わからない。

いや、俺は2ヶ月前に、確かに、感動してしまった。幸福の絶頂にいたことを覚えている。俺はあれから、本当に幸せに2ヶ月間、没頭して過ごしていた。

しかし、それがどうだ?あの感触はなんだった?マヤカシ、嘘、虚実だったのか?

俺は馬鹿なんじゃないか?

どうして、そんな、あんなことが言えるんだ?

自分のことが大好きだから、そう言っちゃうんだろうな。


自分のことを25年間、考え続けたくらいで、自分のことが大好きだとか、自分が完璧主義だとか、何を言っているのかわからない。

本当に、俺は論理を大切に思っていた。

そして、俺は論理をこれからの武器にすることを誇りに思っていた。

しかし、どうだ?蓋を、開けてみたらどうだ?

そんな拙い論理だったのか?

なぜ俺は完璧主義になった?なぜ俺は自分のことが大好きだったのだ?

そんなこと、直感や主観でしかないだろう。

本当に呪われていないのか、そんなことわからない。少なくとも、何かの呪いがそこにある。

「論理的飛躍がある」と俺には見えた。

俺は論理が見える。これは紛れもない能力で、25年間内省し続けてきた俺に授けられた宝だ。

宝だ。だが。これがなんなんだ?

こんなものが何の役に立つんだ?

生きるための役に立つ?

研究の役に立つ?

社会の役に立つ?

やりたいことの役に立つ?

何を言っているんだ?

自分が何をやりたいのかすらもわかっていないのに。


俺は何がやりたいんだ?


俺は、他人から怒られたくない。自分を馬鹿にされたくない。愛犬に手を噛まれたくない。小指をベッドの角にぶつけたくない。数学を馬鹿にされたくない。自分の揚げ足を取られたくない。偏見の目に晒されたくない。差別を見たくない。カレーライスが好きだ。完全食が好きだ。野菜よりも肉が好きだ。ショートカットの女性が好きだ。でもロングの女性も好きだ。太ももに性的魅力を感じる。俺は論理が好きだ。俺は論理的矛盾を孕んでいる言動が耐えられない。でも人生は自己矛盾を孕んでいるから生きづらい。でもそんな中で何もないようにヘラヘラと道化をして振る舞って生きているのが好きだ。そんなヒトが好きだ。そんな自分も大好きだ。俺みたいな性格の人が好きだ。俺みたいな容姿の人も好きだ。俺の元カノみたいな容姿の人が好きだ。俺の推しメンみたいな容姿の人も好きだ。中学校の時の同級生のYさんみたいな顔の女が好きだ。でもSさんみたいな女の人も好きだ。優しい性格の女性が好きだ。余裕のある人間が好きだ。自分の芯のある人間が好きだ。自分の考えで生きていて自我を持っているように見える人間が好きだ。幸福に向かっている人間が好きだ。でも、俺みたいにヘラヘラと自己矛盾に苦しむ姿を隠している馬鹿も好きだ。ノーフォーク・テリアが好きだ。昔飼っていた愛犬が好きだ。トカゲが好きだ。ウーパールーパーが好きだ。サメが好きだ。カモも好きだ。カルガモが好きだ。サギもカッコよくて好きだ。俺は数学がちょっと好きだ。きれいなところ、嘘がないところ、すべてが正しいところが好きだ。でも数学が嫌いだ。俺は研究が好きだ。でも研究が嫌いなところもある。俺は科学が好きだ。でも別に科学にこだわりはない。俺は「エモい写真」が好きだ。「エモいツイート」が好きだ。「エモい女」が好きだ。メンヘラの女の雰囲気が好きだ。おっぱいはちょっと好きだ。小さくても大きくても別にどっちでもいい。でも、そんなに好きじゃないな。俺は人間の思考が好きだ。俺はわけのわからないものがちょっとわかりそうな瞬間が好きだ。俺は踊っている女性が好きだ。音楽ができる女性が好きだ。何かの一芸に秀でている人間が好きだ。特に、演奏中に身体全体を使って波に乗っている女性はエロすぎる。興奮する。数学をやる女性が好きだ。数学をやっているのに社交性もある人間が好きだ。日本語が得意な人間が好きだ。諧謔心や遊び心のある人間が好きだ。夜更かしが好きだ。朝まで話せる仲間が好きだ。友達が好きだ。数少ない友達が、俺の思いをわかってくれたときとか、俺の言いたいことを理解してくれたときとか、同じ思いでいるときとか、何も言わなくても通じ合っていると錯覚できる瞬間が好きだ。俺は、人間がたぶん好きだ。俺は人と話すことが好きだ。昔からたくさんの人と話してきて、人との話し方をたくさん考えてきて、人と仲良くしてきて、その瞬間は、痺れる。駆け引きを感じる。ゲームが好きだ。俺はゲーム自体も好きだ。RPGもシミュレーションゲームもパズルゲームも育成ゲームも好きだ。なんでも好きだ。別に得意だなんて言えやしないけど、なんとなく初見のゲームでもやり方がわかって楽しめる。最後までやり抜けたゲームなんてそんなにないけど、俺はゲームをたくさんやってきた。俺はフリースタイルラップバトルも好きだ。即興感とか韻の応酬とか、プロレス感とか、信頼関係とか、言葉のセンスとか、音のノリ方も好きだ。そもそもプロレスもいい。闘いが好きだ。格闘技も面白い。トレーニング方法、戦略、戦い方、格闘技に限らず、頭と身体を使うことが好きだ。俺は身体を使うことは別に好きじゃないけど、身体を使うことを考えるのが好きだ。俺はホワイトボードが好きだ。自分の頭が広がったような感じがする。見晴らしの良い場所が好きだ。自分は自由になった感じがする。空の広いところが好きだ。近所の田んぼ道も好きだ。山の上も好きだ。自然に囲まれているのも好きだ。都会の喧騒も好きだ。高いビルの中を歩いているのも好きだ。道ゆく人が何も興味がなさそうにしているのも好きだ。みんな同じ顔をして、美人な人が多いのも好きだ。美人な人が、酔っ払っていたり、ギャップのある話題をしているのも好きだ。都会で倒れている酔っ払いやホームレスが好きだ。たぶん俺は、社会も好きだ。たくさんの人がいて、その中に自分がいて、働いたり働かなかったりして、もちろん、ずっと働くことは俺にはできないだろうけど、1日だけ働いたりした日には、満足感でいっぱいになる。バイトだって、そんなにしたことはないけれど、俺の今のバイトは一応特殊で能力が認められていて、それなりにお金がもらえていて、生きているという実感、俺は俺らしく生きていられるんだ、と信じることができて、本当に良い。余計なことを考える余裕なんてなくなっちゃって、本当にたまらない時間であることがたまらなく悔しくて仕方がない。イベントスタッフなんてやったときや、派遣で力仕事をやったときなんかは、世の中の人間たちが本当にちっぽけに見えて、別に嫌な意味じゃなくて、色んな人がいると感動した。この人は、毎日頑張っているんだろうな、と思った人に怒られた時、俺は本当に哀しくなったし、その人と帰りに雑談をしたり昼飯の弁当を食った時に俺は本当に幸せな気持ちになった。俺はネットカフェの空気感が好きだ。静かで、何もなくて、自分で自分の時間を買ったような気分になれる。どれだけでも漫画を読んでも良いのに、結局好きなAV女優の動画を探して、寝てしまう。俺はそんな時間がたまらなく好きだ。俺は、アングラな空気が好きだ。ドラッグをやってる友達も大好きだ。JKリフレも大好きだ。モテないおっさんしかいかないような店に、俺みたいな若い客がいってちやほやされるのも、信じられないような視線を向けられるのも好きだ。ふつうの女子大生が、おっさんたちに神経をすり減らして、厭世観に満ち満ちていることを知れる瞬間が好きだ。そんな相手に少し優しくしてやって、自分の優越感を満たせていると錯覚できる瞬間が好きだ。池袋や秋葉原の、リフレやメイドのキャッチが好きだ。大宮の風俗のキャッチが好きだ。ピンサロの、あの禍々しい不思議な世界観が好きだ。栃木の田舎のヤンキーたちがたむろしているのも好きだ。田舎道で寝っ転がることができるのも、好きだ。友達とシーシャでダラダラして水タバコを吸っているのも好きだ。ニコチンなんて好きじゃないけど、ちょっとタバコはカッコいい。タバコを吸ってる女が好きだ。ハグしたい。キスはしたくないけど。俺は、ハイソサの人間たちも好きだ。権力を振りかざして、能力はなくて、親の七光で生きているだけの人間が大好きだ。可愛げがあって、馬鹿で、そこに媚びへつらうたくさんの烏合の衆を見るのが好きだ。烏合の衆の中に混じっている優秀な側近を見るのが好きだ。参謀はどの世界にもいる。優秀なやつが優秀足る所以はそういうところにあると感じさせられる。優秀な人間が力を振りかざして、すべてをめちゃくちゃにしてしまうのが好きだ。社会を少し動かせるような大金を、一本の電話で動かしてしまう瞬間に、俺は戦慄し、魅了される。この世界がいかにくだらないものなのか、この社会がいかに小さなものなのか、俺がいかに虫けらなのか、痛感させられる。そして、そんなヒトでも俺の能力を認めてくれる瞬間が好きだ。そんなヒトの前で緊張してしまう俺の弱さが好きだ。そんなヒトに次第に緊張しなくなっていく俺の強さが好きだ。たくさんの社長と会うのが好きだ。実業家と会うのが好きだ。若手の社長も、やり手の社長も、野生的な社長も、夢がある社長も、とにかく楽しいことが好きな社長も、みんな自我があるように見えてかっこいい。これから社長になろうとする友達もみんな好きだ。責任を取ってまでやりたいことがあって、本当にかっこいい。そういう人は、往々にしてイケメンで、身のふり方をわかっていて、頭がよくて、能力が高くて、笑顔が素敵だから、良い。そんなヒトたちと一緒に仕事ができる俺が好きだ。でも、研究者も好きだ。趣味に生きる人も好きだ。妖怪と呼ばれる、自分の欲求だけに邁進しているような奴らが、たまらなく好きだ。何を考えているんだろう、その人の源泉はどこにあるんだろう、と考えるのが好きだ。楽しい。そういう人たちともっと会いたい。別に社会的に意識は高くないとされるんだろうけれど、それでも自分のやりたいことは何なのか見つめ続けて、社会なんか気にせずに、自分の道を突き進んでいる人たちが本当に好きだ。そういう人たちと話すと元気をもらえる。自分も頑張ろうと思える。そういう人たちと励まし合うとやる気になる。そういう人たちに力を与えられると元気になる。でも、俺みたいな厭世観マシマシのやつと、この世の憂いを語り合っている瞬間も好きだ。ストロングゼロを飲みながら、明日からの虚無感について語り合っている時間が好きだ。虚無だけど、虚無だから、前を向いていこう、いや、前なんて向かなくても良いから、ちょっと座って、なんか酒でも飲んでりゃいいか、っていう、そういう瞬間がたまらなく好きだ。いつ死んだっていい、別に後悔はない、元々やりたいことも大それた夢もない。俺はただただ時間を無碍にすごして生き永らえているだけの人間で、たまに人と仲良くして、たまに仕事して、たまに好きな人作って、たまに遊んで、たまに映画見て、たまに泣いて、漫画は結構読んで、そんな人生でいいじゃん、って思い合える仲間が好きだ。漫画は結構好きだ。漫画の作者の人間性が見える漫画は特に好きだ。やっぱり人間性が好きだ。俺は人間が好きだ。夢を持っているやつも、夢を持っていないやつも、好きだ。俺は人間が好きだから、誰にも苦しんでほしくない。苦しんでいる人を見ると助けたくなる。何でその人が苦しまないといけない社会なのか理解できない。俺が苦しくなる。だから考えることをやめる。俺は自分の世界に閉じこもる。俺は俺のやりたいことをやって幸せになって、周りの人と仲良くしていればそれだけでいい。俺は、他人の気持ちや感情なんて考えたってつらいだけで、身近にいる人は幸せにしたいけど、世界中の人を幸せにできるわけなんてないし、人生自体に意味なんてないし、生きている意味なんて誰もないんだから、俺が生きている意味だってないし、考えることをやめよう、自堕落に、自傷行為として生きていこう。たまに飽きたら遊ぼう。そのくらいが俺にはちょうどいい。そのために博士は自由でちょうどいい。俺は好きなようにのらりくらりと生きていければいい。俺は




俺は



俺は、

何がしたいんだ?


俺は何がしたいんだ?


俺は何がしたいんだろうか?


俺には好きなものも主観も偏見も、何もない。

全部、全部嘘だ。

俺の好きなものはこんなにたくさんあるけど、俺が好きなものなんて何もない。


俺がやりたいことはなんだ?

俺って何だ?

何のために、こんな馬鹿げたことをずっと考えている?

俺にとって、上で書き連ねた「好きなもの」は一体なんなんだよ。


嫌いだ。何もかもが嫌いだ。

俺は、何も信じることができない。

信じたって、その次の瞬間に、「俺は本当にそれが好きなのか?」って、悪魔が囁いてくる。

天使が「大丈夫。信じて良いのよ。ついでに社会に出たら幸福になれるわ。誰かと結婚しなさい。子供を作ったら幸せよ。」って、悪魔が囁いてくる。


嫌いだ。何もかもが嫌いだ。嫌だ。

俺の周りにあるもの、俺の記憶にあるもの、俺を俺たらしめるものすべてが、俺を否定する。

俺の精神が俺の精神を否定して、俺の身体が俺の身体を否定して、俺の人生が俺の人生を否定して、俺の自我が俺の自我を否定している。

俺をたらしめるものなんて、あるないるなるあるいいあ のか?

俺の自我はここにあるないあるないあるなあるあるないないああるないるなあるないいあるあるなあるないあるないいないいあいああるるああないあるないあるあるないないああるないるなあるないいあるあるなあるいあるなあるなあるいあるなあるないないああるないるなあるないいあるあるないあるなあるないあるないいないるあいあるないいあるないいないあるあるないあるないないああるないるなあるないるなあるないあるるああるないなないああるないるなあるないいあるあるなあるないあるいあるあるないるあないああるないるなあるないいあるあるなあるないあるないあるあるないなああるなないるなあるないいあるあるなあるないあるるいあるななあるないあるあるないないるあああなるないるなあるないいあるあるなあるないあるいいあるあるなあるないああるああるるなあるないあるあるないないああるないるなあるなるなあるないあるあるるあないないああるないるなあるないいあるあるなあるないあるいいあるるなあるなるるいあるあるないないああるないるなあるないいあるあるなあるないあるあるなあるないあるるなあるないあるあるないないああるないるなあるないいあるあるなあるないある


そうやって、俺は生きてきた。ずっとずっと、ずっとずっと。


未来の自分から借りた金で完全食を買って飲んで、それで浮いた時間でベッドの上で喚いて生きていた。

幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、幸せになったり、不幸になったり、

何が、楽しいのか。

俺がずっとこうやって生きていたことを思い出す。


俺は、何が、やりたかったんだよ。

俺の、自我ってなんだよ。

俺は、ただの俺で、ただ、こうなってしまっただけなんじゃないか?


偶然生まれて、偶然両親が離婚して、偶然母方の祖父母の家に預けられて、偶然何不自由なく育てられて、偶然ゲームばかりしてて他人に負けるのが嫌になって、でも勝てっこない世界をしって無気力になって、偶然数学が得意で、偶然数理科学科に進学して、偶然研究に興味を持って、偶然頭を使うことが好きになって、偶然自我を追い求めたくなって、偶然自分が大好きだと錯覚して、偶然論理を求めることになって、偶然論理ができて、偶然均衡と調和を求めて、偶然怒られたくないという本能に気づいて、偶然そのように神経回路が構築されてしまっただけなんじゃないか?

偶然、外界に対する防衛本能が強くなって、怒られないために外界と均衡する対話術を獲得して、それによって何不自由なく平和に学生生活を送り、でも、自分のやりたいことや快感を満たすための手頃な趣味を見つけることができず、ただ無気力に過ごしていて、たまたま数学で快感を覚えて、数学ができると勘違いして、数学のことばかり考えていたら研究できるようになっていて、何をやりたいか決めかねて考えていたら進学することになっていて、なんとなく自由そうだったから博士になることにして、偶然今に至る。

俺は、ずっとずっと、怒られずに気持ちよくなりたかっただけ、なんじゃないのか?

怒られずに気持ちよくなれるなら、それだけで良いんだろ?

たまたま俺にとっての怒られずに気持ちよくなれる方法が見つからなかった人生だったから、困ってるんだろう?


馬鹿だ。


何不自由なく育って、甘えて生きて暮らしてきた結果がこれだ。

自由に、色んな社会を渡り歩いて、俺はこいつらのどれにも優っていると、心の中で勝ち誇っていて、結局俺は何者にもなれやしない。

ただ、自分を信じることのできない、屁理屈が得意な馬鹿だ。

馬鹿なくせに、嫌われない技術だけは一丁前で、飄々と暮らして、表面上の付き合いで「自分を理解してもらえない」と泣いている。

深い関わりになることは、自分が傷つけられるかもしれないと思って逃げて泣いている。

感情を向けられることが怖い。

好意も、嫌悪も、全部嫌いだ。

何があっても、人間の感情という主観が怖い。信じられない。そこに何があるのかわからない。いや、わかる。理解できる。そうなんだと。

しかし、それを受け入れると同時に、俺の心に黒い影が射すのがわかる。

俺は、受け入れられない、他人や社会の感情を、どうしても受け入れることができない。

俺は、偏見を持ちたくない。偏見を持つことがこわい。

だから、他人の主観を受け入れることができないんだ。

俺は、本能的に、外界から、社会から排除されたくない。

そして、どの社会からも絶対に排除されたくない。

俺は、全ての社会で、毅然として俺らしく、カッコつけて振る舞っていたい。

強く気高く、俺らしく燦然とそこに、どこにでもいたい。誰とでも関わりたい。誰にも嫌われたくない。本当に怖い。どんな主観も受け付けずに、どんな主観も理解して迎合し、トイレでゲロ吐いて帰るような飲み会ばかりだ。

それでも、俺は嫌だ。本能的に、どうしても嫌なんだ。

俺は、すべての「呪い」が嫌いだ。

すべての主観が嫌いだ。

すべての偏見が嫌いだ。

すべての直感が嫌いだ。

すべての感情が嫌いだ。

すべての矛盾が嫌いだ。

すべての意味ありげなものが嫌いだ。


知っていた。

俺はずっと、すべてのものが嫌いだった。


忘れていた。

でも、わかった。

俺がすべてのものが嫌いなのは、俺が好きだからじゃないんだ。

俺は、怖いんだ。俺は、俺以外のものに意味があるのがこわい。

俺以外のものが直感を持つことがこわい。

俺は、どの世界でも生きていたい。そういう自由さがほしい。

俺は、どんな人とでも仲良くなりたい。そういう調和がほしい。

俺は、そのためにどこかに囚われたくなかった。すべてに反抗して、すべてに迎合して、自分のことだけを苦しめて満足して生きている。

俺は、すべてに勝ちたいのではなくて、すべてに負けたくなかったんだ。

呪われたくない。何にも。俺にも。


俺は生きていたいから、俺はどこでも生きていたいから、

誰にも嫌われたくないから、どんな社会でも怒られないでいたいから、

俺は調和を求めて、俺は社会に呪われたくない。


俺が社会を嫌いだったのは、そういうことだったんだ。


すべての怖いもの、すべての主観が、いやだ。

俺自身が主観を持つことだけなんかじゃない。すべての主観がいやだ。

でも、俺は生きていたいから、自分を殺してでも、刃を喉元に突き当てながらでも、それを隠して、毒に染まった傍から肉を削ぎ落としながら、俺は、どこまでも身軽に、自由に、ふらふらと、何も持たずに生きていく。

絶対的に、何も持たない。怖いから。


世の中の理解されていないもの、科学的に解明されていないもの、説明できないもの、論理的に説明ができないもの、すべてが、直感で、すべてが、毒で、すべてが呪いで凶悪だ。

嫌だ。すべてが嫌いだ。何も受け付けたくない。


でも、だったら、

だったら俺は、すべての呪いを見つめていくべきだ。

すべての毒を飲み込んで吐き出さないと、俺は毒に染まるかもしれない。殺されるかもしれない。そんなの嫌だ。怖すぎる。

偏見を持ちたくない。だから、すべてを理解する。

どんな社会でもハブられたくない。どんな直感も耐えられない。だから、すべての直感を破壊する。殺す。勝つ。

破壊できない直感を、じっと眺める。あとで殺すと狙いを定めておく。絶対に忘れない。

俺の中にも、本当は直感がたくさんあるんだろう。だが、絶対に忘れない。絶対に直感を思い出す。

世界のどこまででもいく。

宇宙のすべての直感を殺す。

そうでもしなきゃ、耐えられない。

俺は怒られたくない。俺は自由でいたい。好きな時に好きな風に過ごしたい。

だから、すべてを看破する。

すべてを見つめて理解して、そっと生きていたい。


未科学とされているすべてのものを科学にしたい。



「すべてのものに呪われたくない」という呪いだけが、俺にある。

俺の自我は「すべてのものに呪われたくない」だ。

それは、防衛本能から導かれる。

本能的な快不快を、俺は偶然絶妙なバランスで満たされたり満たされなかったりして育った結果、俺の本能は「すべてのものに呪われたくない」という自我に変容した。

わからない。また変わるのかもしれない。

でも、それで良い。

「防衛本能があるから怒られたくない」ので「すべてのものに呪われたくないためにすべてのものを理解する」。

これが俺の新しい自我だ。

誰に怒られても構わなくなるか、誰にも怒られなくなるまでは、俺は今の俺でいられるだろう。


俺は怒られたくないだけなんだ、と、俺は本能的に快と不快を求めていただけなんだ、と、気づいてしまえば、俺の上に乗っている他の余分なすべてのものが、見える(と信じたい)。

そしたら、俺が俺の上に余分なものを自由自在に付け替えることができるようになるだろう(と信じたい)。


すべてのものが嫌いだ。だけど、清々しい。

すべてのものが好きなんじゃないかとも思える。


俺は、すべてのものを受け入れても良くなった。

別に俺は、すべてのものを好きになっても良くなった。

だって理解したくてたまらないんだから。

この世のすべてに俺は誠実な態度を向けることができる。




本当に、本当に下らないことだ。


本当に下らないことだ。

好きなように生きるのが正しいと、本当はずっとわかっていた。

本当はずっとわかっていたけれど、信じることができなかった。

自我なんかに縛られずに生きていくことが、本当に正しいことなんだとわかっていた。

自我なんて嘘で、やりたいこともやるべきことも嘘で、ただ、自由に生きていくべきだとわかっていた。


それなのに、俺はできなかった。自我を、どこまでもどこまでも突き詰め続けて、すごく小さなダイヤモンドを一つ作って。

25年もかかった。長い?短い?ダイヤモンドが生まれるよりは短いかな?

哀しい。虚しい。悔しい。

俺は今まで何をやっていたんだろう。


25年あれば、大きなダイヤモンドをいくらでも掘りにいけたんだ。

こういう、弱さがある。こういう、呪いを持っている。


こんなにも清々しいのに、こんなにも先が明るいのに、なんだかよくわからない気持ちになってしまうのは、一体何の呪いなんだろうか。


ただ、自由に生きたらいいんだよ。人生に意味なんてないんだから。

って、誰もが言っている。誰もが知っている。俺だって気づいてた。


自分は自分なんだし、自分がいないなら自分はいないんだから、自分は好きに生きていいんだってわかっていたけど、俺は、俺のことを俯瞰で考えて、呪われていないのか確認しながら生きていく日々を選ぶ。でも、本能以外のものは呪われなんだから、実質、すべて呪われたままであって、好きに生きたら良い。飽きたら外せば良い。それだけのことだ。嫌だったらやめればいい。それが普通の考えだし、理想の生き方だし、理想の考えだ。


下らない。

本当に下らない。


やりたいことはなんですか?そんなもの、すぐに変わるでしょ。今やりたいことをやりなよ。

ただそれだけのことなのに。俺はずっとやりたいことを探して、あると錯覚したり(錯覚なんてそもそもないのに)、そうやって悩んで闘い抜いてきて、結局「未科学を科学したい」。つまり、知的好奇心の赴くままに生きたいだけじゃん。俺がこれから先の未来とこれまでの過去でやりたかったことの最大公約数を取っただけ。

長く長く研究してきた俺のことがわかってよかったですね?

でも、そんなことわかっても何の意味もないですよ?

やりたいことはこれまでもやってきたんだし、これからもやっていくし、本能的な不快と快を求めているだけで、何を偉そうなことを言っているんですか?


俺は何と闘っていたんだろう。

本当に幸せで、本当に虚しい。


一人で何日傷ついて、一人で何十日喚き散らしていたのか。

一人で何百日痛めつけて、何千日泣き叫んでいだのか。


またどうせ、自我とは何か考え直す時が来ちゃうんだろうと思う。

俺の気づかないうちに俺の知らない呪いにかかって。本当に下らない。


今の俺には、付け外し可能な武器が、たくさんあるだろう。

どれも、生きていくために便利で役に立つ。

だけど、それが何なんだろう。


今まで、本当に長くて、苦しくて、辛くて、痛くて。

今は悔しくて、哀しくて、虚しくてたまらない。



俺が今まで闘ってきた証があるとして、俺が闘ってきた意味はなくて。


本当に幸せで、本当に虚しい。


俺はすべてのものが嫌いだ。




でも、俺は自分がちょっと好きだ。



ちょっと喜ぶ可能性があると思われます