私が「白紙」になった話

次のような問いを受けた。

白紙さんご自身は「白紙のような状態」になるまでに、どんな呪いをどのように解呪してこられましたか?

このnoteはそれに対するアンサーである。

⚠️この記事は「白紙」に関する重大なネタバレを含みます⚠️

スラムにおける「呪い」と言われる用語は、「(少なくともいまの状況では)逃れることができなくなってしまっている不快な状態」として扱われていると思います。
一般に、「呪い」を解呪するためには、自分の置かれている状況を正しく認知しなおしたり、自分の歪んだ認知を正すなどして活路を見出だしたりすることによって行われているかと思います。そのために、誰かに相談したり、占いをしてみたり、自分探しの旅に出たり、ぷろおごに奢ったり、うつ病になってしまって治療したりするのだと思われます。

また、この不快の中には、満たされない欲求への渇望なども含まれており、お金がほしいとか、綺麗な女の人と遊びたいとか、モテたいとか、そういった煩悩に囚われている状態も「呪い」に含んで良いのではないかと思います。
ここで、「白紙のような状態」として自然に想定されるのは、煩悩がなく、呪いもなく、まっさらで清い、まるで悟りのような状態のことを指すのではないか、白紙さんは仏道修行をしてきたのではないか、と自然に考えが浮かびます。
実際、私の現時点の認知や思想や仏教と似通っている部分もかなりあり、例えば「諸行無常」とかはかなり私の認識に近く、特に概念や言語、人の認知はその時々の文脈で意味が変わるもの、つまり無常のものである、というような認知を持ちながら人と会話してしまっている感覚があります。僕が冗長的な言葉遣いばかりしてしまっているのもこの性質に起因してると思いますし、まさに白紙的なコミュニケーションを行っているということにも、この「諸行無常」的な思想および感覚が繋がっていると思います。

一方で、僕は仏教徒ではありませんし、仏道修行もしてきませんでしたし、仏教にも全く詳しくありません。煩悩とひたすら戦って捨ててきて聖人になった、という感覚は全くありません。
ーーーさんからの問い「白紙さんはどんな呪いをどのように解呪してきたか」「それは他人とどのように違うか」に答えるとするなら、僕の向き合ってきた呪いは「自分の存在に対する絶対的で完全な肯定がなされ得ないことに対する逃れられない不快」です。私は、ずっと、幼少の頃から形を変えながらこの呪いと闘ってきたのだと言えます。当初は、或いは当時を思い出して見ようとすれば、必ずしも最初からこのように明確な形で呪いを言語化(認識)できていなかったでしょうが、その呪いの種は紛れもなく昔からあったと思います。そして、自分の環境やちょっとした能力が、その呪いの種を肥大化させて成長させていく過程で、僕を「白紙のような状態」にならざるを得なくさせました。段々と少しずつ「白紙のような状態」を深めていったのです。

すごく端的に言うなれば、「負けず嫌いだから僕は一番になりたかった」「けどなれない」というのが一番最初の呪いです。子供は、バカで、目の前のことにムキになって、負けたら必死に勝ち上がろうとします。僕はちょっと変わった子で、少し俯瞰で斜に構えて物を見て、「どうせ頑張ったところで上には上がいるから負ける」「俺が“完璧に”(“絶対的に”)勝てるにはどうしたらいいか」「そんなものない」「だから何もやる気ない」そういう不貞腐れたガキでした。
特に生活や家庭に不幸はなく、ただ自分の存在意義がわからず、自分の存在価値を認められず、かと言って卑屈になるでもなく友達と仲良く遊び、しかし趣味はなく、興味を持って始めたゲームはランク落ちして萎える、そういう生活を過ごしながら「負けたくない」「自分の存在を証明したい」「一番(唯一)にはなれない」「だから何もやりたくない」「なんのために生きているかわからない」「でもなんか生き永らえてしまっているし不幸も何もない」「自分のやりたいことはなんだろうか」「闇雲に何かに手を伸ばせない」「もし何か不意に幸福や熱中を見つけてしまったら、そこで自分の人生は凡人として終わってしまうかもしれない」「僕が僕として生きて死ぬために、その唯一性をどうやって証明することができるか」「いや、そんなことできやしない。人間は所詮ただの生物の一個体であり、本能に突き動かされて生きているし俺もその一人だけど、でも本能だけに従っていることには耐えられない。そこには間違いなく幸福があるけど、自分の存在を絶対的に肯定するほどの幸福はない。俺の存在を完全に肯定するような俺の生き方は何か?」「就職できない。就職したら間違いなく仕事終わりのビールに至上の幸福を感じて俺は消えてしまう。」「結婚できない。結婚したら間違いなく愛する家内と子供の顔を見て確約された幸福を感じて俺は消えてしまう。」「精神科に通院できない。通院したら間違いなく向精神薬で交感神経を落ち着かされてセロトニン受容体のはたらきが活性化されて今まで見てきた不幸を見間違いだったかのように見捨てて俺は消えてしまう。」「何もできない。」「何もするべきではない。」でも、誰かに頼るわけにはいかない。自分主体で何かをしたいということがないのだから、誰かからの誘いを断れない。何もできないのだから、誰かに迷惑をかけられない。自分は、自分の存在を肯定するために何をしたらいいのかわからないから何もかもすることをやめた。でも自分が今乗っている電車からは降りられない。降りるという選択肢がない。俺には一体何ができるのか?俺は何をしているのか?俺は何もせず何もできずすべてを拒否して見下していながら、すべてを受容してヘラヘラと取り繕って何をしたいのだろうか?いや、僕は結局自分のことが大好きなだけで、自分の存在を肯定したいというだけだったのだ。自分が大好きなので、ずっと自分が絶対的に肯定されることだけを求めていたのだ。そして、その行き過ぎた呪いが主体性のなさを生み、主観的に自分を肯定することができなくなり、主体性のなさから、特定の視点から見た客観的に自分を肯定することもできなかった。ある快楽、ある賞賛、ある評価、ある勝利、ある幸福、ある人生では自分の人生を肯定できない、俺が俺としての唯一の人生を達し得なければならない。たった一個人の人間が、人間という種を超えて、生物という枠を超えて、ただの個としての絶対的な意味をその人生に宿さなければならない。しかし、そんなことはできるわけがない。でも、俺はその呪いを解かない限り「何もできない」。何をやるにしても「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」「why?」のメタ視点の問いの連続が鳴り止まない。なぜ鳴り止まないのか?なぜ俺は俺の人生を俺に問い続けているのか?なぜ俺は俺のことが大好きなのか?どうすれば、自分しか持ち得ないその人生の意味を、主観的でも客観的でもない絶対的で完全な視点で、俺は俺の人生を肯定することができるのか?


いや、俺は「何もしない」のではないか?


俺は「何もしたくない」から「何もしない」のではないか?


俺は「自分の存在に対する絶対的で完全な肯定がなされ得ないことに対する逃れられない不快」を感じ続けたかったんじゃないのか?


「自分の存在に対する絶対的で完全な肯定がなされ得ないと理解していてもなおそれを志し続けること」だけでしか、俺は俺として生きられないのではないか?それをしているときだけ、俺は俺でいられたのではないか?

俺の本質は 「こっち側」 にあったのだろうか?

そういえば、俺のこの問いを立てる能力は「自分の存在に対する絶対的で完全な肯定がなされ得ないと理解していてもなおそれを志し続けること」によってのみ得られたのではないか?

そういえば、俺のこのコミュニケーション能力は「自分の存在に対する絶対的で完全な肯定がなされ得ないと理解していてもなおそれを志し続けること」によってのみ得られたのではないか?

そういえば、俺のこの生きていける環境は「自分の存在に対する絶対的で完全な肯定がなされ得ないと理解していてもなおそれを志し続けること」によってのみ得られたのではないか?

そういえば、俺は「自分の存在に対する絶対的で完全な肯定がなされ得ないと理解していてもなおそれを志し続けること」によってのみ得られるものをたくさん持ち合わせているのではないか?

そして俺は、ただの「負けず嫌い」で良かったのに、ただの「几帳面」で良かったのに、ただの「完璧主義」で良かったのに、概念を多角的に文脈と論理からしか見ることができずに「一般化」を好んでいたら、「完璧に一般化された負けず嫌い」、すなわち「自分の存在に対する(主観でも客観でもない)絶対的で完全な肯定」を望んでしまったのではないか?

つまり、俺は「自分の存在に対する絶対的で完全な肯定がなされ得ないと理解していてもなおそれを志し続けることしかできない人」なのであり、自分の存在の絶対的な肯定だけが俺にとっての本当の幸福で、そこに至るまでの幸福も人生もすべてが無関係だった。「自分とは何か?」と問い続けるだけの人生だった。そして、それでも良いんじゃないかとすら思った。

でも、俺が一般化された。俺は一般化された。「自分とは何か?」と問い続けるだけの人生を送ることだけが俺そのものだった。俺は、俺という概念を多角的に文脈と論理から一般化して理解した。そしてそれは完全に論理的に閉じている。俺は俺自身の存在を、仮定を必要とせずに、俺も他人も何もかも用いずに絶対的に記述したと言っても良いだろうと思った。そう感じた俺はその時、幸福感に包まれていた自分を感じることができたのである。

私は私になった。

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