18. 言語の違いが意味するもの

「ヒトの体と脳というハードウェアの中に、基本機能として人類共通の『ある一定の思考方法』と『言語の文法』が入っている。現在認識されうる『違い』はその変化形であり単なる地域差」といった類の考え方は腑に落ちない。そもそもそれが正しいのなら、今ここで疑問に思っているような疑問は起こらない。こういう疑問が疑問として誰かの中に生じる時点で、理論としては破綻している気がしなくもない。

基本、異なる自然・立地条件下で棲息する中で、見聞きした物事や体験した事象を特定の音に置き換えて蓄積していった先に、必要に応じて形成されてきたものが「言語」なのだと思っている。そもそも適応してきた・認識してきた現実の環境・状況が異なるのだから、それに応じて成立させてきた「言語」も、それで言い表せる「概念」も「考え方」も、土地によってそれぞれ異なる、というのは決して奇妙なことではない。その地での生活の必要性にあわせて、「考え方のロジック」すら本当は異なると思っている。

言語の違いとは、本来、適応環境の違いに基づく、世界の認識の仕方の違いなのだと思う。言語によって、人々が脳内に描いている「擬似現実」のあり方も、その認識の方法も少なからず異なる。

当然、「適応環境の違い」の中には、自然条件の他、立地条件があり、多民族・多言語との交流(抗争)が含まれるが、それはひとまず置いておいて、ヒトの「擬似現実」の認識の仕方について、ざっと整理しておきたい。

言語が成立し、さらにそれを具現化できる「文字」が成立し、「知識」として幾人もの「記憶と体験」が蓄積されていった先に、文化と呼ばれるものがあると考えている。人間は、おおまかに

①現実の出来事を認識する部分
②言語で表された他人の経験を認識する部分
③上記2つを使って、現実には無いものを想像する部分

を使って、頭の中に「擬似現実」を作り上げる。この中の現実の認識(①)・知識(②)と空想(③)の区分けが付かなくなった状態が、ヒトが「狂っている」とみなされる状態で、その区分けが出来るか出来ないかは、とても繊細なバランスの上に成り立っていると考える。

③の中で、ヒトは荒唐無稽な妄想の他に、「思いつき」「発明」「創造」と呼ばれる「目の前の現実を認識し、様々な知識と感覚を駆使して理由づけし、まだ存在はしないが実世界に存在しうる何か」をも想い描く。これを実際にヒトの手で実行すると、これまでは存在しておらず、人間の頭の中だけにあった「何か」が現実世界に実在するようになる。

人工物は全てそうで、こうなると、頭の中に描いたものが先行し、現実の存在がその後に来ることになる。さらに、その存在が現実に生み出されて以降にその存在に触れる次世代は、現実として認識するものが人工物ということになり、そのあたりから「現実」と「頭の中の擬似現実」の区分けが怪しくなってくる。

ある程度文明が成立して以降の「人間社会」は人工物に囲まれており、人間は、物質的にも制度的にも「ヒトの頭が出発点のもの=人間の『想像』から生み出されたもの」に囲まれて生きている。それをまた現実として認識しているので、ヒトの頭の中に認識される擬似現実と、実際の現実との見分けはつきにくくなる。

本当のところ、「人間社会」は人間が現実世界の中に生み出したヒトの棲息空間に過ぎないわけだけれども、周囲で認識できる現実が、ほぼこの「ヒトの棲息空間」になってくると、「ヒトが認識する現実」と「現実そのもの」が同義であると勘違いをしてしまいやすくなる。ヒトの棲息空間を内包して存在する「現実」と、棲息空間内でのみ展開する現実の区分けがしにくくなる。さらにその「棲息空間」と、「それを頭の中に認識したもの=擬似現実」との区別もつきにくくなる。

基本的に、この「ヒトの頭が出発点である考え方」が大元になっているのが、大雑把に言って「西洋の考え方」なのだろうと思っている。それは、「科学的思考が成立し」て以降もまったく変わっていないのだと思う。そして、そういう世の捉え方をするようになっている大きな理由の一端が、ラテン語の存在であり、キリスト教の存在であり、さらに言えば、おそらくはヘブライ語の存在であり、ユダヤ教の存在なのだろうと想像している。

そして、ざっくり言うところの漢字文化圏に属する言語を使う人々は、伝統的には「そういう世の捉え方=ヒトの頭が出発点である考え方」をしていないのだと考えている。

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