ここではないところ

毎年、決まって訪れるまちがある。海のそばで、人の気配はたくさんあるのに、まち全体に静かな時間が流れている。今年もそこに出掛けて、ただぼんやりとそのまちの空気を吸って、海を眺めて、路地裏に猫の姿を追いもとめて、小さなアイスクリームをたべた。訪れるたびに、いつかここで暮らしてみたいものだという気持ちになるけれど、そこで毎日寝起きするようになると、こうして毎年恋しくなるようなまちの空気や色や何もかもがやがて見えなくなっていくのだろうということもわかっている。当たり前になることで、感じ取れなくなっていくもの。でも、失ってはじめて、その存在をもう一度思い出すこともあるだろう。思い出さないことも、もちろんある。

「架空のまち」を想像するのが好きだった。精巧なジオラマでも、物語の中の舞台でも。別にファンタジックな趣をもとめているわけではない。隣町へつづく線路と電車、駅前には小さな百貨店、商店街には八百屋や魚屋がならび、住宅街に差し掛かると学校に病院、そして公園。まちをゆるやかに分かつ川の向こうには、大きな町工場。そんな、どこにでもあるような規模の土地での暮らしを、そっと思い描いてみるような子どもであった。だから、自ずと地図を眺めるのが好きになった。社会科の時間には、授業をきいているふりをして、心は地図帳の中の見知らぬ場所へとトリップしていた。あの頃は、大人になればどこにだって行かれるし、暮らせると思っていた。

長くひとところにとどまっていると、まるで古くなった蝋のように、表面がゆるゆるになってとろけてしまって、その場所にぴったりと張り付いてしまうのではないかしらと、時々こわくなる。やがてどこへでも行ける、という心持ちでなければ、自分がだんだんとその影を失っていくような感じ。気が付いたらその土地の一部になって、誰からも見えなくなって、声を上げても気づかれないような。現実にはそんなことは起こりうる話ではないとしても。いつだって、自分の居場所にしっくりこない、というような拗らせ気味の感情は、地図帳とともにあったあの日々からちっとも変わらず、今日も電車に揺れながら通り過ぎ行く街並みでの暮らしを想像してみるのだった。

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