タイムパラドックス

 最近流行りの曲を聴きながら、もしタイムトラベルをすることが可能ならば、いったいわたしは何を望むだろうか、とふと考えてみる。人生のある瞬間に立ち戻って、かつてとは別の選択をすること、し損じたことをやりなおすこと、あるいは躊躇したことに真っ向から挑むことーーそんな心残りがあるだろうかと。

 人生で失敗をした経験は、運良く記憶から溢れ落ちたものをわざわざかき集める苦労をせずとも、目の前に堆く積まれている。思慮が浅い人間ゆえ、ずいぶん昔のことながら、今思い返しても赤面するような失敗も数多い。(こうして思い返すことで、さらに記憶というのは定着し、もはや忘れることさえかなわなくなるという現実と向き合いながら。)

 それでも安易に決められないのは、それらの失敗もどれかひとつのピースを取り上げてやり直し、また元のとおり嵌め直すという塩梅にはならないだろうと思うから。やり直した途端にそのピースの形は変化し、隣のピースからいま現在に至るまですべての形は元の形にあらず、ということになるのだろう。それを覚悟の上でその時点からの人生をやり直す勇気があるかと問われれば、なかなかに悩ましい。もっとも、さまでの取り返しのつかない失敗を経験していないからだと人が言うのであれば、それはなんとも幸運なことなのだけれど。

 ただひとつ、自分の生きてきた中では「あと10年後に出会えていれば」「10年前に出会えていれば」あるいは「今しか出会えなかった」というような人やモノ、コトとの邂逅があって、こればかりは必然であるという確信とか、また逆に思うままにならないことの歯痒さとか、ありとあらゆる千々に乱れる思いが付き纏っていることは間違いない。すべては神の思召しなのか。たとえ都合よく、10年後の街角を出会いの起点にすり替えてみても、然るべきときであれば惹かれあった人と、同じように道を交えられるとは限らないのですよと諭されるのかもしれない。

 自分の未熟さや身勝手をほんの少し克服して、見えていなかった景色に圧倒され、それから時を巻き戻して会いにゆくことがかなえば、結末は変わったのだろうか。互いの嫌なところを見ないで、もっとやさしくなれたのかしら。出しそびれた手紙や、書きすぎたメールーーうまく届くことのあたわなかった言葉たちが、時空の中で彷徨っているのをひたすらに眺めるばかり。

 片づけたはずの陶器の小さな破片が、忘れた頃にちくりと指の先を刺すように、目の前、そしてこの人生の果てまでに与えられるすべての巡り合いを愛おしみ、慈しむことを忘れるなかれ、かすかな痛みとともにわたしの心を諫めていく。

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