旅立ちの季節に

かつて、瀬戸内のあるまちに住んでいた。

凪いだ海では色とりどりのフェリーが、ねむたい汽笛を鳴らしながらのんびりと島々を行き来している。鷹揚なまちで、路地裏ではいただきさん(魚売り)が投げてよこした魚のあらに、どこからともなくしっぽをひらひらやってくる猫。商店街の角の肉屋さんのコロッケを揚げるこうばしい香りに誘われる制服の学生たち。

台風の時期をのぞけば、どの季節も気候は穏やかで、夏も日差しの強さはあれど、都会にありがちな身体にまとわりつく熱気はない。からりとした冬には、一年で数日、雪がちらつくかどうかという程度。そんな地域で長くうろうろとしていたので、未だに盆地のような極端な気候に慣れることができない。

くいしんぼうのわたしが恋しいのは、めばるや舌平目などの安い地魚がこれでもかと言わんばかりに並んでいた食卓。ちょうど今くらいの春のはじめには、子持ちの飯蛸の煮付けたものが、飽きるほど食べられた。鮭や鮪といった定番の魚を食べる機会がないほどに、店先は旬の瀬戸内の幸であふれていた。かえすがえすも贅沢な日々であった。

住めば都。こだわる心を持たず、その土地の懐に飛び込み、あらゆるものを享受すれば、暮らしは豊かになる。わかってはいるのに、こと瀬戸内を回想するときだけは、かくのごとくエスノセントリックな様相を呈してしまうのだ。自分という人となりが完成する前の柔らかいときに何巡もした春夏秋冬は、大人になった今でも、暮らしの尺としてしっかり刻みこまれてしまっている。

そんな思い入れのことを、多くの人は故郷と呼ぶのかもしれない。けれど、わたしは、自分の寄る辺となるひとーーこそが故郷であって、あくまで土地は土地に過ぎない、というような気がしている。自身も愛着のあるひとも、必ずしも共に過ごした場所にとどまっているわけではないし、誰しも土地に縛り付けられるべきではないと思っているから。無論、望んでそこに居続けるということはできるわけだけれど。

干支を何周かしたいい歳になれば、すべて自分の思惑のとおりには生きられなくなってくる。朝に思い立って、その日の昼に列車に飛び乗って旅に出ることさえままならない。それをしがらみといえば聞こえは悪いが、その不自由さは、社会にちゃんと根を張って踏ん張っていることのあかしでもある。決して疎んじるばかりのものでもない。でも、時折自分の裁量の余地をたしかめるみたいにーー雲隠れして、かつての自分の足跡を探しに出掛けてみるというのも、いい。

#エッセイ #似非エッセイ

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