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表現の不自由展騒動およびTwitterを見てて最近思うこと

子供の頃、祖母に信号の使い方を教えてもらった時のことを覚えている。記憶が曖昧なのでもしかしたら母親だったかもしれないし両方だったかもしれないが、おかげで今でも信号を無事渡ることができている。

電車に乗るときはまず降りる人を待ってから乗るようにしている。待たなくても逮捕されることはないが、そうしたほうがみんな得するしみんながそうしてくれてるから自分もみんなのためにそうしている。

ソーシャルメディアでは毎日交通事故が起きている。災害といってもいい。自分が災害の一部になっていることに気づいていない人が、自分の手にしているスマートフォンが包丁であることに気づかないままむき出しに生きている。そういうことを想像するのが苦手な人が多い以上、ソーシャルメディアで何をやっていいのか、何をやるべきでないのかを、信号の渡り方や電車の乗り方と同じようにマナー/ルールとして議論/明文化して教育していかなければならないのではないか。インターネットがインフラである以上。

スマートフォンを手に持ったまま子宮から出てくるような世代は今の地獄から自然と学んで今よりは平和なインターネットを形成してくれるかもしれないが、今の地獄を変えるにはどうしたらいいのだろう。Twitter社が画期的な言論統制を行うのが手っ取り早そうだが、それにも問題しかない。今はなんの影響力も持たない1ユーザーとしてインターネット空間の片隅に独り言を置いておくことしかできないが、どうあるべきか考えたことを書いておこう。


・知識不足かつ感情で批判するべきではない

問題や文脈への理解/知識の不足は、炎上への批判が建設的ではない理由の大部分を占める。感情による物量的批判は議論ではなく恫喝である。ましてや脅迫などはただの犯罪である。

・私刑は憲法違反である

一定数の個人にとって「悪いこと」をしたやつは正義の名の下に言論的リンチをされるというのが我々が今生きている地獄である。魔女狩りと同じように炎上という言葉が社会科の教科書に載るだろうし、未来から見ればそれぐらい愚かに見えるのではないだろうか。

・嫌いなものを排除するべきではない

誰しも嫌いな人はいるでしょう。嫌いな人に対して推奨されるべき態度は「攻撃」ではなく「無視」なのではないか。例えば嫌いな人に嫌がらせをする人間がいる職場が地獄であることは簡単に想像がつく。あなたが誰かを嫌っているのと同じように誰かもあなたを嫌っている。嫌いを越えて実害があるときには声をあげるべきではあるが。


「青は渡る赤は止まる」「降りる人が先」みたいな小1でもわかるレベルの優れたルールとまではいかないまでも、これを意識する人が増えればましになるのではないかと思うのですが、、、。面と向かった時にはできる日本人お得意の「気遣い」を匿名になったときなぜできないのか。現実とネットがTwitterによって接続されたことによって2ちゃんねるが現実を侵食する感覚というか。包丁も車も薬も凶器になりうるけど、便利に使いこなせるのが人間だと信じています。

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