娘の背中
昨日、高校3年間のしめくくりであるダンス部の自主公演が開催。
3年生になってアメリカの世界大会、神戸の全国大会、各所でのイベント参加も文化祭もなくなり、唯一自分たちの3年間を披露できる時間だった。
去年の自主公演で「来年は義母と実母と義妹も一緒に見たいね!」とワクワクが止まらずに帰宅。
まさか今年こんな事態になり、開催を祈るように1年過ごすとは思わなかった。
義母も実母も義妹もそんなわけでご一緒できず、主人と三女をなんとか引き連れて、次女の晴の舞台を見に名古屋入り。
ここまで来た道のりを思い返すと、舞台に上がってマスク越しに笑顔いっぱいの彼女を見ただけで泣けてくる。
ここで彼女がダンス部に入り、ここまでこれたのも3.11がきっかけだった。
小学3年生で被災。
aichikaraの代表 石原杏莉さんと出会い「子供たちを継続的に見守ってくれるキャンプに出したい。三春やいわき、郡山の中通りのこどもたちにも保養キャンプを!」と伝えたのが始まりだった。
人前で泣くことのない次女が好んでaichikaraのキャンプにいき、4時間泣き続けたのはもはや逸話。
「それだけ心を許したのだから」
「杏莉さんにまかせます」と電話越しに伝えた。
杏莉さんは戸惑ったかもしれないけれど、震災後、心を硬くしていた次女の心が溶けたのだと嬉しかった。
「高校は名古屋に行きたい!」と言い出した中学2年の夏。
本気度を確かめるため名古屋の校長室で談義。
「ダンス部はハードだ。親のサポート無しに高校生が一人暮らしでできた前例はない。」とやんわり断られたはずだった。が、彼女は諦めなかった。
家計的にも物理的にも難しいかもしれないけど、こうならこうなる、と伝えたら
お得な塾をさがし、自習時間も効率的に使い、成績をブッチギリに上げ、推薦枠をとれるようにしてきた。
「Kちゃん、伸び代しかなかったんだね。笑」
彼女は本気だった。
「お父さん、Kちゃん本気見せてきたけど、どうする?」
「俺たちも本気見せるしかねえべ」
入試の時にはインフルエンザ。インフルエンザ枠で受験。
受験監督の顔見知りの先生もインフルエンザ上がりだった。笑
aichikaraさんの目の届くところで始まった高校生の一人暮らし。
食事も洗濯も、お弁当も、部活も。
「こんなはずじゃなかった」ときっと彼女も思ったことはあっただろう。
休めない体にメンタルも崩壊。いつ行っても笑顔はあまり見れなかった。
「やってみてわかることだってあるんだから、福島に戻ったっていいんだよ。」
それでも彼女には前しか見えてなかった。
「ここでやる」という覚悟しかなかった。
そして引っ越し。大家さんの一室をお借りすることになった。
一緒に暮らしを気遣う余裕もなく、大家さんにご迷惑をかけ、再び引っ越し。
部活や学校で120%やってくるが、家族や身近な人への配慮の余裕がない次女。親としては彼女の生存を確認してくださる方がいるだけでありがたかった。
高校から歩いて行ける距離に引っ越した途端にコロナ禍。
電車に乗らず、ギリギリまで寝て起きてお弁当つくって学校へ行ける!と喜んでいたのも束の間。数々の大会が中止。
それでも彼女は「うん、しょうがない。」とあまり腐らなかった。
「友達は泣いてるけど、Kちゃんはしょうがないと思ってる。」と。
3.11を経験して自分の予定通りにいかないことは世の中、山とあることを知っていたのかもしれない。
昨年決まったアメリカの世界大会への出場も中止になり、全国大会も中止、先生やコーチが部員の能力と気力を保つためにやってきた工夫たるや、頭がさがる。
それでも「踊る」という表現を身につけた子供たちは強かった。
互いに励まし合い、抱き合い、のりこえてきたこの3年間は一生の宝物。
地味なひとつひとつの技を何回も何回も練習し、ひとつに仕上げてきた。
その思いを想像しただけで号泣できそう。
側にいれなかったから、オンタイムでは関われなかったけど
わかったのは「やりきる」覚悟。
彼女のダンスを見るたびに私にもスイッチが入る。
自分の欲しい未来は自分が創るもの。
誰と創るのか、誰と。
震災から10年。振り返ると私の人生のビジョンは一変した。
「福島に暮らせてよかった」
今は心からそう思う。
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