シャンフルーリ「日本の諷刺画」第4章:日本の民話や民衆画に見られる人間の諷喩としての動物

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多くの日本の画集に、狐の絵が見られる。人間の服を着て、人間の仕草や仕事を真似ている。狐は、日本の民話や伝説に登場する唯一の動物というわけではないが、猫や鼠やノーザンパイクや蛸よりも重要な位置を占めるのだ。狐の狡知と奸計は、西洋で中世仏独の諷刺詩に多く見られるように、東洋でも古代より寓話に表わされ、よく知られてきたようだ。

伝説が民族から民族へと伝わったのでないことを確かめてはいないが、わたしはむしろ、様々な人種に共通する観察の基底があり、結果として同じ詩作あるいは諷刺の想像力を働かせるのだと考えている。

概念の流通において日本人は偉大な借用者であり、動物が不思議な役割を演じる伝説を創作するにあたって、中国人から影響を受けたようだ。おそらく日本人は、自分なりの見方で、隣国の民俗信仰の物語群を拡張し加工したのだ。類似する特徴を認めないことは難しい。

中国の物語を集めた『世界を驚かせる物語集』〔Histoires à réveiller le monde〕(アルスナル図書館に抄録版がある)という分厚い集成には、田舎で狐の熟考を邪魔したためにワン=チン〔Wang-Tchin〕なる人物の身に起こった災難が列挙されている。

野生の狐2匹が古い木の幹にもたれて一冊の本を開いていた。文章の上に手を置いて、まるで本文の不明な箇所について意見の分かれた碩学ふたりが議論しているようだった。ワン=チンは悪戯心を起こし、弩でもって狐めがけて弾を放った。狐たちは傷つき、草の上に本を残して逃げ去った。それを拾って読もうとしたが、ページはおたまじゃくしのような解読不能の文字で埋まっていた。

この一件のあと、狐仙はあらゆる妖術を使って魔術書を取り戻そうとした。ワン=チンは上等な服を持っていたが、身支度をしようとすると絹の服は干乾びたバナナの葉になった。紗織りの帽子は枯れた睡蓮の茎編みになり、輝く翡翠の服飾りは腐った柳の幹を切ったみすぼらしい木片になってしまうのだった。

行く先々で蛇が這い、虎が跳ねた。狐たちが持っていたのは神聖な書物で、とても大切だったのだ(テオドール・パヴィエが中国語から訳した『短編小説選集』の「狐仙」を参照のこと〔« Renards-Fées » dans Choix de Contes et Nouvelles, traduits par Théodore Pavie, 1839〕)。

魔術書を読む狐仙という中国の物語を、日本人は丸ごと寸劇にするのではなく、とても博学そうな鼠に作り替えている。これが、教授の親切な指導のもと本の文章を研究する鼠たちとして北斎が描いているものだ〔『北斎漫画』十編「家久連里」〕。

ヨーロッパ人は、猫のいない図書館で本の活字を「貪る」齧歯類、という象徴を絵から見て取る〔仏語の「貪るdévorer」にも「本を熱心に読む」という意味がある〕。しかし、どうして日本の藝術家の知性を複雑にし、二重の意味による解釈を上乗せするのか?人間の行動のひとつを鼠の戯画で描けば、何でも楽しめる民族を面白がらせるには充分なのだ。

日本人は他のところで狐に重要な役割を与えた。われわれの仙女物語と同様、ある王子が美しい娘と激しい恋に落ち、どこでも彼女に近づこうとする。ある晩、彼女が菊の褥で寝入っていると、王子は着物の裾から狐の尻尾が出ているのに気づいた。全身が少しずつ狐の姿に戻りつつある妖女の魔術を止めようと、恋する王子は狐の頭に矢を放つ。翌日、その娘はいつのものように美しい姿で現われたが、額に傷があった。それきり、王子の恋煩いは治まった。

ミットフォードは『昔の日本の物語』で、狐の評判を落としてはならないことを示す別の伝説を語っている〔Algernon Bertram Freeman-Mitford, Tales of Old Japan, 1871〕。

ある晩、宴会客のひとりであった徳太郎が、豪気なところを見せようと、狐の手柄を伝えた同座の者に異を唱え、作り話だと決めつけた。

その晩はそれでお開きとなった。徳太郎は家へ帰るため森を抜けようとした。森のはずれを狐が横切って消え、すぐに若い娘が現われた。狐が化けたに違いない。徳太郎はその若い娘の話を聞き、会話を楽しんでいるふりをした。けれども、着物の裾から狐の尻尾の先が揺れていないか、とくと見つめていた。

ふたりは娘の両親の家に着いた、それは徳太郎の知っている家だった。

――わたしがお連れしたのは、あなたがたの娘さんだと思いますか?彼はこっそり両親に言った。

――もちろんです。

――騙されてはいけません、あれは性悪狐です。

――わたしたちの娘が!狐ですって!何と失礼な物言いでしょう!母親が答えた。

ふたりを納得させるため、徳太郎は娘を腕でがっしりと掴み、めった打ちにして獣の姿に戻らせようとした。しかし、あまりに強く殴りすぎ、妖女と言われた娘は地面に倒れて死んでしまった。

憤激きわまった両親に呼び集められた近所の人々が徳太郎に飛びかかった。危うく死にかけたが、通りかすがりの僧侶が殴りつける者たちを引き離して庇い、剃髪して入道すれば許してやろうということになった。

徳太郎は観念して、髪を剃りはじめた。しかし、すっかり参ったまま、半ば上の空だった。

突然、この不幸者の耳に高笑いが聞こえた。日が昇っていた。徳太郎は森のはずれにいた、前の晩に狐を見た場所だ。夢だったのか?狐を貶したから化かされたのか?目をこすると、徳太郎は頭が坊主になっているのに気づいた。恥ずかしくなって自分の家に戻った。しかし周りの者が狐にやられたと言って馬鹿にするので、ついに徳太郎は自ら出家することとなった。

別の話では、狐は親切な存在として擬人化されている。北斎は画集で、それを描こうとしたようだ。小舟で川を渡る旅人を助けたり、疲れながらも森で刈った重い柴束を背負ったりしている〔挿絵を見ると「かちかち山」の狸と兎のようだが出典不明〕。

柴束を背負う狐の絵は、貧者に対する一種の憐憫を表わしており、日本の戯画家の筆にはあまり見られない感情である。

同じ画集には、雨の中を行進する武装した狐の一団も描かれている。銃や軍旗を担ぎ、太鼓を先頭にして、皆うなだれて諦めたように歩いている。絵師の意図としては、雨の印象と、その雨のせいで長い行軍中の折目正しい兵士たちが気落ちしていること以外は分からない(143頁の挿絵を参照のこと〔挿絵省略〕)。

ヨーロッパの古い笑話と同様、民俗信仰において狐は重要な位置を占めている。日本人の言う「狐の嫁入り」は、フランスの農民の言う「悪魔が女房を殴っている」にあたる諺である〔どちらも天気雨のこと〕。

日本の作家は、狐を猫や狸と競わせて楽しむ。この三人衆は、人間を苦しめたり困らせたりする特権を、存分に行使するのだ。

その武勲を語る見事な小咄の数々を本にすれば何冊にも亘るであろうし、日本人にひとつ物語を頼むと必ずこの三勇士のひとりを挙げることから始めるほど広く流布しており、フランスにおける『長靴をはいた猫』や『青い鳥』と同じくらい有名なのだ。

とりわけ猫は日本の噺家の題材となってきた。その顔つき、しなやかさ、艶めかしい伸び、猫なで声、盛り上がった敏感な背中、打算的な擦り寄り、猫を詩人の親友とする瞳の動き、こうしたものが日本人を魅了し、巧みな戯画の題材となってきた。既に『猫』〔既訳を参照のこと〕で詳細に扱ったが、そうでなければ喜んで長話をするところだ。その本に載せた面白い版画について、わたしは幾らでも讃辞を述べられるのだが、書店に並ばなくなって10年は経った。

また別の動物、蛸は日本の沿岸部では実にありふれたもので、この国の絵師にとって重要な空想の題材である。ときに絵師は蛸を人間と魚の合わさったような姿に変え、頭の平たい蝮ほどの脳みそも入っていないような伸びた頭で描く(174頁の挿絵を参照のこと〔挿絵省略〕)。

ノーザンパイクと狐と馬が同じ動きをしているものについては、本物の日本学者に任せ、そのような場面が出てくる画集の文章そのものに当たってもらおう。しかし、そうした動物の描写に諷刺的な特徴を見出し、厳しい御法度の制約について述べたところで日本の絵師にも言及している、ある旅行者の見解を載せておかねばなるまい。

「もっとも、大名坊主、さらには大君のことさえも、こっそりと慎重かつ控え目に笑ったり、芝居や浮世絵で歌舞伎役者〔空いばりする兵士の役を表わすmatamoreを、見得を切る歌舞伎役者の訳語としている〕や狐や鼠や鼬の姿にして諷刺したりすることは、全く妨げられていない」〔エメ・アンベール『日本図絵』の書評から引いている。Charles Defodon, « Compte rendu sur Le Japon illustré » dans Revue de l'instruction publique de la littérature et des sciences en France et dans les pays étrangers, 23 décembre 1869〕

(訳:加藤一輝/近藤 梓)

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