シャンフルーリ「ロマン主義のエピグラフ」

【シャンフルーリが19世紀フランス文学のエピグラフ盛衰を回顧的に論じた文藝批評です。()は原註、〔〕は訳註です。出典は「月刊 本〔Le livre : revue mensuelle〕」誌の1881年11月10日号にあるEssai de classement méthodique des Epigraphes romantiquesです】

わたしの思い違いでなければ、エピグラフの使用は外国の、とりわけイギリスの作家に負うている。ウォルター・スコットは、自身の小説の様々な章の前に、これから舞台に乗せようとする感情の本質を表わす引用を載せている。そのように置かれたエピグラフは、講壇に立つキリスト教の説教家が聖書から引いた一節を註解し、説教のあちこちに神髄を行き渡らせようとするのに似ていないではない。

フランスのロマン主義者たちは、こうした外国からの輸入品に熱中した。本文の「天」に置かれた数行の短い素描は読者にとって魅力的だろうと思ったのだ。自分が幅広く読書していることや、知られざる本を研究していること、完全に忘れ去られたゴシック作家を無から救い出していることを、そこで誇示する作家もいた。流行も混じってエピグラフは変化した。学術的なものから、脅迫的な、情熱的な、嫌味な、報復的な、くだけた、嘲笑的な、そして時にはわざと理解不能にしたものへと変わっていった。

エピグラフは当初、中世好きの小説家は勿論だが、女性を主に描く心理小説作家に用いられた。政治家や革命家、思想家、モラリスト、人道主義者は、この方法を見逃さなかった。諧謔家はドイツ人からエピグラフを取り入れた。友人、愛人、敵、親、愛猫でさえ、読者を驚かせるためのエピグラフを発するのだ。言葉に仮面を被せたりハンガリー衣装を着せたりするような、物語の前に置かれた風変わりな存在に感嘆すること、それこそが読者の望みであった。

この流行は研究する価値があろう。

『ノートル=ダム・ド・パリ』は異論なく1830年の典型的な小説である。この本は今なお、廃屋に囲まれた古い記念塔のように、ひび割れた部分はあれども屹立している。もっとも、ヴィクトル・ユゴーの小説に比べれば『傭兵団〔Les Écorcheurs〕』や『ヨブあるいは牧童たち〔Job ou les Pastoureaux〕』や『悪漢たちとアンゲラン・ド・マリニー〔Les Truands et Enguerrand de Marigny〕』は取るに足らないもぐら塚だといって、アルランクール子爵〔Vicomte d'Arlincourt〕やフランシスク・ミシェル〔Francisque Michel〕やロタン・ド・ラヴァル〔Lottin de Laval〕を貶めようというわけではないが。

多くの本を読んできたこの詩人は、ひけらかすのがよいことだとは考えなかった。『ノートル=ダム・ド・パリ』にエピグラフはない、ヴィクトル・ユゴー曰く古い建物の塔の暗い片隅の壁に刃先で刻まれているのを見つけたという銘をエピグラフと看做さないのであれば。

宿命
ΑΝΑΓΚΗ

「この言葉の上に本書は作られた」と詩人は言う。

ヴィクトル・ユゴーは読者の心に残るものを作る秘訣を知っている。あざやかにフィクションと戯れ、いわば読者の頭にフィクションを釘留する。アナンケという「不吉で運命的な意味の」単語は、優れてロマン主義のエピグラフであった、この文豪が自著の章の頭にエピグラフを用いなかったのであれば、それは『ノートル=ダム・ド・パリ』が天井まで一杯の穀倉のようなもので、同時代の作家たちはそこから仕入れるより他ないだろうと自認していたからだ。

ロマン主義のエピグラフは、書き手の学識のほどを示す見本帳であり、個性の反映であり、あるいは物語に入る通行証となる言葉であった。中世を好む者はエピグラフをゴシック体で印字し、著書に古風な色をつけた。引かれる作家が無名であるほど、引用の価値は高まった。

燠の傍で小さな土鍋がコトコト、
そこに泳ぐは干しえんどうたち、玉葱ひとつ、
そら豆、ポロ葱、夕食へのささやかな期待。
(ジャン・ドートヴィル〔Jean d'Autville〕)

これは屋根裏描写のひとつ、16世紀の貧乏学生のひとりを表わしており、作家たちが好んで描いたものだ。

死刑執行人も当時は引っぱりだこだった。

—アンリ・ムフレ、わが街の死刑執行人、ほら、お前に用意された仕事と報酬だ。
(アルフォンス・ロワイエ『アンリオン夫人』〔Alphonse Royer, Madame Henrion〕)

残念ながらアルフォンス・ロワイエには欠けていた対置の文体によって、アレクサンドル・デュマは死刑執行人と同じくらい悲壮な登場人物を巧みに扱うことができた。

フランソワ1世は1200人の鉄の人間を探し求めたが、見つかったのは200人のビロードの人間だけだった。
(アレクサンドル・デュマ父『ガリアとフランス〔Gaule et France〕』)

これは言葉のダンスだ、単純でさりげない対句が向き合わさっている。気難し屋はこのエピグラフを大衆演劇の台詞あつかいするだろう、じじつ同時代の読者の関心を惹いた。それ以上をデュマは求めていなかった。

次のエピグラフは作者不詳である、作者の名誉にとって残念なことだ。その描写は生々しく、充分に怪奇的である。

その言葉のあと、魔女は腕木を揺らして箱に戻り、不吉な音を立てて箱を閉めた。
(『オロズマーネの護符〔Le Talisman d'Orosmane〕』)

中世好きの作家たちが1830年の女性の関心をあまり惹いていなかったことは既に述べた。往昔の編年史家、古文書、ゴシック時代の作品は、何も心に響かなかったのだ。愛書家ヤコブ〔Paul Lacroixの筆名〕は、それを分かっていた。古代に現代を混ぜ込み、(中世的な)『娼婦の王〔Roi des Ribauds〕』に続けて、より現代的な『美徳と気質〔Vertu et Tempérament〕』を著した。その間、もっと直接的に女性読者に訴えかけるエピグラフを発見したら、蝶をピンで留めるように、どこかの章の冒頭に掲げることを欠かさなかった、その証拠に:

何と残酷な夫だ、これほど優しい美女なのに!
(フィリップ・デポルテ〔Philippe Desportes〕)

当代女性を研究するためにロマン派の作家たちが用いた、独特の注意を惹くための渡し橋となるであろう昔の呼びかけ文句である。その美女が一体どこの片隅で見られたのか、それは神のみぞ知る!あらゆる面から、包み隠さず、その優しさや涙や秘密のほくろを見たいと皆が思った。

その頃の作家によって描かれた女性の肖像は、豊かな細部を示し、じつに深く練り上げられ掘り下げられた描写で、ときにモデルの起伏をくまなく明らかにするほどだ。18世紀はそれをもっと素早くやってみせる。ド・プリ夫人〔Jeanne Agnès Berthelot de Plémontのこと〕の肖像を知らない者でも、この数行の文章から思い描くことができるだろう:「彼女はすらりとして、普通よりも長身だった。顔つき、妖精っぽさ、優雅な相好、美しい頬、整った鼻、少し中華ふうの、それでいて生き生きと陽気な目、つまり総じて繊細で気品ある風姿なのだ」。この時代の作家として数えられることの少ない書き手ではあるが(エノー大臣〔Charles-Jean-François Hénault〕の回想録より)、何とも生彩な筆致ではないか? だが、こうしたかつての流暢な言い回しは、単純さを敵視するロマン派からは蔑まれた。とても複雑な新しい方法を用いて、上手いという以上のことを求めたのだ。一過性の流行、ごく若い者たちが追いかけているのと同じものだ。それが今日、あらゆる表現は既に用いられたはずだと宣言する一派によって使われ、ふたたび現われているのだとは思うまい。ただ素朴な旧弊人のうちには、ロマン主義の只中にあって、感覚や情熱だけが言葉を震わせるのであり、様々な効果を引き出そうと万華鏡のように揺さぶる必要はない、と信じる者もいた。

ある木曜の晩、舞踏会で、彼女は手袋を脱いだ。薔薇色のドレスを着ていた。その視線はわたしに釘づけ。これぞわが人生だ。
(1829年2月(アベ・ティベルジュ(レニエ=デトゥルベの筆名)『ルイーザ、ある娼婦の苦しみ』〔L'abbé Tiberge (Régnier-Destourbet), Louisa, ou les Douleurs d'une fille de joie〕のある章のエピグラフ))

確かに現代のエピグラフだが、ギリシャ詞華集に載っていてもよさそうなものだ。これは恋する若者が夜会から帰るや急いで手帖に書きつけた言葉である。雰囲気はなくとも筋道の通った美しい素描だ。

政治的なロマン派に目を移すと、陰鬱で辛辣で暴力的なエピグラフが見出せる。

お前は流血沙汰に遭う。
(レイ=デュスイユ〔Antoine Rey-Dussueil, Andréa, Histoire du temps présent〕)

サン=メリ修道院の騒乱を語る小説家は記す。

神が従僕の魂を創られたとき、魂に少しだけ泥を残した、王太子の魂にも泥を混ぜたのだ。
(ド・スーザ夫人〔Madame de Souza〕)

こうした荒々しいエピグラフがジュール・ジャナンから出てくると、誰が予想していただろう? 確かなことは、この書物は『バルナーヴ』〔Jules Janin, Barnave〕という題で、当時この批評家はフェリックス・ピア〔Félix Pyat〕と親交があり、オルレアン公を敵視しているように見せねばならなかった。

さらに激しいエピグラフがある、その口調は自然主義者を喜ばせるだろう。

自由とは死体を布団にして寝るのが好きな売女である。
(ミラボー)

ロマン主義者の中には、まばらながら思想家やモラリストも紛れ込んでいる。その種のエピグラフを以下に並べよう。

著者は、真実に服を着せるという問題よりも重大な、解決すべき問題を抱えている。
(ある序文からの抜粋)
(アルフォンス・ブロ〔Alphonse Brot〕)

ペトリュス・ボレルの一派〔文学同人「青年フランス党Les Jeunes-France」のこと〕に古くから加わっていた紳士アルフォンス・ブロは、のちにある省庁の部局に勤め、また冒険小説を書くに至ったが、それは全く評判にならなかった。

時間は運命の大時計の上にある、それが鳴るのを止められる者はいない
(P・ビュエッサール〔Paul Buessard〕)

これは様々な文体を持っていた思想家のエピグラフである。同じ作家からわたしはこの女に昂奮を与えた(ビュエッサール『ケルノトリウ侯爵〔Le Marquis de Kernotriou〕』より)という勝ち誇った一節が引用されたこともある。しばらくすると教育に転じ、この思想家・小説家はビュエッサール教育法を作って、パッシーの学校長になった。

わたしはといえば、快楽を得る代わりに夢想を始めるのだ。
(オーベルマン)

ここにはセナンクール氏の病弱な鬱屈を信奉する小さな集団、あとかたもなく消えた一派の表現がある。

ロマン派の運動の起源を多少なりとも調べた者は、1830年には17世紀の文学が等閑視されすぎていると気づいただろう。モリエールやラ・フォンテーヌ、ラ・ブリュイエールは、ほとんど問題にされないのだ。そうした才人たちの、あまりに平静で理性的で明晰な資質は、新しい流派の求めているものとは違った(ただしテオフィル・ゴーティエは例外である、フランス語の難しさを探究すると、さっそく内輪で古典に取り掛かり、蔑ろにはしなかった。あるときわたしは訊ねた―最も研究すべきフランスの作家は誰か? ―ラ・ブリュイエールだ、と答えてくれた)。同じ理由で18世紀も流行らなかった、ヴォルテールやジャン=ジャック〔・ルソー〕、ディドロ、ダランベールを引用したエピグラフはほとんど見られなかった。実利主義的な百科全書派たちは、藝術のための藝術を信奉する者からは軽蔑のまなざしで見られていた。

けれども、ミシェル=レイモン(ミシェル・マッソン〔Michel Masson〕とレイモン・ブリュッカー〔Raymond Brucker〕の共同筆名)の『石工』〔Michel Raymond, le Maçon〕には、小説家たちが18世紀の思想家から糧を得ようとしていたことを示すエピグラフ選びを見て取れる。アメリカのクエーカー教からは次のような考えを引いている:

教育によって規範をよいものとしておけば、どれほどの規範が不要となることか!
(ウィリアム・ペン〔Guillaume Penn〕)

ふたりは哲学者や司法官を尋問する:

正義を顧みない者は正義に世話を焼かせる。
(デプレメスニル〔Jean-Jacques Duval d'Eprémesnil〕)

宗教に関してマッソンとブリュッカーは懐疑的であるようだ:

地獄だけでは充分でなかった、人間は煉獄を追加した。
(ボリングブルック〔Bolingbroke〕)

ミシェル=レイモンの著作には、『石工』の出版された1828年当時としては新しかった大衆的で社会主義的な流行の浸透が垣間見られる。古代人や現代人、ソクラテスやプブリリウス・シュルス、ドルバック、ポープなどから引用された思想は、ロマン主義以外の方法を読み探す人物像を表わしている。しかしまた、フーリエ主義とネオ・カトリシズムの蒸気で頭を一杯にした、旧教同盟の説教師のように皮肉を言う弁舌家レイモン・ブリュッカーが、バルベー・ドールヴィイ氏を生み出したのち、奇怪な教権主義に苦しみつつ聖具室で一生を終えたというのは、やはり一種のロマン派だったのだ。

思想家から自然愛好者へと話を移そう。この多産なる母は、1830年には大して注目されていなかった。導入するとしたら暗く苦しい舞台装置としてであった。演劇の作られた感情、中世の小道具は、ベルナルダン・ド・サン=ピエールやシャトーブリアンのような描写とは合わなかったのだろう。とはいえ、例外として、長いこと自分の道を模索した悩める精神による次のエピグラフを挙げねばならない。

わたしは背の高いライ麦たちの交わす会話が好きだ、雄弁で陰険な代議士たちの会話よりも。
(アルフォンス・エスキロス)

真摯なエスキロスは韻文で真実を述べたのだ。人生についての散文では、政治に投げ込まれ、国家の危急存亡の秋にあって、風にそよぐライ麦の穂波とは似ても似つかぬ荒々しい南仏の動乱に巻き込まれていた。

この特異な時代の特異なエピグラフ群から、当時の冷笑家や皮肉屋のエピグラフを選ぶのは、多すぎて困ってしまう。意表を突くことに関して行けるところまで行き、ときに愉快な掘り出し物を持ち帰ってきたのだ。アルフォンス・カールは擬古主義の筌に捕われるがままにはならなかった。年齢的にも、何か逃れ難い流れによっても1830年世代に属しているとはいえ、『菩提樹の下で』〔Alphonse Karr, Sous les Tilleuls〕の著者は現代的であり続けた。バイエルン人の両親から生まれ、ゲルマニア由来の、フランスふうとは全く違った諧謔の調子を具えていた。珍しくドイツ語を解する作家であり、様々なドイツの言葉やエピグラフによって読者を驚かせた。自然や音楽やドイツ語から、アルフォンス・カールは大衆の大好きなプディングのようなものを拵えたのだ。そのうえ、この諧謔家はエピグラフを愛犬に語らせて、犬を小説の協力者に仕立てあげた。カールは犬のフライシュッツとの友情を創作したのだ。ハープ奏者レオン・ガタイェス〔Léon Gatayes〕のエピグラフは沢山あり、そこそこ名声を獲得したのは、『胡蜂』〔Alphonse Karr, Les Guêpes〕の著者による小説の幾つかの章の冒頭に大きく掲げられたからである。

そのとき著名作家の友人であったのが幸いした。ひとつのエピグラフ、ひとつの言葉を、友人は後世に伝えたのだ。

求めよ。
(テオドーズ・ビュレット〔Théodose Burette〕)

これは、この教授による数多の歴史概論よりも氏の名声を高めた、『死んだ驢馬』〔Jules Janin, L'Âne mort〕のエピグラフである。

あ!
え!え!
ひ!ひ!ひ!
お!
ふ!ふ!ふ!ふ!ふ!
(著者による誓いの言葉)

ラッサイー『われらが同時代人トリアルフの自殺前の術策』〔Charles Lassailly, Les roueries de Trialph, notre contemporain avant son suicide〕が稀覯書店で何百フランという値をつけているとして、それは上掲のエピグラフがあるためではないか? この本は、読んだら頭の権衡を保てなくなるような者に見せてはならない。

直接この分類に入るとはいえなくとも、次のエピグラフを挙げよう:

陛下、お情けを!……お情けを!……
(オペラ『死刑囚』)

このエピグラフは、見たところ重要性はないが、それでも価値はある。『クロチルド・ド・リュジニャン、または美貌のユダヤ人』(1822年)にあるもので、若き日のバルザックによる一山いくらの小説の、ある章の冒頭に使われている。オクターヴ・ユザンヌ氏がこのエピグラフを知っていたら、バルザックの企画していた作品について先だって公刊した貴重な資料に加えたことだろう。確かに、その資料に題名のある『死刑囚』というオペラは、おそらくバルザックが、代訴人事務所で、公証人の同僚ウジェーヌ・スクリーブの傍で下書きしたもので、その後この小説家が書き始めた多くの悲劇や滑稽詩、韻文などによって消えてしまった。

当時のささやかな雑誌からは、ロマン派の出版者の密かな野望が見て取れる。

お前はわたしの餌食となるだろう……死んで喰われるか生きて喰われるか。
(イポリット・スヴラン〔Hippolyte Souverain〕(1833年の「親指小僧」誌に掲載の小説『アイスランドのハン、オーヴェルニュへ行く』の冒頭〔Henry Orad, Han d'Islande en Auvergne dans la revue le Petit Poucet〕))

作家が愛人や友人やペットを喧伝していた時代、この資産ある編集者イポリット・スヴランは、詩を鼻にかけていただけにいっそう、エピグラフの見本市に現われることとなったのだ(1839年の雑誌「プシュケ〔la Psyché〕」には「ディジョンのイポリット・スヴラン」と署名された詩が載っている。また1870年の「歴史・批評画報〔Galerie historique et critique du XIXe siècle〕」誌には、この編集者の経歴が幾つかの詩片とともに載っている)。

当代きっての知識人集団「獅子たち〔les lions〕」からは、まずロジェ・ド・ボーヴォワールを挙げねばならない。予想だにしない言い回しのエピグラフを発明したのだ。『プルチネッラ、マドンナたちの男』〔Roger de Beauvoir, Il Pulcinella, ou l'homme des madones〕のある章の冒頭には、こう書いてある:

故デュポンシェル
(『現代史』)

この2語は、おそらく多くの読者には分からないだろうが、あるオペラ座の監督の胸を深く突いた。友人たちからデュポンシェル〔Duponchel〕と呼ばれるのは、聞くだに不愉快なことだ。しかし書物に印刷された死後の呼称を読むというのは、当時ロジェ・ド・ボーヴォワールほどの有名人から恨みを買っていたらしき人物を、一度ならず後悔させた。

小説『深淵より』〔Alfred Mousse, De Profundis〕(1834年)の著者アルフレッド・ムスによるエピグラフの別の用法は、デュポンシェルへの当てこすりに劣らぬほど驚くべきものだ。

著者ムスは不吉な書名の下に一種の独創性を隠していた。この意味で、「カミーユ」と題された章は小説家たちに筋道のない道を開いた。その章までの筋は、ほぼ正しく展開されている。ヒロインを描く段になってムスが用いたのは、次のような方法だ:

その存在は静かに澄んで流れていた。
(アルフォンス・カール)

彼女は瑞々しい、彼女は薔薇色、彼女は大きな目をしている、彼女は美しい。
(ヴィクトル・ユゴー)

彼女の目は昏い青だった。

この清流よりも透明な。
(アルフォンス・ド・ラマルチーヌ)

純粋無垢な彼女を見て、人間だけでない、悪魔でさえ彼女を汚そうと思うだろうか?
(アレクサンドル・デュマ父)

その目は実に青かった。

この朝の薔薇は彼女の唇のように微笑んだ。
(アンドレ・シェニエ)

その瞳は
輝く。
(アンリ4世)

空の色の瞳をして。

厖大なエピグラフの山は脇に置いておく、カミーユの姿について目に見える跡を残さぬままに4ページも続いているのだ。

エピグラフという方法に対するこのような悪ふざけは、間違いなく終局を早めた。

そして『深淵より』の墓堀人はアルフレッド・ムスという筆名を捨て、文学界で輝き洗練された。しばし当時の美女たちの琴線を震わせたのち、真の宮廷人として18世紀の粋筋を説いて回った。コメディ・フランセーズの支配人に就くという僥倖もあり、女優や貴婦人たちに可愛がられたが、狂喜にあっても暇を見ては魂の不滅について観念的に論じることを欠かさなかった。商才ある内装屋として、在野の知識人を誰も座らせなかった由緒あるアカデミー・フランセーズの追加席を作った〔いわゆる「41番目の椅子」のこと、この表現を初めて使った〕。マビーユを足がかりに罪深い女性たちのよき聴罪師となったアルセーヌ・ウーセイは終生アポロンのように輝かしくあり続け、ボージョンやヴォルジュ、ブレイユ、ブリュイエールに『ボヘミア王』〔Charles Nodier, Histoire du roi de Bohême et de ses sept chateaux〕と同じくらい城館を建てたのだ。

そして羊飼いは墓の前で
墓碑銘としてこう詠んだ:
彼がエピグラフを死に至らしめた

シャンフルーリ

(訳:加藤一輝/近藤 梓)


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