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いまのきもち

知らないうちに、心の芯みたいなものに手が届かなくなる。
ゴミごと握れた気がしても、あっという間にまた感触を感じなくなる。

心の芯みたいなものに手が届くかどうか。
本当は私にとってだけじゃなく、生きている人みんなにとって大事なことだ。動物は心を気にしないから、自分の気持ちが分からないことで混乱したりしないからいい。動物のように生きたいと思う。動物みたいに、心の赴くままに心配し、弱いものの世話をし、昼寝し、腹を減らし、食べ、喜んだり怖がったりしたい。

でも不思議なもので、動物も人とかかわると心をこじらす。
トラウマだなんだで、人とかかわらなかったら絶対に起こらないような、不自然な動きを取るようになる。それが原因で、人に殺されたりする。


そんな話はどうでもいい。
これが、私のいう「ゴミ」だ。


「クリアリング」という手法がある。
いま自分の心の芯にあるものを分からなくさせている、「頭」が知っている些末なひっかかりをひとつずつ腑に落として、手放していく。そうやって、一枚一枚、ゴミを剥いでいく。
その有効なやり方のひとつに、「気持ちだけをとらえる」がある。

たとえば今の私だったら、母の新たな独居生活が落ち着いてきたので、日常一言も会話しない可能性のある日以外電話しなくてもよさそうだから、週に2〜3日しか電話しなくなった現状がモヤっている。

「母に電話していないことが不安」
「母の話に付き合うのがしんどい」
「全体的にやっぱり母が心配」
「母が笑うと一瞬でもほっとする」
「母が好き」

なかなか認めたくない感情ながら、とにかく「好き」が出てきた。
こうやって、モヤる感情を一言で言い表すと、不思議に気が済む。そして、次の自然な行動が取れたり、こだわりがとれたりして、頭からそいつがいなくなる。

他にモヤっているもの。自分の小説がちゃんと締切までに出版社に届いたか、今頃気になって仕方ない。来月新しい号が発売になるのか、そこで中間発表があるのか、そこに名前がなかったらと考えると声が出そうになる。20代から30代のはじめに数本だけ書いて新人賞に出した小説はすべて、少なくとも中間発表ぐらいには名前があった。つまり今まで書いたものすべてが、箸ぐらいにはひっかかっていた。今まで書いたものよりちゃんと「小説」が書けた気がしているのに、それが中間の時点で落ちていたら、これから私はどう書いていけばいいのだろう?

「小説が中間発表に残っているか、心配」

そこで気づく。季刊誌だから、来月は出ないのかも。中間発表がないのかも。8月に出るという次の号に、最終の5本ぐらいと受賞作品が載るのかも。じゃあその前に、最終に残ったときに電話は来るのか。

「賞がとれるかどうか、心配」

いやこれは違う。さすがにそこまでは心配していない。
とれなくても受け入れられる気がする。
書くのをやめようとは思わない。
今のこのモヤモヤの中心にある感情がまだ分からない。

「結局最近全然書いてないじゃないか」

ここなのかな?
でもこれは感情ではない。
なかなか感情一言にたどり着かない案件は、芯に近いところにある。だからなかなか手がとどかない。


母に振り回されて辛い。これは、結局は書かないこと、書くことへのいい「言い訳」になっていたのかもしれない。
母のことこそが、ゴミだったのか?
ああ、その可能性はある。
正直、わりと自責なくどうでもよくなっている。


こんな風に、どんどん芯に近づいていく。
しばらく感情探しをしていこう。


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