見出し画像

#私の旅行記 エルパソで国境パトロールに捕まった(10)

私の事聞いてくださいシリーズ

出発:1980年6月30日大韓航空 
成田発ハワイ経由ロスアンジェルス行き
23歳女性。一人旅。初の海外旅行。
目的:振られた男を忘れる。
願わくば当地で職を得る。
総額費用:50万円。
定時制高校当時から貯めていた預金全額。
費用詳細:航空券往復18万円 
日航やアメリカの航空会社はこの2倍はした。
グレイハウンドバス
1ヶ月乗り放題周遊券7万5千円(342ドル)
為替レート:1980年6月1ドル226円
トラベラーズチェック1000ドル 約23万円
残金:小さな手土産代

(前noteからのつづき)
私は警官に嘘を言った。
パスポートはバスのトランクルームの
リュックサックでなく。
ウエストポーチのなかだった。

国境警官の詰所?
山小屋のような、オフィス。
踏まれ尽くされた木製の床。
歩くたびに靴音が耳につく。

オフィスには、
私たちを「連行」した警官と
もう一人警官がいた記憶が。
(*警官という日本語に違和感が…)

指さされた椅子に座った。
私は、無言でパスポートを出した。
2ヶ月の滞在期間は終了済み。
14日間の「不法滞在」

アメリカにはビザをもたず、
あるいわビザぎれの
「不法滞在」者はごまんといる。
単身労働者だけでなく、
家族持ちの「不法移民」も
たくさんいる。

私の大きな過ちは、
バスに乗ってヒューストンへ
向かったこと。
バスが一ヶ所国境を越え、
メキシコに入り、アメリカへ
戻って来るというルートを
知らなかったことだ。

飛行機を使えば警官につかまる
こともなかった。
実際多くの人はサンフランシスコから
ヒューストンなら飛行機をつかうはずだ。
ただフィル氏も私も当時、航空代金を
持ち合わせていなかった。

警官は、私の指紋をとった。
両手、十本の指全部。
そして数枚の書類に署名させられた。
警官は1枚の書類を見せ、
私に説明した。

あなたは3日以内に出国
しなければならない。
出国時に必ず、この書類を
当局に提出しなければならない。
出国が確認できなかった場合は、
逮捕状が発行される。
と警官は言った。

3日以内にアメリカを出国
しなければ逮捕される?

パスポートは確かに手元にあったが、
帰国用の航空券は乗ってきたバス
の中のリュックサックに入っている。
そのバスは、数時間前にここから
ヒューストンへ向かって出発したばかり。

そのバスを追いかけなければならない。
次にエルパソ国境検問所に来る
ヒューストン行きバスに乗るには、
5時間待たなければならない。

5時間後に来るバスに乗れても、
この国境検問所からヒューストンまで
まる1日かかる。
 
ヒューストンでリュックサック
に辿りついて、直近のヒューストン発の
バスに乗れたとしても
復路ルートでLAまで、
2日以上はかかる。

バスターミナルから
LAエアポートへ直行し、
成田行きの空席があるか
どうかも不明だった。

3日間の猶予。
解決困難であった。

ただ、バスが来るまでの
5時間は何もできない。

5時間のバス待ち。
時刻は零時を過ぎていた。
野外は真っ暗。ベンチもない。
待ち場がない私たちに、
警官は、留置場を勧めた。

初めての留置場。
もちろん無錠。

薄暗い電灯。
フィル氏と私は、
壁際の長椅子に腰をおろした。
何を話せばいいのか。
眠ることもできない。

出国時に提出しなければならない
書類をフィル氏が再読。
私はまだ夢の中にいるような
感じだった。
警官に捕まって、犯罪者扱いされて、
アメリカにいることさえも、
夢のなかで起きたことのような
感覚が続いていた。

私は返還してもらったパスポート
の表紙を開けた。
アメリカのビザがスタンプ
されているページに、
大きな黒字のスタンプ
VOIDが目に入った。

その瞬間我に帰った私。
突然涙が込み上げてきた。
5年間有効のビザが、
(当時は観光でもビザが必要)
14日間のオーバーステイで
無効になってしまったからだ。

もうアメリカには一生
来ることができないと、
失望泣きだった。

ハロー。
新しいメイトが留置場に
入ってきた。

そのメキシコ人のような
男性は、あなたたちは、
何でここにいるのですか?
英語で聞いてきた。

微笑んでいるのだが、
不思議そうな目付で私たちを
見てその返答を求めた。

ただ、次のバスを待っているだけ.…

「続く」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?