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私の話: COMME des GARÇON & black cat


暗鬱な現在に放つ、肯定の炎 川久保玲さんの「現在地」 ジャーナリスト・編集者、鈴木正文

朝日新聞

40年以上前。
comme des garcon に勤務していた。
始まりはサンフランシスコ。
アメリカ、80年代前半、不景気の真っ只中、
私ができる職種の仕事は皆無だった。
レストランでのバスボーイや皿洗いさえ。

そこへ、アメリカ1号店のニューヨークショップにつづいて、
2号店、サンフランシスコショップが1984年オープン。
私は販売員(ハウスマヌカン?)として採用された。理由は。
comme des garconを理解している応募者が最優先されたから。

1970年代半ば、高校卒業後地方都市から都内の書店に就職。
当時ファッションの中心は新宿、池袋、銀座等の
デパート。松屋、三越、伊勢丹、西武、東武等々。
そして、パルコ、マルイ。
仕事が終わると、帰路、デパートのインショップブティックを見て回った。
DCブランドがもてはやされ出していた。
数々登場していたデザイナーの個性がセールスポイント。
どれもこれもみんな違う。
その中で、私、一度見てすぐ落ちてしまったのが、
comme des garconだった。
黒を基調にし、紺色やグレーも選べた。当時は明るい色はなかった。
型にはまったおしゃれでなく、また「女性らしさ」を強調するのでなく。
今まで見たこともない既製のデザインでなく、
布地でさえオリジナルが輝いていた。
欲しかった、が、高価格。私の給料では手が届かない。
それでも毎回職場からの帰路ショップに寄り、
商品を観察した。ファッション雑誌も舐めるように
ページをめくった。
時には、購入したことも。
月賦という後払いが可能にした。
マルイが登場。

1985年アメリカから帰国。
翌年comme des garcon本社に入社。
入社が叶ったのは、
サンフランシスコショップでのハウスマヌカンの経験があったから。
本社では海外担当の営業部に配属。
社内ではcomme des garconの服を着る必要はない。
だが、営業で海外へ。ショーや展示会でバイヤーと商談するためには、
売り出し中の製品を着るのが慣例。
社員割引があったが、プロパー価格が高いので、
毎シーズン2セットも購入すると、
天引き後の給料額は寂しいものだった。

社員割引で買う服は決まって黒だった。
サンフランシスコショップと本社勤務
の2年半で、手元に溜まった服の色は黒。
私のワードローブは、黒一色になった。

処分は考えられなかった。
高価なもので、クオリティーも抜群だったから。
そのまま着続けられた。
本人が、流行りさえ気にしなければ。

次についた職種に黒色の服は完璧に合致。
クラシック音楽関係の仕事。
海外のアーティストの日本国内ツアーの
ロードマネージャーのような仕事。
オーケストラ奏者、男性アーティストは
黒のドレスやタキシード、燕尾服が多数派。
私は裏方だが、黒の服は、便利だった。

とにかくcomme des garconで得た服は
20年以上は重宝し、着続けた。

当時家にいた猫さんは茶色と黒のトラ柄。
サンフランシスコの愛護協会で巡り合った子。
日本でこの子のために飼い始めた猫さんもトラ柄。
黒色の服には致命的なウチの猫さんらの毛の色。
白ではなかったが。
茶色の毛も十分黒の服には目立つ。
とってもとっても。

黒猫を選ばなかったことに、後悔し続け。
そして、やっと、2010年、黒猫さんが
私の視野に入ってきた。
集合住宅の駐輪場で子猫を出産。
避妊手術をしなければ、産み続ける。
餌あげしていた人らは、餌をあげるだけ。
私、見てむぬふりができず。
1ヶ月間の格闘の末、当母猫を捕獲。
手術後は、元に戻さず、ウチの子にした。

遅かった。この子が家に来た当時は在宅ワークになっていたので
comme des garconの服を着る機会がなくなっていた。

後記:川久保さんの「私の印象」は、商売人には向かないである。
アーティストとして気概とビジネス家としての思考と闘っていたような。
寡黙、静か、だけど、いつも心の中に何かありそう。
声には出さないけど、人間観察されているような気がした。
悪い気はしなかった。
特に嬉しくなったのは、彼女、猫さんとアンパンが好き、という事実。

今の好みは、どうか知らないが。
私は、過去も今も、そして未来も猫さんとアンパンを
こよなく愛し続けていくであろう。

comme des garconの職場の思い出は私の人生の特別な1ページになっている

#comme des garcon #黒猫 #川久保玲 #黒い服 #アンパン #朝日新聞




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