河内国の中臣氏

✡はじめに

『新撰姓氏録』(815)を見ていつも思うのだが、この文献は何のために作られたのかと言うことである。一応、有力説としては、「本書のような系譜書がつくられたのは、編纂時の政治的、社会的な要請に基づいているので、当代の歴史の側面を知るのにも貴重な文献である。(佐伯有清)」とか、「主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。(Wiki)」とかあるようであるが、編纂者が万多(まんた)親王、藤原園人(そのひと)、藤原緒嗣(おつぐ)らによって完成されたとあり、何か人選が偏っているのではないかと思われる。もっとも、藤原園人、藤原緒嗣は同世代の藤原冬嗣ほどには我利我利亡者ではなかったと思うが、それでも一族のためにいろいろ尽力をしたことと思われる。
一応、『新撰姓氏録』は「現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていない(平氏、阿蘇氏など)と記している。」(Wiki)
日本古代の国史には六国史なるものがあり、『日本書紀』(720)『続日本紀(しょくにほんぎ)』(797)『日本後紀』(840)『続日本後紀』(869)『日本文徳(もんとく)天皇実録』(879)『日本三代実録』(901年)があげられている。撰者は『日本書紀』の舎人親王以外は藤原氏一族が主力メンバーを占め、これまた藤原氏に偏ったものになっている。当時は藤原氏以外には高位の貴族はいなかったと言われればそれまでだが、何か国史編纂が藤原氏一辺倒になるのではないかと危惧される。『新撰姓氏録』の原本は解らないが、時期的には『日本書紀』『続日本紀』に次いで編纂され、真偽のほどは解らないが内容は各氏の自己申告に基づくものだという。中には石作連の記事「垂仁天皇御世。奉為皇后日葉酢媛命。作石棺献之。仍賜姓石作大連公也」は『古事記』中巻垂仁天皇記末尾の「又其大后比婆須比賣命之時、定石祝(棺の誤写という)作、又定土師部」を写しただけと後世揶揄されている。カバネが大連と公が連なっているのも何やら後世っぽい。大連のカバネは「『先代旧事本紀』の「天孫本紀」によると尾張連の遠祖である瀛津世襲が第5代孝昭天皇の大連とされている。一方、正史の『日本書紀』における大連の初出は、第11代垂仁天皇時代の物部十千根である。」と言うが、『魏志倭人伝』 や『稲荷山古墳出土鉄剣』にも連などと言うカバネはないようだ。カバネの具体例では、『魏志倭人伝』には 卑狗、母離、爾支、泄謨觚・柄渠觚、兕馬觚、卑奴母離、多模、彌彌、彌彌那利、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮があり、『稲荷山古墳出土鉄剣』には「ヒコ」、「スクネ」、「ワケ」、「ヲミ(臣)」がある。『新撰姓氏録』は自己申告と言うだけあって、上位のものから下位のものまで先祖の過大評価が多いようだ。意地悪く言うと石作連はいつ大連から連に格下げになったのだと言うことだ。こんなことは石作氏にとっては大きな出来事で記録や伝承がないというのはおかしい。そもそも連というカバネは「ワケ王朝」のときにできたカバネと思われ、原意は村治(多数説か。群れを統治するの意か)の意味ではなく、連枝の意味でこれを「むらじ」(蘇我連子は<そがのむらじこ>と言う)と読んだのではないか。即ち、大伴氏、物部氏は天皇氏と何らかの血縁関係にあったか。しかし、一般にはその逆で、皇別氏族に多い「臣」(天皇の親族)、神別氏族に多い「連」(天皇とは親族関係なし)と解されているようだ。無論、「連」カバネの有力氏族は大伴氏や物部氏ばかりでなく他にも、中臣連、土師連、掃部連などがいる。これらは概ね職掌がハッキリしているため元「神武王朝」職員(官僚)がそのまま「ワケ王朝」でも採用されたか。

✡王朝の変遷

大和朝廷は神武天皇に始まる神武王朝(原大和王朝)、崇神天皇に始まる「イリ王朝」、景行天皇に始まる「ワケ王朝」と推移したかと思われるが、そのうちイリ王朝は「御間城入彦五十瓊殖(崇神天皇)」と「活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)」の二人の天皇しかおらず、その存在を疑問視する向きは現代でもいるようだ。一応、恐縮であるが私見を述べてみると、
1.『記紀』の「イリ王朝」は『魏志倭人伝』の卑弥呼女王、台与女王の時代に相当し、それは『魏志倭人伝』の以下の部分に表されている。即ち、「官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。」とあり、読みは「官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。」か。これらの官名は人名の一部であって卑狗、母離、爾支などの官名とは異なるのではないか。言わば四人の重臣がいたと言うことである。他に伊都国には王がいることになっている。これら四人の重臣の名前は『記紀』に出てくる天皇の名前と重なり合う部分がある。例えば、伊支馬は垂仁天皇の活目のことか。彌馬升は観松彦香殖稲の観松のことで孝昭天皇か。彌馬獲支は御間城入彦五十瓊殖の御間(?)城のことで崇神天皇か、奴佳鞮は足仲彦の仲のことで仲哀天皇か。しかし、応神紀の吉備氏一族には御友別の次男に仲彦と言う人物がいてこの人物と仲哀天皇は同一人物かという見解もある。一応、彌馬升を観松彦香殖稲の観松のことで孝昭天皇とした場合、欠史八代の第五代の天皇となり、第十代、第十一代、第十四代の崇神、垂仁、仲哀とは少し離れている。「ミマツヒコ」のことに関しては文献上『播磨国風土記』に、「餝磨郡。所以號餝磨者,大三間津日子命,於此處造屋形而座時,有大鹿而鳴之。爾時,王敕云:「壯鹿鳴哉!」故號餝磨郡。」とあり、また、事物として『延喜式』神名帳、阿波国名方郡九座の中に「御間都比古神社」の名がある。但し、祭神は御間都比古色止命で、観松彦香殖稲尊ではない。これらのことを考えると、「三間津日子」は欠史八代の天皇ではなく卑弥呼女王の時代の吉備国の将軍で播磨国飾磨郡(現・姫路市)を領有し邪馬台国の大伴氏(摂津国。現・神戸市)とは日常的に覇権を争っていたのではないか。
大伴氏は老齢の卑弥呼女王の没後の善後策を講ずるべく、安定政権のため「万機公論に決すべし」とばかりに多くの豪族に声をかけたが、狗奴国(吉備国)の吉備氏本体(吉備津彦命か)は不参加と言うことで、伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の有力四氏を懐柔し会議に参加させたか。残念ながら、『魏志倭人伝』には大伴氏一族らしき人物は見当たらず、卑弥呼女王の後継者を話し合う会議には卑弥呼女王もカンカンになって、かつ、「早く大王にしてくれ」と言う伊支馬等の執拗な要求に、その元凶は大伴氏(大伴武日か)とばかりに大伴氏は九州へ飛ばされてしまったか。その後は、大伴氏の大和別邸には景行天皇(当時は大伴氏の客将か)が居座り、葛城襲津彦が「大伴武日が近々帰国するようだ。」と言ったら、「あいつは穂積や物部に甘い」と言い、大伴武日の帰国前に葛城や甘美内、賀茂などの周りの豪族を集め穂積や物部に頼ろうとした伊支馬等を粉砕したか。何分にも景行天皇は「佐伯」と称する自前の軍隊を持っており、穂積や物部の軍隊に頼ろうとした伊支馬等とは少し違った。少しばかりゴタゴタがあったが天皇氏は「神武王朝」から「ワケ王朝」へ移行したのである。即ち、「イリ王朝」と言うのは大伴氏(具体的には、大伴武日か)が九州から帰ってくる直前に穂積・物部ともども景行天皇等の大和の勢力により粉砕された。しかし、大伴武日が帰国して、帰るところのない四人には相済まないと言うことで形の上で四人を大王(天皇)としたのではないか。あるいは、上記の四人は『日本書紀』の言う四道将軍の派遣のモデルで、景行天皇に地方に島流しにされたと言うことか。とにかく、大伴武日が帰国して一件落着となったようだ。
以上より判断すると、日本の王朝初期の「神武王朝」や「ワケ王朝」の頃には中臣氏の出現はないようだ。彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)の降臨に従って、随伴したという五伴緒の神話(『古事記』上)は失礼ながら出現した他の氏族ともども眉唾と思われる。

✡『新撰姓氏録』の河内国の主なる神別氏族

ウェブサイトを見ていると一般の方には中臣氏の発祥の地は河内国という人が多い。ハッキリした理由はわからないが漠然と河内国には中臣姓を名乗る氏族が多いからかも知れない。Wikipediaでは、京都市山科区中臣町付近の山階と言い、常陸国(そのおとどは常陸の 国にうまれ給ひければ」<『大鏡』(巻7)現・鹿島市か>、大倭国添上郡中郷(猶中郷か)・奈良県天理市、九州(天孫降臨の五伴緒神話)、茅渟県の陶邑・和泉国大鳥郡陶器荘(現・堺市東南部の陶器山からその西方にかけて)、『古事記』によると、河内国美努村、すなわち若江郡御野(現・八尾市上之町南)か。いずれも、陶荒田神社(現・堺市中区)の付近という同じ場所を指すかとも考えられる。中臣氏は土の高熱処理と金属の高熱処理技術が本業だったという。中臣氏が神事・祭祀と関係するようになったのは「大化の改新」後のことか。また、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である占部氏(伊豆卜部氏、壱岐卜部氏、対馬卜部氏が神祇官)は、伊豆卜部氏と壱岐卜部氏は中臣氏一族とするも後世の仮冒とするのが有力。換言すれば、中臣氏も元は伊豆や壱岐発祥の卜部ではなかったかというもの。これらのことから判断すると、藤原鎌足以降の新興貴族である中臣・藤原氏の出身地やその本業を明らかにすることは難しい。
『新撰姓氏録』については、「当時の政治的勢力の優劣の順序によって各氏族を配列してある。」とか「編纂時の政治的、社会的な要請に基づいているので、当代の歴史の側面を知るのにも貴重な文献である。」(いずれも佐伯有清博士の見解)や「主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれた」(Wiki)があるが、『新撰姓氏録』(第⼆帙/神別)の左京はそれでいいかもしれないが、右京・冒頭に采女朝臣があり、次いで、中臣習宜(なかとみのすげ)朝臣があり、続いて中臣熊凝(なかとみのくまこり)朝臣があり、中臣氏の複姓かと思いきやいずれも神饒速日命(物部氏の祖神)の子孫という。他に、山城国で中臣葛野連がある。『新撰姓氏録』を見る限り、藤原・中臣氏は右京・山城国には住んでいなかったのかも知れない。また、新興貴族の藤原・中臣氏にはまだ人材が整っていなかったのではないかと思われる。大和国では津速魂命之後(藤原・中臣)と称する氏族は大家臣、添県主くらいなもの。摂津国は大伴氏の出身地のはずなのに一氏族もいない。何か意図的なものがあるのか。肝心の河内国の氏族は、一応、『新撰姓氏録』のなかには1182氏族の番号を振ってあるものもあるのでその番号で述べると、

*藤原・中臣氏
617 菅生朝臣から625 中臣まで、9氏族。
*大伴氏
628 林宿祢から630 佐伯首まで、3氏族。
但し、高皇産霊神と神皇産霊神の子孫をまとめて記載している節もあるので、その場合は、
626 弓削宿祢から640 大村直田連まで、15氏族。
*物部氏
641 氷連から656 津門首まで、16氏族。

何か河内国ばかりが藤原・中臣氏、大伴氏、物部氏のバランスを取って記載しているようだ。理由は何かと言えば、私見の勝手な推測で恐縮だが、令制五か国(大和国 ・ 山城国 ・ 摂津国 ・ 河内国 ・ 和泉国)のうち大和朝廷発足の頃(神武王朝の頃)は、大和国と山城国は大和朝廷に属し、摂津国、河内国、和泉国は大伴氏に属していたのではないか。それが、540年(欽明天皇1)欽明天皇の難波行幸に従ったとき、物部尾輿らに先の任那4県割譲の責任を糾弾されて失脚したとき、物部尾輿は大伴氏の所領、摂津国、河内国、和泉国を押領しようとしたところ、これに異を唱えたのが蘇我氏で、最終的に丁未の乱(587年7月)で物部守屋は蘇我馬子に滅ぼされ、物部氏は衰退した。その後、蘇我氏も乙巳の変(645年)で滅び、結局、漁夫の利を得たのは藤原・中臣氏か。当時にあっても他人の遺領や遺産を相続する場合、相続側と被相続側は何らかの親族関係とか血縁関係が必要だったらしく、藤原氏は大伴氏の遺産継承者としては藤原鎌足の父母は中臣御食子(なかとみのみけこ)と大伴智仙娘(大伴咋娘)と言い、大伴咋は大伴金村の子、あるいは金村の子大伴阿被布古の子とも言う、が、完全に大伴嫡流を狙っているようだ。当時にあって、大伴氏と中臣氏は通婚関係にあったかは疑問である。また、藤原不比等は最初の正室が蘇我娼子(そがのしょうし)と言い、これまた蘇我氏の財産を狙って正室としたのではないか。藤原不比等はこう言うことには長(た)けていたようだ。物部氏は一族がどこの国でも多数搭載されているが、言葉は悪いが単なる当て馬か。財産らしき財産はなく被扶養一族ばかりが多かったと言うことか。『先代旧事本紀』も偽書とされ、こう言う著者の生活費も物部氏から出されていたとするなら、物部氏が大伴氏からかすめ取った財産はそれなりのものがあったと思われる。『新撰姓氏録』の各国の末席に天火明命や天穂日命の子孫が多いのは、これらの祖神は現今で言う土建会社の創業者で古墳造営にたずさわったのであろう。古墳造営にはいろいろな技術者が必要で平安時代初期ではまだ補修作業などが多くたくさんの技術者を必要としたようだ。五畿内は前方後円墳の本格的な発祥地であり、山陰地方から土木建築の専門家が呼び集められた。

✡まとめ

河内国の藤原・中臣氏は平安時代初期の頃は物部氏一族と同じくらいいたようである。物部氏は歴史が長かったからか多くの子孫に恵まれたと言うべきか不明なところが多い。言えることは、大和朝廷とは少しばかり距離があったようで、神武天皇の論功行賞にあっては、大伴氏等の豪族とは違い恩賞には与っていないし、私見の勝手な推測だが所謂「イリ王朝」へ与したためか景行天皇・葛城氏等に一撃を加えられ、本格的な大和朝廷デビューとなったのは一般的に言われる「ワケ王朝」の物部目大連の時ではないのか。その頃になると政権内部は大伴氏などの豪族がしっかりと押さえ物部氏の取り分は少なくなっていたのではないか。
一方、藤原・中臣氏の方は『新撰姓氏録』ができた頃には、藤原真夏、藤原冬嗣、藤原葛野麻呂などが健在かと思われるが、独立した氏族としては扱われず、藤原氏氏族に一括されている。そこで、河内国の中臣氏系の一族を見ると、

菅生朝臣
大阪府堺市美原区菅生 一帯は中臣氏の出身の者が多数住んでおり、地名から菅生氏を名乗るようになり、豪族として当地を支配していた。奉斎神社は菅生神社(すごうじんじゃ)で文献の初出は『新抄格勅符』の「孝謙天皇、天平宝字八年(759年)本国封一戸を充て奉る」という記述である。(Wiki)
別の文章でも、菅生朝臣は、河内国丹比郡菅生郷に居住し、菅生神社を奉斎した氏族である、と言う。
中臣酒屋連
河内国丹比郡三宅郷の酒屋神社を奉仕した氏族である。大阪府松原市三宅中 酒屋神社 貞観七年(865)十二月従五位下 酒屋神 祭神津速魂命
村山連
村山連は、正倉院文書に、天平18年(746)河内国丹比郡狭山郷 中臣村山連首麻呂の名前が写経所の校生として記載。大阪府大阪狭山市で748年(天平20年)に村山連の氏姓の記録あり、と言う見解もあるが同じことを言ったものか。
中臣高良比連
中臣高良比連は、大和岩雄執筆「枚岡神社」の項では、AD730年の「二所太神宮例文」には、「村山連豊家の兄が高良比千上とある」という。だから、中臣高良比連は、河内国丹比郡の出身であると考えられる、と。
平岡連
平岡連は、河内国河内郡の枚岡神社を奉斎していた氏族である。
川跨連
川跨連は、河内国若江郡川俣郷に居住し、川俣神社を奉斎したとする説がある。
中臣連は津速魂命十四世孫雷大臣命之後也。出身地不明。
中臣連は天児屋根命之後也。出身地不明。
中臣は「中臣高良比連同祖」とされているので、この「中臣」も河内国丹比郡の出身であると考えられる。
以上より河内国の中臣氏は河内国丹比郡の出身者が多いので、藤原・中臣氏の本貫は河内国丹比郡と考える人が多いようである。とは言え、何かにわかに信じがたいところがあり、例えば複姓が多いことで、中臣酒屋連、中臣村山連、中臣高良比連の中臣は後付けの氏族名ではないのか。中臣氏の祖神を祀っているとか子孫と言えば後世に言う神饌幣帛料を多くもらえたか。元々地元の有力者とおぼしき菅生朝臣とか平岡連は中臣××という複姓を用いていない。両氏が解らなかったのは祖神名だけ。
中臣氏が藤原氏になるのは669年(天智天皇8年)10月「天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った」と言うので、『新撰姓氏録』ができた815年まで150年近くかかっており、藤原独裁政権が確立し藤原氏に異を唱える者はいなくなったのであろう。藤原氏も鎌足の時には先祖と言えばせいぜい父の中臣御食子か祖父の中臣可多能祜(かたのこ)くらいだったと思われる。それが、祖神を天児屋命といい、五伴緒神として瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に従ったと言う。しかし、中臣氏の検索を進めていくと卜部とか占部とかの語が出てくるようになる。やはり、専門家も藤原・中臣氏の出自には疑問を持っているのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?