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日本の古代国家のはじまり

✡はじめに 『日本神話と古代国家』(直木孝次郎著・講談社学術文庫928、p291~p292)と言う書物によると、「古代史家坂本太郎氏は、津田(左右吉)の業績をつぎのように評価している。 一言にしていうと博士の学問的態度がいかなる場合にも強い合理性で一貫していたということであろう。(中略)古代における史料遺伝の状態、二典編集の由来などを明らかにし、その記事の多くの部分は歴史事実の記録でもなく、古くから伝わった伝説でもなく、文筆家があとから構想したものであるという結論に達したの

    • 日本の山名の末尾

      ✡はじめに 日本の山名の語尾には山とか、岳(嶽)とか、森とか、峰(峯)とか、いろいろあって全部で七十種類以上あると言うのが専門家の見解のようである。大雑把にその比率を見てみると、「山」72.1%、「岳(嶽)」13.0%、「森」3.5%、「峰(峯)」3.3%、「その他」8.1%、と言い、東アジアの漢字圏では似たような傾向をたどっているのではないかと思われる。無論、これらの文字は日本でできた国字ではなく、全部中国から来たようであるが、傾向としては朝鮮半島、日本では「山」は土など

      • 三鷹の語義

        ✡ はじめに 中央線沿いに「三鷹駅」があり、三鷹市という行政区域もある。三鷹の意味が解ったような解らないような文字なのでインターネットで見てみたら、 1. 「江戸時代、代々の将軍の鷹場があり、御鷹場村と呼ばれていたことに由来。」 2.「江戸時代に幕府、尾張徳川家の鷹狩場であったことに由来する。俗称御鷹場村といった。」 3.「江戸時代に徳川将軍家や御三家が鷹狩を行なった村が多かったことと、その地域が三つの領にまたがっていたこと(三領の鷹場)とされているが、文献が焼失した為に実

        • 古墳の数への一考察

          ✡ はじめに 過般、平成29年3月文化庁文化財部記念物課発刊、『埋蔵文化財関係統計資料ー平成28年度ー』参考資料 平成28年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数⑧古墳・横穴 現存なるものを見ていたところ、Wikipedia「古墳」には、以下のように要約されて記載されてあった。 ・周知の古墳の数(都道府県別) - 2017年度(平成29年度)末付け、文化庁、2018年(平成30年)5月21日発表。 ・第1位 兵庫県(17,647基)、第2位 鳥取県(12,546基)、第3位 京都府

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          新方遺跡のこと

          ✡はじめに 京都大学名誉教授片山一道博士の著書で「弥生人顔などない」とか「縄文人は来なかった」など述べられていた本があったように記憶しており、内容を確認しようとその書籍を探してみたがどこかへ吹っ飛んでしまったのか全く見当たらなかった。ご見解の主意は、人類はY-DNA/A、B、C、Dの順に分岐して、A、Bはアフリカに残り、C、Dは脱アフリカを果たし、ユーラシア大陸を東へ、東へど進み、大陸の終着点と言うべき現在の日本列島へ到達し、その先は海で行くところがないので現在の日本列島あ

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          和泉黄金塚古墳の被葬者

          ✡はじめに 和泉黄金塚古墳は「和泉市文化財活性化推進実行委員会」によると以下のごとしである。 1.古墳時代前期(4世紀)に築かれた全長95mの前方後円墳。信太山(しのだやま)丘陵の先端部に築かれ、淡路島や六甲の山並みが一望できる。 2.第二次世界大戦後、戦時中の塹壕から副葬品が見つかったことがきっかけで、1950・51(昭和25・26)年に発掘調査された。巨大な木棺を粘土で覆った埋葬施設が3基並んで見つかり、中央に女性、左右に男性が葬られていた。 3.中央の埋葬施設から卑

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          西求女塚古墳再考

          ✡はじめに 西求女塚古墳は著名な古墳なので再考してみることにする。何回も書いているので今回は項目を整理して簡潔に述べることにする。 特徴的な項目については、 1.墳形について 2.六甲山系の丘陵部に築造された古墳群と平地上に造られた比較的大型の古墳群 3.山陰系土師器 4.古墳に伴う集落の実態 5.天井石 6.石室の構造 7.銅鏡 8.織物 9.赤色顔料 10.鉄の遺物 11.紀年銘鏡 出典は原則として『西求女塚古墳 第5次・第7次発掘調査概報 神戸市教育委員会文化財課』

          西求女塚古墳再考

          大伴氏と八咫烏氏

          ✡はじめに 大伴氏と八咫烏氏と言っても、ほとんどの人は大伴氏は日本の古代史に出てくる大物豪族であり、知らない人はまれだとは思うが、八咫烏氏と言っても鳥類の烏(カラス)で神武東征の伝説で「高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。」(『古事記』の説で、『日本書紀』では天照大神が派遣したとされる。)言わば導きの神とされる。カラスは頭のいい鳥ではあるが、少しばかり創作のしすぎではないのか。また、八咫烏は三本足である、とも

          大伴氏と八咫烏氏

          日本の古代

          ✡はじめに 最近、ポータルサイトの検索エンジンを利用して検索すると次の画面では検索項目の広告やPRと称する画面が目につくようになる。煩わしさを感じるばかりでなく、性能の低い我がPCでは次の画面に移動する時間が長く、時折、移動したと思いイラッとしてクリックなどをすると当該広告やPRのページが出てくることがある。検索するのが古代史の項目が多いためか、邪馬台国の内容が多いようである。曰く「中国にバカにされる卑弥呼」とか「邪馬台国とか卑弥呼とか、変な漢字」とか。そのHPのさわりの部

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          浦島子伝説

          ✡はじめに 浦島太郎と浦島子は似て非なる人物のようで、浦島太郎はおとぎ話の世界の人物であり、浦島子は浦島太郎の原話の人物かは解らないが、実話かとも思われ、内容は少しずつ違うが古代文献の『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』にも類話がある。まず、その決定的な違いは名前にある。「浦島太郎」という名前は中世の物語から登場し、それ以前の文献では「浦島子」の伝説として記録される、と言う。ハッキリ言うと浦島太郎というのは子女向けのおとぎ話の人名であり、浦島子は社会的な地位(氏やカバ

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          河内国の中臣氏

          ✡はじめに 『新撰姓氏録』(815)を見ていつも思うのだが、この文献は何のために作られたのかと言うことである。一応、有力説としては、「本書のような系譜書がつくられたのは、編纂時の政治的、社会的な要請に基づいているので、当代の歴史の側面を知るのにも貴重な文献である。(佐伯有清)」とか、「主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。(Wiki)」とかあるようであるが、編纂者が万多(まんた)親王、藤原園人(そのひと)、藤原緒嗣(おつぐ)らによって完成され

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          天皇の系図

          ✡はじめに 「天皇家の系図」と言っても我が国には系図を詳細に記した書籍があり、多くの古代の天皇、皇族の記録はそこに詳しく述べられている。我々庶民が『記紀』を読んであれやこれや言うのは皇族でもないのに他家のことに難癖をつけていると捉えられかねない。我々が天皇家の系図を見るなどと言うのは歴史「日本史」の授業の時くらいで、そこでパラパラと読むのが落ちである。つらつらと初代神武天皇から今上天皇の系図を眺めていると中古以降はともかく上古は王朝交替説などもあってすっきりと「万世一系」と

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          古代の京都

          ✡はじめに 以前のインターネットの投稿を見ていたら「古代の京都はどうなっていたんだ」と言うような文章が時折あったが、現在ではあまり見かけなくなった。おそらくこういう人は京都は京都でも現在の京都市街のことを言っているのではないかと思われる。おそらく、京都が現在のような発展をしたのは平安時代以降であり、その前は湿地地帯で人もまばらな過疎地ではなかったかと思われる。全国区的な主な地名を見ても、 賀茂(かも) 河(かは)、面(も)の転で、川沿いの地。 河原町(かわらまち) 中古ま

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          得能山古墳と念仏山古墳は誰の墓か

          ✡はじめに 得能山古墳(1924年遺物発見)と念仏山古墳(1978年念仏山地蔵尊発見)と言う古墳が発見されて割と近くにあるので対で論じられることが多いようだ。以下、双方の古墳の詳細を述べると、 1.得能山古墳 ふりがな とくのうざんこふん 造営期 古墳時代・4世紀 所在地 兵庫県神戸市須磨区板宿町3 遺構概要 古墳(前方後円墳)。<立地>山稜突端。標高50m、南側の水田面からの比高約35m、葺石なし、(内部主体)位置:後円部か、割竹形木棺、竪穴式石槨長3m以上(

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          処女塚古墳

          ✡はじめに 神戸市にある処女塚古墳と言うのは両隣にある西求女塚古墳や東求女塚古墳ともども風情のある名前だが、物語としてはいいかもしれないが、墓の主は一般的には地元の豪族と解釈されており、「処女(おとめ)とは俺のことかと主(あるじ)言い」的発想になってしまうのではないか。誰がこんなことを考えたのかと言えば、すでに『万葉集』にも「菟原処女の伝説」として登載されており、相当古くからの物語であるらしい。造営も三古墳が一括して論じられることが多いようで、西求女塚古墳は三世紀後半、処女

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          卑弥呼女王が魏の皇帝から賜った銅鏡

          ★はじめに 『魏志倭人伝』で倭の卑弥呼女王が魏の皇帝から賜った銅鏡は一時はマスコミを大いに賑わわせたものだが、昨今は全く世の関心はなくなったものと見えて一部の好事家がコツコツと自分のサイトで論じているくらいなものである。ところで、倭の女王が魏の皇帝から賜った鏡は、 景初二年(238年)<239年(景初3年)か>十二月 詔書報倭女王曰 制詔 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 正始元年(240年) 并齎詔 賜、金・帛・錦・

          卑弥呼女王が魏の皇帝から賜った銅鏡