日本の古代国家のはじまり

✡はじめに

『日本神話と古代国家』(直木孝次郎著・講談社学術文庫928、p291~p292)と言う書物によると、「古代史家坂本太郎氏は、津田(左右吉)の業績をつぎのように評価している。 一言にしていうと博士の学問的態度がいかなる場合にも強い合理性で一貫していたということであろう。(中略)古代における史料遺伝の状態、二典編集の由来などを明らかにし、その記事の多くの部分は歴史事実の記録でもなく、古くから伝わった伝説でもなく、文筆家があとから構想したものであるという結論に達したのである。」とある。日本の最高学府出身の先生たちがこんなくだらない執筆者たちの作文に惑わされているのかと思うとはなはだ心許ないが、細かに一点一点を拾い上げていくと「歴史事実の記録」や「古くから伝わった伝説」もあるように思われるので「日本古代国家のはじまり」を検討してみる。
まず、我が国の古代国家の統一者に何やらお二方の人物がおられいずれも「はつくにしらすすめらみこと」と漢字にルビーを振るらしい。一般には最初の統一天皇神武天皇は大和盆地の統一を二番目の統一天皇崇神天皇は崇神・垂仁・景行の三代で日本列島の一定部分を統一したと解釈しているようだ。一応、ここでは、1、二人の統一天皇、2、日本神話、3、日本の広域支配状態について検討してみることにする。

✡二人の統一天皇

我国の『記紀』には初代天皇を意味する『はつくにしらすすめらみこと』と称する天皇が二人いる。神武天皇を始馭天下之天皇と漢字で書き、崇神天皇を漢字では御肇国天皇と書いて、読みはお二方とも『はつくにしらすすめらみこと』と言うそうな。いずれも日本の神典とも言うべき史書であるが、お二方には本名もあり、それぞれ神武天皇は磐余彦火々出見尊(いわれびこほほでみのみこと) - 『日本書紀』神代第十一段第四の一書、或いは、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)- 『古事記』と言い、修飾部分を除いたら磐余彦(いわれひこ)が本名かと思われ、崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』或いは、御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』と言い、印恵命(いにえのみこと)が本名と思われる。崇神天皇の御間城入彦の部分は神武天皇と崇神天皇は血縁関係はなく崇神天皇は御間城と言うところからの入り婿か或いは神武王朝を簒奪した人物なのだろう。従って、崇神王家が神武王家を簒奪した人物ならば双方が初代を『はつくにしらすすめらみこと』と名乗っても何らおかしくはない。
ところで、神武天皇の神倭伊波礼毘古と言うのは、倭(大和国)の伊波礼毘古(磐余彦)と言うことで大和国の磐余彦という人物かと思われるが、崇神天皇の御間城入彦五十瓊殖と言うのはやや持って意味不明と言うところがある。御間城と言うのは地名のことか。入彦は入り婿と解して良いのか。五十瓊殖の意味はどういう意味か。諸説が出ているのでそれを列挙してみると、
御間城というのは、「みまき」、「みまつ」、「みまな」など、語尾の「き(城)」とか、「つ(津)」とか、「な(儺、那)」等は、集落ができた当初は軍事基地(城)、港湾(津)、国土(儺・那)等だったかも知れないが、地域も徐々に変質(例、軍事基地から農村へ)するのが一般的で、これらの語尾の文字は一括して地域社会とでも解釈した方が良い。よって、御間城を解釈すると、御間が有意義な語で、『和名抄』によると、三間は伊予国宇和郡三間郷とか、阿波国美馬郡などがある。語意はミ(水)・マ(接尾語)で、「水のあるところ」を言う地名だそうな。また、朝鮮語のmim(王者)の転訛語と言う説もあるようだ。
『播磨国風土記』には、飾磨郡(現在の姫路市の一部)の項に大三間津彦命という人物が出てきて、播磨国は石材に恵まれたところで「大三間」とは大きな空間のある古墳の意味という。御間城に似るか。また、大三間津彦命とは第五代天皇観松彦香殖稲(孝昭天皇)のことと言うとの説もある。他に、徳島県名東郡佐那河内村には御間都比古神社(みまつひこじんじゃ)と言う神社が鎮座しており、祭神は御間都比古色止命と言い佐那河内の開拓神と言う。これまた第五代天皇観松彦香殖稲(孝昭天皇)と言う見解もあれば、香殖稲(かえしね)と言うのは孝昭天皇の実名ではなく、神名で観松彦と言うのは神の尊称という見解もある。要するに、孝昭天皇などと言う人物は存在しなかったと言うことなのだろう。地名的には崇神天皇の御間城は阿波国美馬郡が有力であり、播磨国でも大三間津彦という人物がいたと言うことは実在した人と考えると播磨国も有力である。他に岡山県真庭市にある三坂山というのが美作(みまさか)の語源になったと言う説もある。この場合は、崇神天皇の御間城入彦(『日本書紀』)と御眞木入日子(『古事記』)は美作の「みま」が通じ、垂仁天皇の活目入彦(『日本書紀』)、伊久米伊理毘古(『古事記』)とは二人同時に美作国からやって来たのか。美作国久米郡がある。美作国が和銅6年(713年)4月3日に分立されたとは言え、地名はその前からあったものであろう。

✡日本の神話

日本の文献に現れる主なる神話には、高天原神話と出雲神話がある。文献外ではアイヌ神話や琉球神話もあるが、特定の神話学者以外にはあまり取り立てられないようである。その二大神話も「『古事記』は,大和王権とそれに対立する諸勢力との政治関係を歴史としてではなく神話として表現しようとしたもので、そこでは聖・善・秩序などをあらわす高天原と俗・悪・無秩序などをあらわす葦原中国(出雲)との対立という二元的世界として構成されている。東方の大和対西方の出雲との対立とが重なるという形をとっている」のである、と。そもそも出雲神話の大國主神も「大国主神。亦名謂大穴牟遅神、亦名謂葦原色許男神、亦名謂八千矛神、亦名謂宇都志国玉神、并有五名。」と言い、倉野憲司博士によると「それぞれの神名による神話を大國主神に統一したのである」と。五神が一神に統一されたというが、元の神話がどういうものだったかは全くもって想像できない。せいぜい解るのは、大穴牟遅神が大型古墳を造営したとか、葦原色許男神が農業とくに水稲稲作を導入したとか、八千矛神が大型の軍隊を率いていたとか、宇都志国玉神は「宇都志」はこの世・現実の意である。「国玉」は国土の神霊の意とされ、国土には神霊が坐す信仰があった、と言う。言わば、大國主神はこれらの神々の能力が授かった万能の神と言いたいのだろう。或いは、領民は大國主神のような万能の領主を願ったが、それがかなわず、かっての領主で各分野に強かった人を選抜して大國主神という万能の神を作り上げたか。例として、四隅突出型墳丘墓の造営や建設や土木工事に強かった大穴牟遅神とか、焼畑農業や水稲稲作農業に秀でた葦原色許男神とか、戦争には豪腕を発揮した八千矛神とか、領土が実り多い土地を願った宇都志国玉神(有り体に言うと神主)など。これらの万能の力を持った高天原の主神天照大神は聖・善・秩序等を形成し、出雲の主神大国主命は俗・悪・無秩序等を表すというのは意味が解らない。現代流にいうと天照大神は生まれながらの天皇陛下で大國主神は犯罪集団の頭目ということか。『記紀』ではこのほかに所伝の異なる顕著な例の一つに、高天原から国譲りの使者を派遣したり、天孫を天降りさせたりする時の指令神の問題がある。『日本神話と古代国家』(直木孝次郎著・講談社学術文庫928、p77)で直木博士が吉井巌氏の表を引用しているが、この表では『日本書紀』本文では「天穂日命」条から「瓊瓊杵尊」条まで一貫して指令神は高皇産霊尊になっており『古事記』ではほとんどが天照大神と高皇産霊尊になっている。高皇産霊尊は大伴氏が固執した同氏の祖先神であり、神武天皇ひいては天照大神を祖先神とする皇室の祖先神とは相容れないものがある。

✡日本の古代における広域支配状態

兵庫県神⼾市灘区に西求女塚古墳というのがあるが、それをまとめてみると、

1.古墳時代前期では最大級の前方後方墳(98m)であったことがわかり、墳丘に葺石をともなっている。
2.出土品等から築造年代は3世紀後半と推定されている。
3.石室の石材は、地元のものだけでなく、阿波(徳島県)や紀伊(和歌山県)などからも運ばれている。
4.地元の土器は出土しておらず、祭祀に用いられた土師器には山陰系の特徴をもつものが出土している。
5.山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流をもっていた。
6.瀬戸内海や大阪湾など水上交通に影響をもつ首長の墳墓であったとも考えられる。
7.邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から贈られた鏡ともいわれる三角縁神獣鏡7面など計11面の銅鏡
(第1次調査の1面とあわせて合計12面)が出土した。
また、京都府の椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、奈良県の佐味田宝塚古墳、広島県の中小田1号墳など
の出土鏡とは同笵の関係にある。

おそらく西求女塚古墳の被葬者は山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流などと言っているが、これらの人々は婚姻を通じた親族関係にあり、山陰ならば因幡国、四国ならば阿波国、南近畿ならば紀伊国、和泉国の人ではないか。

例として、鳥取県「新井三嶋谷墳丘墓」の鳥取県文化財課の解説について、
「鳥取県の東部、岩美郡岩美町に所在する弥生時代後期初頭に築かれた方形貼石墳丘墓。1号墳丘墓(南北約26m、東西約18m、高さ最大約3m)では墳頂部に3基の埋葬施設、2号墳丘墓(推定復元、一辺約11m)では2基の埋葬施設を確認している。1号墳丘墓の埋葬施設は調査されていないが、2号墳丘墓の埋葬施設は組合式の木棺が納められていた。1号墳丘墓は弥生時代後期初頭に築かれた墳丘墓としては国内最大級の規模を誇り、墓上で土器を砕いて祭祀を行った跡を確認している。1号墳丘墓に先行して築かれた2号墳丘墓をあわせ、鳥取県東部地域の弥生時代の墓制や社会構造などを探る上で極めて高い学術的価値をもつものである。」と。

方墳は長方形と正方形があったようで、長方形の方墳が後世の前方後方墳になったのではないか。西求女塚古墳は前方後方墳といい、おそらくお手本となったのは山陰の弥生墳丘墓ではなかったか。「新井三嶋谷墳丘墓」がある鳥取県岩美郡岩美町大字新井と岩美郡岩美町恩志にある恩志呂(おじろ・おしろ)神社は目測概算でも500mほどの距離で、恩志呂と景行天皇の実名と思われる忍代(おししろと読むという説もあるが、『古事記』に「淤斯呂和氣」とあるので、それを採用する)別は同じ発音と思われるので、景行天皇は因幡国の人と考えられる。端的に言うと、因幡国、摂津国、阿波国、紀伊国、和泉国は連合国家として成り立っていたのではないか。これに対抗する連合国家は『古事記』によれば出雲国を盟主とする連合国家で九州北部(宗像大社)から新潟県糸魚川市(居多神社<上越市>)に至っていたのではないか。これを最終的に大和朝廷とまとめたのが景行天皇と思われる。

✡まとめ

まず、『記紀』に日本国家統一の経緯について崇神、垂仁、景行の諸天皇が出てくるが、崇神・垂仁はともかく、崇神・垂仁と景行は関係がないだろう。

1.二人の初代天皇について
 二人の初代天皇については、まず、二人は根拠地が違う。神武天皇は大和三山と言われる耳成山・畝傍山・天香具山界隈の現在の橿原市の出身と思われ、まとわりついた豪族も、葛城氏、巨勢氏、磯城氏などで大伴氏など外様は少し敬遠され桜井市に別邸を提供されたのではないか。崇神天皇はおそらく纒向遺跡(まきむくいせき)が主力遺跡とされるが、同遺跡は『魏志倭人伝』に言う卑弥呼女王の遺跡と説く人も多いようだ。また、崇神・垂仁王朝(イリ王朝とか三輪王朝という)は短命政権だったようで王朝交代の初代王といっても高い評価はできない天皇というべきか。それに纏向遺跡は何と言っても卑弥呼女王の遺跡という向きも多く、また、私見で恐縮だが、『魏志倭人伝』には「官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮」 とあり、それぞれ「いくめ」、「みまつ」、「みまき」、「なかつ」 と当て、垂仁、孝昭、崇神、仲哀天皇の各天皇ではないか。日本の『記紀』では天皇となっているが、魏の役人の聞き取りでは官となっており、国家元首ではなくそれより一段低い人のようだ。従って、二人の初代天皇というのは崇神天皇というのは当てはまらないような気がする。

2.日本の神話

日本の神話は諸外国の神話と違い当時の貴族たちが勝手に作文をした。(津田左右吉、直木孝次郎等の主張)そういう話をまともに受け取ってあれやこれや論じてみても話にならない。ただ、それも大和朝廷にまつわることだけで、日本には出雲神話もありそちらの方は検討の余地がある。日本は天皇家の統治で凝り固まった国なのにどうして国史の神典に大和朝廷の対抗馬ともいうべき出雲国の神話が出てくるのかは解らない。但し、『日本書紀』では出雲神話はほとんど出てこない。景行天皇が日本を統一する手法として乗っ取りを多用したが、神代の時代にも同じことが行われていたか。一説に、『出雲国風土記』にはこの趣(天孫降臨と天壌無窮の神勅)を伝えることがうすい、とのこと。言って見れば、主として『古事記』に書いてある出雲神話も、大國主神が招来した出雲神話も、出雲国に伝来した天穂日命の子孫が伝えた出雲神話もみんな違う話になっているようだ。これが民衆の間に広まった本来の神話なのかも知れない。

3.大和朝廷が出現する前の日本列島の広域領有

日本列島には大和朝廷がある程度のまとまりのある国家形態を設立するまでは、出雲国を中心とする日本海沿岸の国と大阪湾岸をまとめた国(盟主は大伴氏かと思われる)があったようだ。出雲国は宗像大社、杵築大社、気多大社(祭神大己貴命)、越中一宮 髙瀬神社( 大己貴命)、居多神社(大国主命)等を支配領域としていたようだ。また、因幡国、摂津国、阿波国、紀伊国、和泉国等を率いた人は後世の大伴氏ではないか。一族としては因幡の忍代氏(恩志呂神社神主家か。小代氏は「現兵庫県の日本海側である但馬等にみられる。」とある。景行天皇の一族)、摂津の大伴氏、阿波の長氏(御間都比古神社の神主家か。由緒不詳、関係氏族不詳或いは長氏か)、紀伊の紀直氏、和泉の紀臣氏等がいたのではないか。大伴氏の祖神高皇産霊神と出雲国にある神皇産霊神は何らかの結びつきがあり、二つの広域領有国は親しいお付き合いをしていたのかも知れない。以下、諸豪族の役割を検討してみる。
a.山陰の豪族
 現在の恩志呂神社のある鳥取県岩美郡岩美町恩志界隈、古代の因幡国巨濃郡を根拠地にしていた。
 
*同盟軍の葬儀の執行等を行っていた。
 鳥取県「新井三嶋谷墳丘墓」は、岩美郡岩美町に所在する弥生時代後期初頭に築かれた方形貼石墳丘墓。
 1号墳丘墓(南北約26m、東西約18m、高さ最大約3m)では墳頂部に3基の埋葬施設、
 2号墳丘墓(推定復元、一辺約11m)では2基の埋葬施設を確認している。
 1号墳丘墓は弥生時代後期初頭に築かれた墳丘墓としては国内最大級の規模を誇り、
 墓上で土器を砕いて祭祀を行った跡を確認している。
 1号墳丘墓に先行して築かれた2号墳丘墓をあわせ、鳥取県東部地域の弥生時代の墓制や社会構造などを
 探る上で極めて高い学術的価値をもつものである。
 おそらく、「新井三嶋谷墳丘墓」が参考となり、西求女塚古墳ができたのではないか。
 西求女塚古墳は新井三嶋谷墳丘墓の1号墓と2号墓を合体したものか。

*畿内で紛争が起きた場合、同盟軍要員として出兵する。

*畿内への関心が高かったためか因幡の中心勢力にはなれなかった。
 国造は因幡国法美郡稲羽郷の因幡氏が担っていたが、後世、支流の伊福部氏が因幡国造になった。
 「伊香色雄命の子・武牟口命の孫、伊其和斯彦宿祢が成務天皇の時代に稲葉国造を賜った」と。
伊福部氏と武内氏は親族で武内宿禰の引きで伊福部氏は因幡国造になったか。
 武内宿禰は因幡国巨濃郡(岩井郡)宇治郷の出身か。
 現岩美町宇治を遺称地として、蒲生川中流域の同町高山・恩志などを含む地域に比定される。
 宇治郷は武内宿禰の出身地で、景行天皇は恩志(恩志呂)(忍代別は天皇の実名か)の出身で同郷の人か。

b.摂津の豪族
 現在の神戸市をまんべんなく根拠地にしていたのではないか。周囲には「処女塚古墳(全長70メートルの前方後方墳)をはさんだ東側には東求女塚古墳(全長80メートルの前方後円墳)、西側には西求女塚古墳(全長98メートルの前方後方墳)があり、3つの古墳は海岸線に沿って一直線に、だいたい等間隔の距離でならんでいる。」と言い、これらの古墳は親、子、孫の墓と見て良く、年代も、大体、50年間隔に造営されたものだそうな。

*摂津の豪族は具体的に言うと大伴氏であったと思う。
大伴氏(道臣命)は神武天皇の論功行賞の筆頭の功労者としてあげられている。おそらく大和国には神武天皇より別邸が与えられたのであろう。或いは、神武天皇の論功行賞というのは軍事同盟の結成で、大伴氏と言おうか大伴連合は吉備氏と縁切りを行うべく、それまで米の提供を吉備氏から得ていたのに、物部氏(穂積氏の物流担当者)の強力営業の結果穂積・物部氏から米の供給を受けるようになったのではないか。それで吉備氏と天皇氏・大伴氏の組が仲違(たが)いし争うようになったのではないか。(邪馬台国と狗奴国の紛争)
『記紀』に言う「ワケ王朝」とは実態は大伴王朝のことであり、いわゆる王朝交代論では(1)崇神王朝は、三輪(みわ)王朝(三輪山を祭祀(さいし)する王朝)、(2)仁徳王朝は、応神王朝、ワケ王朝、河内(かわち)王朝、(3)継体王朝は、越前(えちぜん)(福井県)もしくは近江(おうみ)(滋賀県)、あるいは摂津(大阪府・兵庫県)から大和に入ってきた新王朝、とに分類されるようで、神武天皇は没となっているようだ。しかし、神武天皇は同僚とも言うべき大伴、久米、倭国造、葛城国造、八咫烏(京都の賀茂氏に推定する)の後継者はその後も存在するのに神武天皇だけはいなかったというのはおかしい。崇神王朝は短命で、インターネットでは二代(崇神・垂仁)で何ができたの、と訝(いぶか)る人もいる。私見ではここには『魏志倭人伝』の卑弥呼女王(倭姫命)や台与女王(豊鍬入姫命)を当てた方が良いと思う。『魏志倭人伝』では卑弥呼女王と台与女王は一緒に住んでいたとは思われないし、直系親族の関係にもなかったようなので(入姫の語) 崇神・垂仁のコンビは疑問だ。応神天皇の皇女には淡路御原皇女【日本書紀】(あわじのみはらのひめみこ)なる人物もおり、天皇の素性を明らかにしている。
それに、海もない大和国の人が「天の浮橋から矛(ほこ)で大海をかきまわし,その滴(したたり)からできた於能碁呂(おのごろ)島で夫婦の交りをし,大八洲(おおやしま)国と万物およびその支配神を産む。」等というのはおかしい話でこれは淡路島あたりを支配していた大阪湾岸の豪族即ち大伴氏の神話ではなかったか。要するに、天武・持統の「持統天皇5年(691年)に十八氏に先祖の墓記を提出させた」と言うことも、世にある文献で天武・持統に都合の悪いことは廃棄、都合の良いことは『日本書紀』編纂に利用したと言うことではないのか。インターネットの一般の人が言う見解はおおむねそういうものだったように記憶している。特に、継体天皇は現在の福井県からやって来たと言い、中央の人物や組織にも疎かったので本来なら大伴金村がいろいろと教授するはずだったが、金村は内政外交の諸般の業務に多忙を極め、他に大臣や大連もいたようだが金村の原案にお墨付きを与えるくらいが関の山ではなかったか。
要するに、今の『記紀』の原本は天武・持統が「持統天皇5年(691年)」に十八氏から取り上げた墓記の大伴氏の家伝が主なものになっているのではないか。もっとも、私見では大伴氏も「ワケ王朝」として皇統に関わっていると思われるので、大伴家伝の採否の当否判定は難しい。
また、神武或いは崇神王朝とワケ王朝は、神武王朝や崇神王朝を支えた豪族は葛城氏とか、平群氏、春日氏、和珥氏等で、ワケ王朝を支えたのが大伴氏、物部氏、紀臣氏、紀直氏、阿曇氏等で両者のバックアップをした豪族が全然違うから、神武・崇神王朝とワケ王朝は全く関係がない、と言う見解も多いが、ワケ王朝の天皇の皇后は仁徳天皇皇后は葛城氏の葛城磐之媛、履中天皇は皇妃:黒媛(葛城襲津彦の子の葦田宿禰の女、一説に羽田矢代宿禰の女)、反正天皇は和珥木事の娘である和珥津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる、雄略天皇は妃:葛城韓媛(葛城円大臣の女)、妃:意杼比売(春日和珥臣深目の妹)、妃:和珥童女君(春日和珥臣深目の女)等とあり両王朝は全く関係がなかったとは言えない。また、神武天皇が論功行賞を与えた七氏かの人物の内多くが祖神を高皇産霊神か神皇産霊神となっている。天照大神はまだ作られていなかったと言えばそれまでだが、景行天皇が台与女王の逝去後、倭で奮闘し神武王朝の人材をワケ王朝に取り込んだのではないか。但し、景行天皇は大伴氏とともに今の神戸市から邪馬台国の善後策協議のためやって来たのであって崇神・垂仁天皇とは関係がない。

4.神皇産霊神と出雲国

a.神皇産霊神の御子孫神たちがなぜか出雲国に散見する。具体的には、・島根郡加賀郷 佐太大神所生也。御祖神魂命御子、支佐加比比賣命。・島根郡生馬郷 神魂命御子、八尋矛長依日子命詔。・島根郡法吉郷 神魂命御子、宇武賀比賣命。・楯縫郡 神魂命詔、・・御子天之御鳥命、楯部為而、天降給之。・出雲郡漆治郷 神魂命御子、天津枳値可美高日子命御名、又云薦枕志都沼値之。・出雲郡宇賀郷 神魂命御子、綾門日女命。・神門郡朝山郷 神魂命御子、真玉著玉之邑日女命坐之。
以上は地理的には島根半島に偏っており、神皇産霊神乃至産霊神の実態とは海神と言うことか。高皇産霊神に固執した畿内の大伴氏も大阪湾岸に勢力を伸長している。また、神皇産霊神の御子神は女性が多いようで、女系神族か。
佐太大神は『出雲国風土記』では四柱の大神の一柱と言いながら生誕の神話以外に記事はなく、その後は不明と言うことだが、ざっくばらんに言うと神皇産霊神系は男系後継者がままならず、佐太大神は出雲国草創期は有力な大神であったが、神皇産霊神及び佐太大神の神話は、いわゆる「お家断絶」により、出雲国では大國主神の神話のどこかへ組み込まれ、畿内では伊弉諾・伊弉冉神話に組み込まれてしまったのではないか。一説に、佐太一族は風土記時代の出雲にはその存在の痕跡が見られず、かえって山城国の『神亀三年出雲国計帳』に見えている。早期に出雲を出て古い大和朝廷の祭祀長となった。賀茂県主になったのもこの一族、と言うが、「『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫であり、神武東征の際、八咫烏に化身して神武天皇を先導したとされる。」とあり、なんとも言えないが、日本の古代国家草創期には高皇産霊尊と神皇産霊尊が活躍をしたことは間違いなく、お二人或いは二神はその後結婚をして夫婦神になったのではないか。

b.神皇産霊神と出雲というと他に「少彦名命(すくなひこなのみこと)」が著名。『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。両神のいいとこ取りの神のようだ。万能神で何でも理解していたと言うことは現代の日本に通じるものがある。やはり国家や地域が大きく羽ばたくきっかけはこういう人乃至神がいればこそと言う思いがする。国家に影響を与えた人として『記紀』に取り上げられ、地域開発者としては『播磨国風土記』や『伊予国風土記』(逸文)に採用されており、大和朝廷の創設にもこれら二神が与えた影響は大なるものがある。そのまとめた氏族としては瀬戸内海・畿内は大伴氏が、日本海側は出雲国の佐太大神一族だったのかも知れない。出雲神話が大和朝廷の国史に載っているのも大伴氏の貢献が大なるものがあると思う。これが大和朝廷一色のものだったら口の悪い歴史家には「嘘八百の国史」などと言われたのではないか。

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