大伴氏と八咫烏氏

✡はじめに

大伴氏と八咫烏氏と言っても、ほとんどの人は大伴氏は日本の古代史に出てくる大物豪族であり、知らない人はまれだとは思うが、八咫烏氏と言っても鳥類の烏(カラス)で神武東征の伝説で「高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。」(『古事記』の説で、『日本書紀』では天照大神が派遣したとされる。)言わば導きの神とされる。カラスは頭のいい鳥ではあるが、少しばかり創作のしすぎではないのか。また、八咫烏は三本足である、とも言われるが、『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとは記述されていない。
以上をまとめてみると、八咫烏のモデルは「熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。」とあるので、熊野三山(権現)の神使から来たものではないか。八咫烏は三本足であると言うのは、「三足烏の伝承は古代中国の文化圏地域で見られる。中国であるならば金烏。朝鮮半島ならば、かつて高句麗(紀元前1世紀〜6世紀)があった地域(現在の北朝鮮)で古墳に描かれている。高句麗の人々は三足烏が太陽に棲み、亀が月に棲むと信じていた。」というので、八咫烏は神武王朝の創設神話とは何の関係もない熊野権現や、はたまた、中国神話の「三足烏」の話の寄せ集めと考えられる。もっと突き詰めて言うと、中国神話の三足烏の説話を丸写ししたと言うことか。それも、中国の金烏を金鵄にしてみたり、元々二本足であったのを陰陽五行説の流行した後に、二が偶数で陰の数であることから、陽の奇数である三をもって表すようになったとか、日本では八咫烏は三本足とは『記紀』には記載されていないのに、後世になればなるほど牽強付会的な意見が加えられているようだ。それでは、八咫烏とは何かというと本当に鳥類のカラスなのかを含めて少しばかり検討してみる。

✡八咫烏とは

八咫烏を鳥類のカラスというのは『記紀』の世界からで、この話はここから間違っている。八咫烏の経歴を見てみると、

1.熊野から大和に入る険阻な山中を導く。神武天皇の軍が熊野、吉野を越えて大和の宇陀へ入ろうとするとき、『日本書紀』ではヤタガラスが天照大神(『古事記』では高木大神)の命で派遣され、先導をつとめたとされる。
2.『日本書紀』では、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)の帰順勧告に派遣される。『古事記』では兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)平定のさいはこの烏が使者に立っている。
3.鴨県主(かものあがたぬし)の祖である鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)が化したものともいい(『新撰姓氏録』『古語拾遺』)、その子孫は葛野主殿県主(かどののとのもりのあがたぬし)ともいわれる(『日本書紀』)。同氏は主殿の職を世襲したが、その職掌のうちには〈車駕行幸供奉〉(『延喜式』)、大嘗祭における〈秉燭照路〉(『北山抄』)ということがあり、神話と祭式の対応関係を示すものと考えられる。
4.この話を神武伝承に結び付けた氏族については、主殿寮(とのもりづかさ)の殿部(とのべ)として葛野県の鴨県主とするのが通説であるが、大伴(おおとも)氏とする異説もある。

上記の八咫烏の経歴にあって主要な項目は、3.と4.かと思われる。平安時代に入って賀茂氏は大がかりな儀式の車両担当者(実際には輿を担ぐ)あるいは照明担当者であったようで、これが神武天皇の熊野から大和への導きにつながっているのか。賀茂氏は主殿寮の殿部として天皇の乗り物や帷帳(いちよう)に関する事、および清掃・湯浴み・灯火・薪炭などの事をつかさどったか。しかし、おそらくこれは平安京に都が移ってからのことで、神武天皇時代には大伴氏が担っていたと解する説もあるようだ。

八咫烏の氏族関係についてみると、『新撰姓氏録』によれば、以下のごとしである。

山城国 神別 天神 賀茂県主 県主   神魂命孫武津之身命之後也

山城国 神別 天神 鴨県主 県主 賀茂県主同祖  
神日本磐余彦天皇[謚神武。]欲向中洲之時。
                        山中嶮絶。跋渉失路。於是。
神魂命孫鴨建津之身命。化如大烏翔飛奉導。
遂達中洲。天皇嘉其有功。特厚褒賞。
天八咫烏之号。従此始也

山城国 神別 天神 矢田部   鴨県主同祖 鴨建津身命之後也
山城国 神別 天神 丈部     同上
山城国 神別 天神 西泥土部 鴨県主同祖 鴨建玉依彦命之後也
山城国 神別 天神 祝部   同祖 建角身命之後也

上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)を峻別しているようで同祖とはいいながら、祭神が上賀茂神社は「賀茂別雷大神」(かもわけいかづちのおおかみ)、下鴨神社は「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)と「玉依媛命」(たまよりひめのみこと)と言い、賀茂別雷大神からみると、賀茂建角身命は祖父、玉依媛命は母と言う。おそらく、賀茂県主と鴨県主は先祖が違い賀茂氏と鴨氏は諸般の事情により一体化したのではないか。即ち、天八咫烏之号なるものは八咫氏と烏氏の複姓ではないのか。八咫氏については鴨県主一族に無姓(むかばね)の矢田部氏というのが『新撰姓氏録』に載っており、丹後国は「矢田」の特異点になっているように思われるので、これについて検討してみる。一般に、矢田部氏というと『日本書紀』では、崇神天皇60年7月に「矢田部造遠祖武諸隅」とか、推古天皇22年(614年)6月に矢田部造という人物が犬上御田鍬とともに大唐(隋)に派遣されている。『新撰姓氏録』「左京神別」では、「矢田部連」は「伊香我色乎命之後也」と言う。おおむね、矢田部氏とは物部氏の一族かと思われるが、概して無姓の矢田部氏も多いようで、賀茂建角身命の子孫に無姓の矢田部氏がいたようだ。丹後国の「矢田」を列記すると、


【延喜式神名帳】矢田部神社 丹後国 与謝郡鎮座

   【現社名】矢田部神社
   【住所】京都府与謝郡与謝野町石川小字矢田4626
   【祭神】伊香色雄命
       『神名帳考証』武諸隅命
       『神社覈録』矢田部氏祖

【延喜式神名帳】矢田神社 丹後国 丹波郡鎮座

   【現社名】矢田神社
   【住所】京都府京丹後市峰山町矢田小字谷山322
   【祭神】伊加賀色許命
   【由緒】創立年代は不詳

【延喜式神名帳】矢田神社 丹後国 熊野郡鎮座

   【現社名】矢田神社
   【住所】京都府京丹後市久美浜町海士
   【祭神】建田背命 (配祀)和田津見命 武諸隅命
   【由緒】垂仁天皇のとき河上摩須が勧請

【延喜式神名帳】矢田神社 丹後国 熊野郡鎮座

   【現社名】矢田八幡神社
   【住所】京都府京丹後市久美浜町佐野864
   【祭神】応神天皇 神功皇后 武諸隅命 (配祀)孝元天皇 内色姫命
   【由緒】崇神天皇10年四道將軍丹波道主命が創祀
       建武~文亀山城石清水八幡宮の佐野別宮と称せられた
   【関係氏族】矢田部氏
『延喜式神名帳』の矢田もしくは矢田部神社は三社があり上記四社のうち現・矢田八幡神社は石清水八幡宮の創祀によるものか。地名も与謝野町石川小字矢田とか京丹後市峰山町矢田とかの遺称地が残っている。起源は京都府京丹後市峰山町矢田の矢田神社と思われる。矢田の語義だが、八田皇女(応神天皇皇女、仁徳天皇皇后)の名代。『古事記』で皇女の名代としての設置の旨が記載されている。この名代部の伴造氏族として矢田部氏(姓は連・造・首)があると言う。しかし、有力地名学者(楠原佑介等『古代地名語源辞典』)の見解では矢田とは地名のことで矢田部とは「矢田のあたり」という意味である、と言う。「谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地、萢(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・東北地方)の丘陵地で多く見られる。」(Wiki谷戸)と。矢田は谷戸の定義には入っていないが関連項目としてはある。茨城県のみに「や、やつ」に加え谷田部とか谷田部町がある。谷戸も矢田も同じ意味とは思うが「矢田」地名は西日本にも結構多い。丹後半島や但馬へ進出した縄文人が強力に西日本へ散ったと言うことか。
一方、当時の畿内は摂津国(大伴氏)、河内国(穂積氏<物部氏>)、山城国(八咫烏氏)、大和国(天皇氏)などが軍事同盟を結び吉備氏などに対抗しようとしたと思われる。また、大伴氏の出身地と思われる摂津国には八部郡(やたべぐん)と言う郡名があり、これは雄伴郡(雄伴郡の前は荒田郡と言う説もある)の後継郡名で雄伴が「淳和天皇の時代(在位823年 - 833年)、天皇の諱である「大伴」(おおとも)に発音が近いことから、八部郡(やたべぐん)と改名された。」という説が有力だが、「矢田部(やたべ)」という地名があってそれに置き換わっただけという説もある。「矢田部(やたべ)」と言うのは自然地名であって、「御名代八田部の名に由来するとする」というのが通説のようだが、八田皇女の名も地名が先という説がある。そもそも平安時代に矢田部という地名がそこにあったとしても仁徳天皇の話を持ち出すのはいかがなものか。
以上より八咫烏とは八咫は矢田と書き後世の丹後国の豪族で、烏は烏ないし香良洲(旧三重県一志郡の町名)等と書き山城国の豪族で、複姓かと思われる。双方後継者難で一体化したのではないか。倭国(日本)は『魏志倭人伝』等の中国の史料によると「倭国大乱」とか「倭国乱」とか言って王朝の交替ごとに内戦が起きたようである。王朝交替の内乱は主に畿内で起きたようであるが、地方豪族にとっても無関係なことではなく、畿内豪族と連絡を取り合って旗幟鮮明にしたのであろう。従って、双方が行き来する道筋は重要なもので丹後国の矢田氏と山城国の烏氏の道筋はと言えば、畿内の起点は京都府向日市上植野町烏田(からすだ)あたりで丹後国の終点は京都府京丹後市峰山町矢田小字谷山か。西求女塚古墳(兵庫県神戸市)と同形墳と言われる元稲荷古墳(もといなりこふん)は、京都府向日市向日町北山にある。京都府向日市上植野町烏田(からすだ)とはそんなに離れていない。要は、後世の「乙訓古墳群」は「一つの地域で首長の古墳が継続して築造された事例は日本列島において稀なものです。これらの古墳の動向は、畿内中枢部(大和政権)の大王陵の動向と軌を一にしており、古墳時代における政治的動向を示す縮図ともいえます。」(長岡京市教育部文化財保存活用課の見解)、とあり、小畑川流域に築造された古墳群で小畑川と桂川に挟まれた地域は古くは烏(からす)と言われていたか。あるいは、現在は京都市内になっている烏丸(からすま、からすまる)が語源か。からすま、からすまるの「ま」、「まる」は一定範囲を言ったもので、単なる小路のことではない。畿内と丹後を結ぶ具体的な道筋は現在の向日市から福知山市までを山陰本線沿いに行き、由良川沿いあるいは現在の京都丹後鉄道沿いに宮津市、与謝野町、京丹後市峰山へ行ったのではないか。

✡大伴氏と山陰地方

大伴氏は畿内ばかりでなく広範にその勢力が及んでいたようで、1.大伴氏の祖神は高皇産霊神と言うがその配偶神として神皇産霊神がおり、神皇産霊神は出雲神話とも関係するか。2.景行天皇は元は大伴氏の客将であったか。景行天皇の本名忍代別は式内社恩志呂神社(因幡国 巨濃郡鎮座)に由来するか。3.大伴角日の墓と思われる西求女塚古墳には「石室の石材は、地元のものだけでなく、阿波(徳島県)や紀伊(和歌山県)などからも運ばれており、地元の土器は出土しておらず、祭祀に用いられた土師器には山陰系の特徴をもつものが出土していることから、山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流をもっていたことが推察され、瀬戸内海や大阪湾など水上交通に影響をもつ首長の墳墓であったとも考えられる。」(Wiki)とあり、大伴氏は祭祀関係は山陰系のものを用いていたか。
以上を勘案すると、大伴氏も山陰地方と行き来があり景行天皇の因幡国ばかりでなく元丹波国(丹波、但馬、丹後)ともお付き合いがあったと思われる。その例としては、「大伴」という苗字について言うと「大伴さんの比率が多い地域(市区町村)」は兵庫県豊岡市が全国でダントツの一位だ。豊岡市でも豊岡市日撫(ひなど)というところに多いようで、ここは今も昔も豊岡市の中心部のようだ。この大伴さんは万が一にも高句麗の好太王が日本へ攻めて来たら撃退すべく日撫に司令部を設置した大伴さんではないか。船団の線刻画で有名な袴狭〔はかざ〕遺跡ほそのときの後方支援基地か。線刻画はそのときの仕事の記録(訓練の様子か)だったのだろう。当然のことながら大伴氏も現在の神戸市から豊岡市の間に主要道路を確保したのではないか。その道順は豊岡市から山陰本線和田山で播但線の直線で姫路に来てそこから現在の山陽本線で神戸までとなっていたのではないか。

✡まとめ

大伴氏と八咫烏氏は大和朝廷に対し同じスタンスにあったと思われる(双方とも前方後方墳を採用している、など)が、少しばかり距離が違っていたようである。八咫烏氏の山城国は大和国の隣国であり、八咫烏氏は言わば天皇氏の直臣であり、「乙訓古墳群の古墳の動向は、畿内中枢部(大和政権)の大王陵の動向と軌を一にしており、古墳時代における政治的動向を示す縮図ともいえます。」と言うのも天皇氏と八咫烏氏の距離は意外に近かったと思われる。これに対して神武天皇より大和国に別宅を与えられている大伴氏は政権内の地位こそ高かったけれども、天皇氏との親近性では久米氏とか八咫烏氏とか、倭国造氏、葛城国造氏が高かったようである。
大伴氏と八咫烏氏の山陰における拠点は丹後国と但馬国という隣国同士なのに疎遠であったのか本国と山陰を結ぶ道筋は共有していなかったようである。特に、拠点が京丹後市久美浜と豊岡市は至近距離と思われるし、城崎温泉(湯島・629年開湯)の共用も行わなかったようである。もっとも、城崎温泉が弥生時代にあったかは大いに疑問ではある。
弥生時代末期の同盟というのは必ずしも同盟者が一体化して行動すると言うことではないようで、吉備氏や大伴氏、天皇氏などは血統を重んじ血筋(カラという。続柄、不逞の輩、家柄など)で結ばれた人々が同盟者となったのであろうが、八咫烏氏は実力主義だったようで先代と当代が親子、兄弟などのような血縁で結ばれた人ではなかったようだ。
おそらく、邪馬台国が狗奴国にやられっぱなしだったのも邪馬台国の大伴氏が歴代親子関係で結ばれていたのに対し、狗奴国の吉備氏は国土も広く同一親族では間に合わず能力主義も取り入れて外部の人材も混在していたからではないか。『記紀』に出てくる、崇神天皇とか垂仁天皇というのは吉備国の外様の重鎮で吉備氏一族に不満を持って大和朝廷側に寝返ったのではないか。その後血統主義は蘇我とか藤原とか天皇氏と姻戚関係を結んで勢力を伸ばしたが、八咫烏とか大伴の能力主義と言おうか実力主義と言おうか、その種の人たちは沈んでしまった。八咫烏氏は葛野主殿縣主部(かどののとのもりあがたぬしべ)と言い現在でも賀茂神社の神官として存続するが、大伴氏は「伴保平が天暦4年(950年)従三位にまで昇り、翌年には朝臣姓に改姓するが、結果的に伴氏としては最後の公卿となった。」と言うことでその後の消息はハッキリしない。
神武天皇の時代(弥生時代末期か)にも軍事同盟国の離合集散があったようだが、同盟国の結びつきはさほど強くはなく。やや大げさに言うと各国の結びつきは「てんでんばらばら」で、県主や国造のような中小豪族はともかく、大伴や八咫烏のように後世の一カ国以上を領有する大豪族ともなると自己中心的に他国と戦争を行い領土を拡大しているようだ。従って、同盟国といえども安心して共同歩調を取るというようなことはなかったと思う。大伴氏や八咫烏氏が本国である摂津国や山城国でそこそこにお付き合いしていたが、出先の但馬国や丹後国ではいがみ合っていたのかも知れない。敵対国ならますます酷く吉備氏は内部に大和シンパや大伴シンパを抱え難儀していたのではないか。

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