消えない夢の断片として/範宙遊泳『うまれてないからまだしねない』

いつからこうなった?
いつからこの雨は降ってる?
いつから俺は泳いでる?
いつからこの狂人に憐れみを感じてる?
いつからこうなった?
いつまで続く?

 『うまれてないからまだしねない』(2014年)は、僕がはじめてみた範宙遊泳の作品だった。当時はまだ東京に住んでおらず、片道1時間以上(そしてそれなりの交通費)をかけて東京へかよっていたこともあり、月に2本舞台をみられたらよい方だった。そんななか出会ったこの作品は、この時期に観劇した舞台作品のなかでも印象深いものだった。舞台上に文字(言葉)を投影するという手法は(情報としてはしっていたけれども)はじめてみたときはやはり斬新に思えたというのもあるけれど、それ以上に、ほとんどなにもないような空間(たしかそうだったと思う。5年前の話なので少し記憶があいまいだけれど)で息継ぐ暇もないほど疾走していく(そして実際に登場人物たちが次々しんでいく)様に、なにかのっぴきならないものを感じたのをいまでも体感として覚えている。いまから振り返ってみると、この作品が持つ怒り(あるいはもしかしたら破壊的な衝動)に、どこか身に覚えがあったのかもしれない。そして再演をあらためてみて、この怒りとふたたび出会い直したような感覚に襲われた。ただ、それはかつての衝動的なものに比べて、よりいっそうリアルな、現実的な手触りのもつものだったようにも思う。
 
 この作品に出てくる「あいつ」という人物は、先に引用したことばを何度もくりかえす―「いつからこうなった?」。このことばはこの作品におけるひとつのキーワードになっていて、他の人物たちもおなじくくりかえし「いつからこうなった?」と問う。もしこの問いに対して理屈で突っ込みをするのであれば、「いつからって、そりゃ物語の冒頭に星が爆発してからだよ」という答え方はたしかにできるのかもしれない。ただ、問題なのは、どうも「あいつ」が言っている「いつから」というのは、もっと以前、もっと長いスパンでみた「いつから」のように思えてしまう。
 たぶんこの「いつから」は物語の外―現実の世界の時間が包含されているのだと思う。現実の世界というのはつまり、この作品を書いた山本卓卓の時間であり、この作品を観た僕(であり、そして他のすべての観客)の時間であり、あるいはこの作品を観なかった大勢の人たちの時間であり、そしてこの作品ができる(再演される)までの時間だ。現実の出来事や作家の考えが作品に反映されている、という陳腐なことを言いたいわけではなく、むしろなんというか、物語が現実の時間軸に喰い込んできてしまっているような、もっといえば、物語が現実の時間を孕んでしまったような、そんな印象を受ける。
 なんでそんなことが可能になってしまえるのかといえば、おそらくこれがうまれてこなかった(これなかった)女の子(胎児)の話だからだ。胎児というのは不思議な存在で、この世にうまれてはいないものの、母親のお腹のなかで(に)たしかに存在もしている―存在と非存在とを同時に孕んでいる。そして胎児自身の時間と、お腹の外の時間とを同時に生きている。だからこそ彼女=胎児の(内側の)時間軸(=作品の時間)と外側の時間軸(=現実の世界)とがごっちゃになってしまっているのだろう。つまり、うまれてこなかった彼女の世界<(含む)父親と母親になるはずだった夫婦の世界という二重性と、作品の世界<(あるいは>)現実の世界という二重性が同時に存在している。いわば、母親が胎児の時間を孕んでいるように、現実世界が作品の時間を(あるいは作品の時間が現実世界を)孕んでいるといえるだろうか(思えば『その夜と友達』もまた二つの二重性があった―すなわち、2017年<2032年という二重性と、作品世界における2017年<(あるいは>)現実世界における2017年。そのように考えるなら、『うまれてないからまだしねない』と『その夜と友達』はある相似を成しているのかもしれない。もちろん、両作品とも岸田賞の最終ノミネートに選ばれた、ということとは関係なく)。
 先に「かつての衝動的なものに比べて、よりいっそうリアルな、現実的な手触りのもつものだったように思う」といったことを書いたが、このリアルな感覚というのは、上記の二重性によるもののように思う。つまり、「あいつ」が言う「いつから」に、再演までの5年という年月が加わったことで、作品に包含されていた怒りが現実における具体的な出来事に肉付けされていったのだと思う。

鉄 たぶんこの雨はあと2日もすればやむよ。でもやんでからだよ。本格的にみんな鬼の存在を疑えなくなってくる。それで、気がついたらもう地球は手に負えない状態になって、ただただ俺達は過去の行いを悔やむんだ。ああ、あの時鬼を倒しておけば良かった、って。そうやって過去を振り返ることくらいしか、やることがなくなるからね。

 初演でこの台詞を聞いたとき、僕はこのことばをただの狂人の戯れ言程度にしか受け取っていなかったのではなかったか。それなのに、いまこのことばを聞いたときのぞっとする感覚はなんだろうか。「ねえ人間てこんなに冷たい生き物だったっけ?」という丸山のことばや、「空気が歪んで見えるんです・・・私だけじゃ、ないですよね?」というカオのことばにはっとさせられるのはなんなのだろうか。「もうどうだっていい 流された方が楽だ」と思考停止に陥る「あいつ」のことばににわかに怒りと恐怖を感じるのはなんなのか。この5年の間にずいぶんいろんなことが変わってしまった気がする。べつにそれをすべてそのまま作品上のことばに当て嵌めるほどノスタルジックな気分に陥りたいわけでもないが、それにしてもこう言わずにはいられない気持ちにもさせられる―「ちょっと前まで絶対こんなんじゃなかった」。
 このように考えたとき、「いつからこうなった?」と言うときの「いつから」というのは、未来をすら孕んでいたといえるのかもしれない。2014年の初演の時点からみた未来―2019年の再演の時点からみた過去。この作品がふたたび上演されるかどうかはわからないけれど、また上演されるとすればその上演されるまでの間の「いつから」がさらに加わるのだろう。そうやって「いつから」は自己増殖をつづけていく。そして気づいたときにはなにもかも手遅れになっている。
 だが、取り返せない過去が増殖しても未来が減るわけではないということを、この作品は同時に示している。

妻 私たちが死んでも、子供達はすくすく育って、私たちのようにまた歴史をつくった。

 「それからあなたは今うまれる」と、これからうまれる―より厳密にいうなら、まだうまれていない―未来を寿ぐことで、この話はおわる。どれだけ取り返しのつかない過去が増殖しようとも、あるいはだれか個人の時間がどこかでぷっつりと切断されてしまおうとも、未来がなくなるということはけっしてない。そして、まだ「うまれてない」未来こそ、「いつから」を逃れる可能性を孕んでいるのだろう―それは過去にも未来にも今にも、どの時間軸にもまだ属していないし、そしてどこにでもいけるのだから。「うまれてないからまだしねない」というのは「うまれてないから、これからうまれる」ということでもある。<いつから>と<これから>の反転としての「今うまれる」いのち、時間、歴史―この作品が孕んでいたものは、死でも絶望でもなく、寿がれるべき未来なのであり、そしてそうであるべきだ。

 本多劇場へ向かう前にたまたま寄った本屋で購入した笹井宏之歌集『えーえんとくちから』(ちくま文庫、2019年)の解説で、穂村弘は笹井短歌に対し「魂の等価性」といったことを指摘している。

ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

 笹井のこの短歌に対し、穂村は「人間である<私>と「樹」とが区別されない世界像がある」と指摘する。また、つぎのような短歌に対しても、同様の「区別されない世界像」がみられるという。

あるいは鳥になりたいのかもしれなくて夜をはためくテーブルクロス
風であることをやめたら自転車で自転車が止まれば私です
しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう
さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから

 穂村はこれらの短歌を引用しつつ、これらの歌における存在の移り変わり(「テーブルクロス」→「鳥」、「風」→「自転車」→「私」、「にんげん」→「まくら」、「あなた」→「海」)を、従来の短歌における比喩や擬人化やアニミズムといった手法とは区別しつつ、それは笹井短歌特有の「一つの原則めいた何か」だと指摘している。そしてその「原則めいた何か」のことを、穂村は「魂の等価性」と言語化している。
 さらに穂村は、与謝野晶子や斎藤茂吉といった近代歌人たちが<私>を強く押し出すことで「<私>の命の輝きを表現しようとした」のを批判的にとらえつつ、笹井短歌における「魂の等価性」についてつぎのように述べる。

 (……)多くの歌人は<私>の命や<私>の心の真実を懸命に詠おうとする。そのエネルギーの強さが表現の力に直結しているとも云える。だが、そのような<私>への没入が、結果的に他者の抑圧に結びつく面があるのは否定できない。(中略)人間による他の生物の支配、多数者による少数者の差別、男性による女性の抑圧など、強者のエゴによって世界に大きなダメージを与えている。それは何とも交換不可能なただ一人の<私>こそ大切だという、かつては自明と思えた感覚がどこまでも増幅された結果とは云えないか。そう考える時、笹井作品における魂の等価性とは他者を傷つけることの懸命の回避に見えてくる。
(笹井宏之『えーえんとくちから』ちくま文庫、2019年、194頁)

 人間やモノが区別されることなく、そして<私>という存在が<私>を取り巻く環境と等価である感覚。この「魂の等価性」は、おそらく範宙遊泳(あるいは山本卓卓)の作品においてもみられるように思える。
 たとえば劇団のHP上でいま公開されている『さよなら日本―瞑想のまま眠りたい―』(2013年)では、ミミズ→蜂→椅子、というように次々と存在が移り変わっていく人物(人物じゃないけど)が登場する(しかもこの椅子はことばを発する)し、「あ」という単語(文字)がまるでペット(生物)のように扱われる。また、ドキュントメントとして上演された『となり街の知らない踊り子』(2015年)では、さまざまな人物たちが北尾亘という俳優の身体をとおして、まるで<私>がひたすら撹拌されていくかのように舞台上に生まれては消えていく。『うまれてないからまだしねない』においても同様のことはいえて、たとえばゴキブリが人間の言葉を喋りふつうに人間と会話をするようになるし、老人たちは風船になる。これらの作品において人間/動物/物体という区別はもはや意味を成さないように思われるし、<私>という絶対的な個が(ひとり芝居であっても)場を支配するでもない。もしかしたら山本卓卓が文字(言葉)を舞台上に投影するというのも、この等価な関係性が関係しているのかもしれないとも思わせられる。言葉もまた人間と区別がされない。『その夜と友達』(2017年)以降の作品はこれまでの作品と作風が少し異なっているようにも思うが、それらの作品も含め山本卓卓の作品をあえて一言で言い表すなら、「魂の等価性」、あるいは「他者を傷つけることの懸命の回避」ということなのかもしれない。
 (そしておそらく、僕が『#禁じられたた遊び』(2018年)という作品を受け容れられなかったのも、おそらくこのことに因るのだと思う。Twitterでつぶやいたのでここではもうくりかえさないが、あの作品においては、すべてが「アキラ」の物語に回収されてしまい、他の人物たちがただ「アキラ」の物語を引き立てるための附属品にしかなっていなかったように思えた。しかも、当の「アキラ」ですら、その物語を語るために拵えられた消費される対象として存在してしまっていたようにさえ思う。)

 『うまれてないからまだしねない』に出てくる人物たちが等価にみえるのは、夫婦以外は胎児の(こういってよければ)分身だったからだろう。ここではうまれたものもうまれてこなかったものも、人間も動物もゴキブリも等価だ。そして彼ら彼女らが次々にしんでいったことは、逆説的に彼女=胎児が存在していたことを証している。彼女はうまれてはこれなかったが、たしかに一瞬でも存在はしたのだ。彼女はしんでしまった。「みんなみんなしんでしまった」―だが、彼女が母親のお腹のなかでみていた夢がすべて消え去ったわけでもない。「うまれてない まだうまれてないぞ」と主張しながら天井からわれわれを見おろす風船が、けっして消え去ることのない夢の断片のように、ゆらゆらとゆらいでいる。

終止符を打ちましょう そう、ゆっくりとゆめのすべてを消さないように/笹井宏之

範宙遊泳『うまれてないからまだしねない』@本多劇場
2019年1月31日~2月3日
公演情報:https://www.hanchuyuei2017.com/umashine

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高須賀真之

1989年愛媛県生まれ。2017年12月、ふじのくに⇔せかい演劇祭2017劇評コンクール最優秀賞および入選。2018年1月、第22回シアターアーツ賞佳作。

noteach

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