捩れから浮かび上がるもの/ジエン社『ボードゲームと種の起源』

 かっちりとした「批評」のスタイルで書ける気がいまはしないので(そもそもそういうスタイルがあるのかどうかしらないけれど)、まずは劇中で印象に残った台詞(言葉)について触れるところからはじめてみたい。

チロル「近すぎたわたし?……わたし距離が近くなりすぎるから、人間たちをおかしくさせてしまうらしい」

 当日パンフレットの登場人物紹介によると、チロルは「自称妖精の女。妖精の森出身で、3か月前、魔界の門が、ダークエネルギーが、魔の胞子が、なにか、こう、いろいろあってボードゲームを知って、それでボドゲ妖精として広くボードゲームの魅力を伝える、という事にした、300と19歳を自称する、20代中盤(後半寄り)の女」である。つまり妖精になりきっている(言ってしまえばちょっとイタイ)女性なわけだが、彼女のこの台詞が印象的だったのは、自身が人間であるにも関わらず「人間たちをおかしくさせてしまうらしい」と言ってしまう(言わざるを得ない)、その捩れにあると思う。
 前作『物の所有を学ぶ庭』を観たことのある人であれば、「チロル」というのは前作にも登場した役名であることにすぐに気付いただろう。そして、前作では「チロル」はほんものの妖精だった。演劇(別に小説でも詩でも短歌でもいいけど)に妖精を出すことのおもしろさは、人間とは違った視点・レイヤーを持つ存在を登場させることで、逆に人間という存在の本性(みたいなもの)を曝け出していく、というところにあるわけだけど、その一方で、妖精という存在を出すと何でもできてしまう、という弱点、というか脆弱さも同時にあると思う(それはちょうど、夢の話にしてしまえば何だって描けてしまうということに似ているかもしれない)。そしてそれはそのまま、前作『物の所有を学ぶ庭』という作品のもつおもしろさでもあり弱さでもあったように思う。
 仮に、先ほど引用したチロルの台詞を、ほんものの妖精が言った台詞だと想定して読んでみたとする。「人間たちをおかしくさせてしまうらしい」と言われても、「そりゃあ妖精なんだからしょうがないよね」という思いは拭えない(少なくとも僕はそう思って聞き流してしまう気がする)。そもそも、妖精は人間を「おかしくさせてしまう」ものだと、むかしから相場が決まっている。
 だが、注意しなければならないのは、『ボードゲームと種の起源』におけるチロルは、実際には妖精ではなく人間である、ということだ。「人間たちをおかしくさせてしまうらしい」という言葉の背後には、“自分は人間ではない”という設定をしておかないとうまく人間とコミュニケーションできない(しかし結果としておかしくさせてしまう)という捩れが見え隠れしている。
 とはいえ、彼女が自分を人間の女性だとまったく意識していないわけではなく、たとえばそれは次の女性どうしの台詞のやり取りから察することができると思う。

ニホ「女子と話せないんだよねえ」
チロル「あ、私も。年下となら話せるけど」
ニホ「だから、あの自分の中で、ルールっていうか、話しかけの。相手を、女子とかじゃなくて、先輩、とか、後輩、とか、病んでる人、とか、にして、ゲームの役みたいに、設定すると、話せる」
チロル「わたし、病んでる人ですか?」
ニホ「あ、うん」
チロル「へえ」
ニホ「なんで男相手だと、話せるんだろうなあー」
チロル「わたしやあなたのことを、人間だとおもってくれないからじゃないですか」
ニホ「ああ、ゲームで使う駒みたいな」

 このシーン、実際には途中から中大兄と個子との会話が差し挟まれるのだけれど、ややこしくなるのでここではニホとチロルの台詞のやり取りだけ抽出した(ジエン社における言葉の構造については後半で詳述します)。この「ルール」や「駒」といった単語はこの劇中に頻出するけれど、そのことはあきらかにボードゲームが影響していて、この作品はボードゲームというものを下地にする(通奏低音的に底流させる)ことで、逆に現実世界の捩れ、のようなものを炙り出していく。
 おそらくこの作品における登場人物たちにとって、ボードゲームはひとつの避難所のようになっていて、それはたとえば、中大兄や個子の「箱に入りたい」という言葉に端的に表れていると思う。また、引用した台詞のやり取りの少しあとで、ニホが「ミープル」と呼ばれる、ゲームで使用される駒の説明をするくだりがあり、ミープルとは「ミー・ピープル(=私を、している人)」の意味だと言うのだけれど、ゲーム上で何らかの役を与えられる「駒=ミープル」の存在は、ゲームの外にいる登場人物たちが抱えている、「私」という存在の摑みどころのなさの裏返しでもある。
 だけど、ゲームははじめた以上いつかは終わらないといけないわけで、中大兄が作った『魔女の森に座る』というゲームが、終盤で『魔女の森を出る』という名前に変わり、ルールも森に留まる(森の奥にある椅子に座る)、という設定から、森から出ていく(森の出口を見つける)、という設定に変わるのは、避難所としてのゲームの世界からいずれは出ていかないといけない(そしてそこにはおそらくゲームのような明確なルールが存在しない)ということ、また、ラストに雨が止んでニホが出ていくことを暗に示している。
 それでもなお彼ら彼女らに一抹の救いがあるとするなら、それは、少なくともゲームの中でなら他者と時間を共有することができる、ということではないだろうか。それはあまりに希望のないことなのかもしれないし、何にもならないことなのかもしれないけれど(だってゲームの時間はいずれ終わってしまう)、でもこの作品に出てくる人たちは(というか、この作品に限らずジエン社の作品に出てくる人たちは)、希望はもう満ちない、というところからしかはじめられないし、そこからしかはじめるしかない、ということを、みんな知っているんじゃないかと思う(だからこそジエン社の作品に出てくる人たちはあんなにもみんな不器用なのだと思う)。そうやって考えていったとき、ニホとチロルの次の台詞はとても切実なものとして響くように思う。

ニホ「今、私楽しいんだよ。すごく楽しい。楽しいから楽しいの。ゲームしてても、何にもならないよ。何にもなれないよ。でもね、楽しいんだよ。なんでこんなに楽しいんだろう。わたし、幸せだと思うの。」
チロル「この幸せでよかったのに、って思うの」

 捩れ、でいうと、ジエン社の舞台における言葉の組み立て方、というか、飛び交い方は、とても捩れがあって、それは言葉のスピードの差異によるのだと思う。
 ということを考えたのは、歌人の平岡直子による宇都宮敦の第一歌集『ピクニック』評(砂子屋書房HP上<一首鑑賞※日々のクオリア>、2018年12月19日付のもの)を読んだからだった。少し長いが、平岡の文章を一部引用してみたい。

宇都宮敦の発明は、それまで二分割しかなかった短歌を三分割にしたこと。宇都宮敦が重要な歌人なのは短歌の貧しさも口語の貧しさも逆手に取りつづけるパイオニアだからだけど、なかでも短歌の三分割化は小田急線が複々線化してそれまでの混雑が大幅緩和されたことくらいに画期的なことなのである。この三分割法はたとえば以下のような歌にわかりやすい。一字空けをはさんで一首が三つに分かれている。

真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは/宇都宮敦
つぶやきは 北極グマがゆっくりと水にとびこむ 聞き流していい

これらの歌は最初は倒置の亜種として発生したのではないかと想像する。たとえば一首目に散文的な原形があるとしたら〈真夜中のバドミントンがつづかないのは月が暗いせいではないね〉という一文になるだろう。これは散文的には意味は取りやすいけれど、韻文的にはやや尻すぼみ。だけどそこに〈月が暗いせいではないね 真夜中のバドミントンがつづかないのは〉という倒置を入れると韻文としての息を吹き返すし、そこにさらに倒置in倒置が入ったのが最終形態で、たしかに語順としてはこれがベストだと思う。そしてこの倒置in倒置こそが歌を三分割にするコロンブスの卵だったのではないだろうか。
 倒置in倒置は倒置じゃなくなる。パート1〈真夜中のバドミントンが〉とパート3〈つづかないのは〉がロングパスでつながっているので、そこからしめだされるパート2〈月が暗いせいではないね〉は複々線の路線で急行の隣の線路を走る各駅停車のように、パート1・3の隣をちがうスピードで並走することになる。三分割の歌は潜在的に多行書きなのだ。挿入句のように浮きあがるパート2は、パート1・3に対するルビのような役割を果たしていると思う。
(引用元:https://sunagoya.com/tanka/?p=19650

 言葉が「ちがうスピードで並走する」というのは、おそらくジエン社の作品にもいえて、そのことを強く感じたたとえば次のシーン。

中大兄「それで話って」
チロル「このゲームさ」
個子「ニホさんていつ出ていくの」
チロル「駒を置き終わって、話し合いがまとまらなかったら、どのカード開けばいいの?」
中大兄「昨日。昨日って言ってた。昨日は」
個子「出ていかなかった」
中大兄「雨だったからね」
ニホ「そのあたり、まだ固まってないんだよね。話し合いよりいいルールがあれば」
個子「……兄さん」
中大兄「話し合いがしたいんだよ」
チロル「ボドゲのルールであんまり話し合いで決めるってなくない?」
ニホ「わたしサイコロで決めてもいいと思うんだけど」
中大兄「話し合いがしたいんだよ」
個子「ニホさんに、はやく出ていくように言ってよ。お兄ちゃんから」



個子「ニホさん、わたし、きらいなんだけれど」
中大兄「そう」
個子「ここは私たちの家。家族の家」
中大兄「ちゃんと俺は、帰れって言ったよ。おととい。……でも雨だったからね」
チロル「雨が降ると最近は電車が止まるんですよ。JR全日本は」
中大兄「へえ」
チロル「そういうルールにしたみたい。」
中大兄「そういう、ルールにしたい。話し合いをしたい。そういうルールにしたい。だから、そこのルールは変えない」
ニホ「だからそこで膠着状態になっちゃうんだって」
中大兄「……」
チロル「雨は、この街をすっかり孤立させてしまいました」

 文字に起こすと若干言葉の向かっている方向がわかりづらいが、まず「間」以前のパートだと、中大兄⇔個子、チロル⇔ニホの間で基本的に会話が成されており、それが並行して行われていることがわかる。そして「間」を挟んで、中大兄⇔個子間の会話から中大兄⇔ニホ間の会話へシフトしていく(その過程で少しだけ中大兄⇔チロル間の会話が挟まれる)。ここで問題なのは、「間」以前の中大兄の「話し合いがしたいんだよ」という台詞だ。というのは、「話し合いがしたいんだよ」という言葉は「間」以後のニホへ向けられる「そういう、ルールにしたい。話し合いをしたい。」という台詞へと繋がっていくわけなのだけれど、「間」以前にこのボードゲームのルールについて話しているのはチロル⇔ニホ間でのことだし、中大兄は中大兄で妹の個子と会話をしているはずである。しかも、両者はおなじ空間にいるわけではなく、おそらく別々の時、別々の空間で会話を交わしているはずである(そして演劇なので、別の時空間にいるはずだけれど、おなじ空間に居るというおかしなことが起こる。ややこしい)。その中で、中大兄の「話し合いがしたいんだよ」という言葉(しかも二度繰り返される)はあきらかに浮いてしまっている。彼の言葉はどこにも着地することなく、宙吊りにされてしまっており、それよりなにより問題なのは、この言葉を発しているときの中大兄はいったいどの時空間上に存在しているのか?ということだ。だってあきらかに個子との会話上での言葉ではないし、この段階ではまだニホとは会話をしていない(そもそもこの言葉がニホへ向けられた言葉なのかどうかはわからない)。
 平岡の『ピクニック』評に則して考えるのであれば、「間」以前のチロル⇔ニホ間の会話の内容(ゲームのルールについて)がパート1の役割を果たしていて、「間」以後の中大兄⇔ニホ間の会話へのロングパスになっている(だからここがパート3)。そして問題の中大兄の「話し合いがしたいんだよ」という言葉はパート2で、「間」以前のチロル⇔ニホ間の会話と「間」以後の中大兄⇔ニホ間の会話の間に挿入されつつ、ニホの会話の対象をチロルから中大兄へと切り替える(あるいは中大兄の言葉の方向をニホへと変える)役割を果たし、中大兄の「そういう、ルールにしたい。話し合いをしたい。そういうルールにしたい。だから、そこのルールは変えない」という言葉(台詞)の中へと収斂していく。ただ、この台詞の前半の「そういう、ルールにしたい。話し合いがしたい。」という段階では言葉と発話体(中大兄)にはまだ揺らぎがあって(少なくとも僕にはそうみえて)、それはちょうどカメラを覗き込んだ時に対象とのピントがまだ合っていない状態とでもいえるだろうか。そして台詞後半の「そういうルールにしたい。だから、そこのルールは変えない」あたりからようやく言葉と発話体の像が結びはじめ、言葉が向かっていく方向と中大兄の存在がはっきりと見えるようになり、そしてニホとの会話へと移り変わっていく。ただここでまた問題になるのは、今度はチロルがどこへ行ったのか、ということで、チロルの「そういうルールにしたみたい。」という台詞は次に続く中大兄の「そういう、ルールにしたい。話し合いをしたい。そういうルールにしたい。だから、そこのルールは変えない」というニホへ向けられる言葉を誘発するトリガーになっているわけだけれど(そして一瞬だけ挿入される中大兄⇔チロル間との言葉のやり取りはその前段階のクッションとしての役割を果たしている)、チロルが発する言葉はこの台詞以降モノローグに変わる(つまりある特定の対象に言葉が向かっていかない)。だから今度はチロルがどの時空間上に存在しているのかわからなくなってくる(くどいようだが、演劇なので別の時空間にいるけれど、おなじ空間に身体は存在しているという状況)。つまり、異なるスピードの言葉や、異なる時空間上の身体が、同時に並走している状態、とでもいえるだろうか。
 平岡は宇都宮の短歌を三分割する方法によって「それまでは表記上の調整や、せいぜい時間的・空間的におおまかに断絶があることしか表せなかった一字空けが分岐器を設置できる場所になった」と指摘しているけれど、ジエン社の場合、言葉はもちろんのこと、身体もまた、異なるスピードの時間・空間を、あたかも複々線の路線のようにいろんな方向へ向かわせる「分岐器」の役割を果たしていて、その手法こそがジエン社の特徴であり、また、ジエン社の作品世界における言葉の強度を担保しているものなのだと思う。
 白状してしまうと、はじめてジエン社の作品を観たとき、その同時多発会話による手法は、いったい青年団となにがちがうのだろうと思っていた。だが、鉄道の喩えを引っ張るのであれば、青年団の同時多発会話の場合は、おなじプラットフォーム上で山手線の外回りと内回りが同時に出発するのを見送る感じだと思う(ちょっとちがうか?)。つまり、青年団の舞台では、異なることが同時に起こりはしても、時空間の捩れは起こらないし、言葉のスピードの変化もなく、舞台上の時空間はあくまでフラットな状態が保たれている。……というふうにみていくと、青年団とジエン社の同時多発性は、一見似ているようで、実は決定的にちがっていることがわかってくる。ジエン社の作品における言葉の構造を考えるのならば、まずはその時空間の捩れや発話体の存在の揺らぎや言葉のスピードの差異が問題とされなければならないだろう。

 そしてその捩れや揺らぎや差異からみえてくるものは、自分の存在の不確かさだったり、人とのわかりあえなさだったりするのかもしれない。実際、ジエン社の舞台においてある言葉とある言葉とがシンクロするとき、それは言葉どうしが共鳴し合って結び付くというよりも、むしろ齟齬と齟齬とががちがちと噛み合っているような印象を受ける。ただ、その隙間からぽろりと零れ落ちてくる言葉があって、それはたとえば最初に引用したチロルの台詞だったり、ニホの「今、私楽しいんだよ」という台詞だったりするのだけれど、それらの言葉はいつまでも残響として留まりつづけるような響き(重み)を持っていて、それはもしかしたら「沈黙」の側に属した言葉なのかもしれない。そしてジエン社における同時多発会話という手法は、この「沈黙」から浮き上がってきた言葉を掬い取るための、濾過機としての働きをしているのではないだろうか。もちろん掬い取られるべき言葉があらかじめ設定されているわけではなくて、きっと観る人によって掬い取る言葉は違ってくるだろう。あるいは何の言葉も留まらないかもしれない。その差異までも含めて、ジエン社の作品における言葉(あるいは山本健介が書く言葉)は、不確かさの中にあってたしかな手触りを残しているように思うし、それは逆説的かもしれないが、言葉や存在の捩れ/揺らぎこそが生みだすものなのではないだろうか。

※引用した劇中の台詞はすべて『ボードゲームと種の起源』の台本(物販用)に依っています。

ジエン社 第13回公演『ボードゲームと種の起源』@アーツ千代田3331 B104
2018年12月11日~16日
公演情報:https://elegirl.net/jiensha/works/boardgame


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