生成する時間と生起する歴史 ーF.ローゼンツヴァイク『健全な悟性と病的な悟性』第6章を通してー

2020年度キリスト教倫理学研究
F.ローゼンツヴァイク『健全な悟性と病的な悟性』
第六章 治療・第一週
発表;濱和弘

 以下に述べる内容は、F.ローゼンツヴァイク『健全な悟性と病的な悟性』の第6章の内容である。ローゼンツヴァイクは、人は、生成される時間の中で繰り返し歴史が生起され、それが面々と繋がりつつ歴史が形成されて行く中で、人はその歴史の形成者となる存在であると捉えている。それは、過去の時間から連続し、私たちを歴史の罪最前線で「前へ」と押し出していくのであるが、その過去の時間との連続性が「言葉」によって結ばれている。
そのあたりのことが、この6章において明確に述べられている。
 ローゼンツバイクにとって、歴史は予定されたものではない。時間の生成と共に生起するものである。このあたりの時間観は、きわめて重要であり、時間と空間の連関の捉え方も極めて重要であろう。それは、現代哲学においては、メルロ=ポンティなどに通じるものかもしれない。

1. 第六章の位置づけ
ローゼンツヴァイクはこの書において、人間がその生における「驚き」を契機として引き起こされる物事の本質を追求する哲学的な態度を「病的な悟性」と言って批判する。その批判に基づいて。6章から8章においては病への治療と銘うち、「病的な悟性」を悟性の本来あるべき姿である「健全な悟性」へと導こうとするのであるが、その治療の構成は、6章で世界への問いを取り扱い、7章で人間への問いを、また8章では神について語る。
このように、世界・人間・神に対する問いは西洋哲学においての伝統的な問いであり、存在するものの全体はこの三者によって区分される 1。ローゼンツヴァイクにとっても、この三者は「始源岩層」と呼ばれ、存在全体の根源的なものとして捕らえられている。そして、人間の生は、この三つの「始源岩層」を縫って走る道路に譬えられている2 。
ローゼンツヴァイクの問題意識は、この三つの「始源岩層」を縫って走る生の道路の一局面で見える三つの「始源岩層」の一つの層の景色を見て立ち止まり、それが何かを追求する姿勢である3 。ローゼンツヴァイクは、またこの三つの「始源岩層」を、三つの山頂に譬える。その上で、「病的な悟性」を回復させる治療法は、一つの山頂を見上げるのではなく、三つの山頂を同時に眺望させることだという4 。それゆえに、ローゼンツヴァイクの言うサナトリウムは、この三つの「山頂」の真ん中に位置するのである5 。つまり、ローゼンツヴァイクの治療法と言うのは、「驚き」をもたらす出来事を、世界・人間・神との関係の中で捉えさせ、思考させようとするものである。それによって、我々に「これは何か」という本来的なものを追求するという哲学的思惟へと誘う「驚き」の出来事も、連続する「世界」の歴史と人間の生の全体の中の一局面で起こった出来事に過ぎず、その「驚き」の出来事も人間の生と世界の歴史の連続性内の出来事であること、つまり常識的な言葉によって捉えられるものであることに気付かせることにあるといえよう。

2. 6章全体の外観
ローゼンツヴァイクは、6章の冒頭において、「世界」について語るにあたり、次のように述べている。

   なんらかの世界観(Weltanschauung)を持つことは礼儀にかなってい  る。世界を眺めること(Welt anzuschauen)できるようになるのはきわめて自然であたりまえのことだと、人は考えたくなる。しかし、現実に人が直接出会うのはせいぜいのところ、事物、人間、出来事といった世界の部分でしかない6 。

世界観(Weltanschauung)とは、「事物、人間、出来事といった世界」と人間の生活との総合的見解である。それはつまり、私たちの生活の中から世界を眺めた(Welt anzuschauen)結果である。編者(グラッツアー)は、その注において、この「世界を眺めること(Welt anzuschauen)」ということについて、まず、邦訳の『救済の星』の言葉を引用 し7、その上で本書の6章は、ローゼンツヴァイクの『救済の星』の第一巻第2章に対応すると述べている。
 これは、私たちが、私たちの切り取られた世界(事物、人間、出来事)から現前に広がる世界を眺めるときに、その切り取られた世界は、あくまでも切り取られた世界であり、それは決して「世界」のすべての全体像ではないと言う批判と同時に、その狭い切り取られた世界から観察し考察された(anzuschauen)「世界」の背後にある「観念」もまた、「世界」全体を支配するものではないということである。
 同時に、そのような批判は、単に静的な場所的制約性に対する批判だけでなく、動的な時間的制約性に対する批判でもある。そこには世界は、時間の生成とともに生起するものであるというローゼンツヴァイクの理解がみられる 8。ある定まった時点で切り取られた世界とそれより後の時間の先端にある〈今〉の同じ場所は、必ずしも同じものではない。「世界」は動的に動いている。その動的に動いている「世界」を、一時点の、しかも切り取られた場所から普遍について語るとすれば、それはゼノンの「飛ぶ矢」であり、「アキレスと亀 」となる9。
それゆえローゼンツヴァイクの問いの主題は、この生成される時間と共に生起する「世界」を、切り取られた世界から「本来性」といった抽象的思考によって追求するのではなく、「世界」全体を結び、それに連続性と一貫性といったものを与えるものが何であるかに向かう。つまり、絶えず生起している事物・人間・出来事に一貫したものがなんであるかに向けられる。ローゼンツヴァイクはそれを言葉(命名行為)に見出していくのである。

3. 批判(本質の追求不可の論証)
 ローゼンツヴァイクは、事物に対する認識について、観念論的(プラトン的、あるいはカント的)な捉え方に対する批判が見られる。プラトン的な観念論においては、事物の〈本来的〉なものあるいは本質(ウーシア)は「イデア」であり、カントのそれにおいては、「物それ自体」である。これらは哲学的概念であって、人間が認識可能な物事・人・出来事によって構成されている現前の「世界」に対して超越している。つまり、「イデア」もしくは「物それ自体」のようなものが存在するならば、それは現前の世界とは「まったく別のなにか」であり、それゆえに現前の「世界」は、「イデア」や「物それ自体」に対しては仮象にしか過ぎない。だとすれば、仮象である世界の背後にあるのは、認識可能な世界においては認識不可な〈無〉である。この〈無〉が何であるかを探求すること、すなわち認識しようとすることは、実在論的には自家撞着である10 。
 これに対して、ローゼンツヴァイクはこの認識不可な〈無〉を捕らえる可能性の試みとして、〈自我〉を挙げる。例えばそれは、デカルトのcogito ergo sumのようなものである。デカルトは懐疑している自己こそは疑いのないものであるとして、自己の懐疑を中心にし、その自己の延長線上に世界を再構築していく。
 しかし、ローゼンツヴァイクは、そのように思惟している自己もまた、世界の一部として世界内に置かれているのであるとするならば、自己は、他者にとっては仮象である世界の一部にしか過ぎないと述べる。つまり、見ている〈自我〉は、見られている〈自我〉でもあって、〈自我〉もまた仮象なのである。それは、世界を見ている〈自我〉は世界から見られている〈自我〉であることを意味している。したがって、〈自我〉によって再構築する世界は仮称の仮称にしか過ぎないものになり、世界の背後にある何かとして〈自我〉を据えることはできない。
 ローゼンツヴァイクは、この世界の背後にあるものについて、仮に神の存在を考えるにしても、その神が、「世界」を通して、人間に思惟できるものであるならば、それは「世界」内の存在であり「世界」内にある限り、その考えられた神もまた仮称であると言う。神がこの世界外の世界を超越した何かであるとするならば、それは人間の思惟では決して達し得ない存在であり、それは結局のところ〈無〉に帰結するのである。

4. 主張(切り取られた世界を結び合わせるものとしての言葉)
ローゼンツヴァイクが「病める悟性」として批判したものは、切り取られた世界の中で
の「驚き」から物事と物事、出来事と出来事、人と人を結びつけるものとして、本質なるものを思惟し追求することである。それは、ショーウィンドウにある一片のチーズ を11、牧場にあるチーズの塊に結びつけるものは「何か」を追求することであり、昨日、ショーウィンドウに置かれている一片のチーズと今日のショ-ウィンドウにある一片のチーズとを結びつけるチーズの「本来的なもの」、あるいは「本質」という「物それ自体」の追求である。
 ローゼンツヴァイクは、そのような「物それ自体」の追求は、結局のところ認識不可な〈無〉に帰すと言って批判することは既に述べた通りである。この点では、ローゼンツヴァイクの批判は、一見カントの純粋理性批判に通じるように思える。しかし、ローゼンツヴァイクは、単にカントを批判するのではなく、カントが乗り越えられなかった認識不可の世界を、そのカントをも乗り越えることで捉えようとする 12。それはローゼンツヴァイクの

   すべての事物は世界の〈なにか〉に淵源する連関を持っている。それは仮称ではない。事物がまわりから遊離し立ち止まり、みずからの深部に降りていくときに確信できるものではない。むしろ、そのためには事物がみずからをつらぬいて流れている流れにひらかれなければならない13 。

と言う言葉に見られる。ローゼンツヴァイクはこの言葉において「すべての事物は世界の〈なにか〉に淵源する連関を持っている。それは仮称ではない」と明言する。では、その〈なにか〉とは何か。ローゼンツヴァイクは、それを言語(言葉)に見出す。事物と事物、事物と人、人と人、人と出来事、出来事と出来事、そして出来事と事物を、我々は言葉で結びつける。つまり、認識不可なショーウィンドウにある一片のチーズと牧場にあるチーズの塊と、また昨日、ショーウィンドウに置かれている一片のチーズと今日のショ-ウィンドウにある一片のチーズとを結びつけるものを、認識不可な「物それ自体」という哲学的概念によって解消し、不可知なものにしてしまうのではなく、言葉がそれを結ぶのである。
 ローゼンツヴァイクは、言語(言葉)は「世界」すなわち、物事・人・出来事に付着するものであり、印章ではあるが、「世界」そのものではなく、「世界」の一部ではないと言う 14。同時に、人は物事・人・出来事を言葉によって、それが〈なにか〉を認識する。物事・人・出来事が言葉によって命名され、言葉が、物事・人・出来事に付着するとき、物事・人・出来事が「である」となるというのである。そして、命名された名が受け継がれ、共同体において共有されるとき(つまり常識とされたとき)に、ショーウィンドウにある一片のチーズと牧場にあるチーズの塊と、また昨日、ショーウィンドウに置かれている一片のチーズと今日のショ-ウィンドウにある一片のチーズとが、空間と時間の限界を超えた結びつきの中で現実化するとローゼンツヴァイクは主張するのである。
 このとき、ローゼンツヴァイクは次のように言う。長い引用になるがそのまま引用する。

   こうして、どんなささいな事物のうちにも三つの力すべてが相互に働き合っている。事物は世界の一部であり、人間がそれに名前を与え、神がさまざまに名づけられてきたそれ(傍点は濱)に運命の判決を言い渡すのである。この歴史そのもののあらゆる時点で、ふたたび新しい「事物」が生起し、それぞれ事物そのものが出来事になる。こうして、事物に淵源するこうした過程はとぎれることがない。事物の世界そのものが一つの部分ではないからこそ、全体としての世界にも世界がそれ(傍点は濱)である〈なにか〉にも、歴史が生起し、そこで世界は現実化される。というのも、世界はこの生起においてのみ現実であり、この生起は世界の存在のあらゆる地点を人間の言葉と神の言葉のあいだにはめ込むからである。世界それ自体などは存在しない。世界について語ることはわれわれの世界と神の世界について語ることである。世界はこの両者、つまり、人間の世界と神の世界になることによって、はじめて世界となる 15。

 確かに名前を付けるという行為は人間による。名前は人間から始まる。ローゼンツヴァイクは、それを通して神の言葉が到来しなければならないという。それは、全ての事物がもつ名前には、人間の言葉と神の言葉の二重性が潜んでいる からである16。それが

どんなささいな事物のうちにも三つの力すべてが相互に働き合っている。事物は世界の一部であり、人間がそれに名前を与え、神がさまざまに名づけられてきたそれ(傍点は濱)に運命の判決を言い渡す与えるのである。

ということであろう。それは、ローゼンツヴァイクと同じユダヤ教を背景とする思想家であるM.ブーバーの言葉を通して理解することができるように思われる。すなわち、事物を通して捕らえられた言葉にならない「驚き」の出来事は、その「驚き」が垣間見の窓となり、その垣間見の窓を通して、人間に「世界」を超越した神(あるいは神の世界)を垣間見させるのである。そしてそれを垣間見た人間は、人間の過去の言葉によって「それ」として対象化し認識する。だから、全ての事物がもつ名前には、人間の言葉と神の言葉の二重性が潜んでいるのである。また

歴史が生起し、そこで世界は現実化される。というのも、世界はこの生起においてのみ現実であり、この生起は世界の存在のあらゆる地点を人間の言葉と神の言葉のあいだにはめこむからである。

ということもまた、2重性を持つように思われる。それは、同じくユダヤ教を背景に持つ思想家A.ヘッシェルが言うように、時間の最先端におこる「驚き」が、過去の歴史が想起されることで「それ」化されると言うことと、「驚き」が「それ」化されることで、そこにあらたに歴史が形成されていくという2重性である。
この過去の歴史の想起は、言葉を伴って想起されるものであり、それゆえに「それ」は「それ」として人間の言葉によって認識される。そしてその言葉こそが最終的な神の言葉、すなわち、神に言い渡された運命の判決という決定的な「神の最期の言葉」なのである。それゆえに、ローゼンツヴァイクは、この新たに生起した歴史は人間の語る言葉と普遍的なもの、すなわち神の言葉の間にはめ込まれていると主張するのである。


5. 附記
 編者(グラッツァー)が編者注(9)で「本書 17と『救済の星』とでは、考察の順序に違いがあることは注目に値する。『救済の星』では、神―世界―人間の順序になっていたが、本書では世界―人間―神の順序になっている」と問いかける。神―世界―人間と言う理解は、ギリシャ哲学以来の古典的世界の構造である。6章は、この変えられた世界―人間―神の順において、最初に位置する世界の問題をとりあつかう。ローゼンツヴァイクが本書において目指したのは、本書は、事物の背後にある「本来的な」ものを追求する「病的な悟性」を常識によって考える「健康な悟性」と立ち帰らせることである。
この常識は、ローゼンツヴァイクによれば言葉が生み出すものであるとされている。事物に普遍性をもたらし、世界・人間・神の間を普遍的に結ぶものは言葉だからである。言葉は共同体の中で共有されることで、言葉としての意味を成す。ここに、言葉が常識を生み出すという構造がある。そしてその常識となった言葉で「世界」は認識される。言葉を変えて言うならば言葉が「世界」を世界たらしめるのである。
本書は、事物の背後にある「本来的な」ものを追求する「病的な悟性」を常識によって考える「健康な悟性」と立ち帰らせることが目的であるから、当然、まず常識を生み出す言葉の問題に触れなければならない。そのために、世界とその世界の認識の問題が、まず最初に取り上げられているといえよう。そして、その次に人間が問題になる。その言葉を語るのは人間だからである。
この場合、人間とは何かが問われるのではない。と言うのも、その「世界」は時間の生成の中で生起し、歴史を形成するからである。「人間」は、その生成する時間の最先端で歴史の形成に言葉をもって参与する。そこでは、「人間」が何であるかと言う問いが問題ではない。それは「病的な悟性」である。むしろ、「人間」が如何に歴史形成に関わるかが問題となる。この「人間」が如何に歴史に関わるかと言う問題は、究極的には、そしてより具体的には個たる〈私〉はいかに生きるかと言う生の問題につながる。だからこそ、ローゼンツヴァイクは「人生観」、の問題を7章の冒頭で述べるのであろう。
 しかし人間は自らを「人間」と名付けることができないし、個たる〈私〉も個たる〈私〉として固有名を名付ることはできない 18。それは人間がみずからを対象化し述語化することだからである。だから人間は自らを「私」あるいは「私たち」という主語でしか語れない。その人間が人間の外側から「人間」と名付けられることで人間は、みずからを「人間」として認識し、「人間」と呼び述語化することができる。同様に〈私〉もまた、私の外側から名付けられなければならない。それが、見る者は見られるものであると言うことである。世界を眺望する人間は、「世界」からも見られている。
しかし、「世界」は発語しない。それゆえに「世界」は、垣間見の窓として「世界」を超越している神の言葉を示す。その神の言葉によって、「私たち」は「人間」と名付けられることによってのみ、みずからを「人間」として対象化し、また言葉を持って他者を認識できるのである。同じく、個たる〈私〉も、また「世界」 を通して固有の名を持って呼ばれることで、対象化し述語化することができるようになるのである 20。このように、ローゼンツヴァイクは人間の認識の問題は、まず世界に対する認識から始まり、「人間」を生起する「世界」の歴史の形成に参与する存在として捕らえ、その「人間」にあって、〈私〉が固有の名を持つ者としてその歴史形成に参与する固有の名前を持つ存在として捕られる。そして、それらは、常に「世界」を垣間見の窓として神の言葉を語る神に帰結する。それゆえに世界―人間―神の順番となると考えられないであろうか。そこには、「世界」19から見られる「人間」、その「人間」から見られる個たる〈私〉、その背後に二重性を持って伴う神の言葉と言う構造がある。

6. 発題
言葉で言い表せない「驚き」は、果たしてすべて言葉によって常識化することができるのであろうか。また常識化することがよいのであろうか。また、であったことない「驚き」にたいして振り当てる言葉は、何によって適切であるといえるのだろうか 。


注記
1金子晴勇『キリスト教思想史の諸時代1-ヨーロッパ精神の源流-』ヨベル社、2020年、14頁を参照のこと
2フランツ・ローゼンツヴァイク『健康な悟性と病的な悟性』村岡晋一訳、作品社、2011年、46-47を参照のこと
3同上、47頁を参照のこと
4同上、55頁を参照のこと
5同上、51頁を参照のこと
6同上、58頁
7ローゼンツヴァイク『救済の星』村岡晋一 , 細見和之 , 小須田健訳、みすず書房、2009年、69頁。「現象は観念論の…悩みの種であった。観念論は現象を『自発的なもの』として理解してはならなかった。というのもそうなれば、ロゴスの全的支配を否定することになるからである。したがって、観念論は、決して現象を正当に評価せず、ほとばしりでるゆたかさをあたえられているものの死んだカオスへと偽造せざるをえなかった。思考可能な〈すべて〉の統一性は、根本的にそれ以外の見解を許さなかった。一なる普遍的なものとしての〈すべて〉は、能動的で自発的な力を持つ思考作用によってのみ統一される。こうして思考作用に生動性が認められるようになると、生にたいしては、それがよかれあしかれ否認されなければならない」
8ローゼンツヴァイク『健康な悟性と病的な悟性』、76頁を参照のこと。そこには「全体としての世界にも、世界がそれである〈なにか〉にも、その歴史が生起し、そこで世界は現実化される。というのもの世界はこの生起において現実であり」とある。また本書『健康な悟性と病的な悟性』は、ローゼンツヴァイクの『救済の星』の解説書として位置づけられるが、その『救済の星』の構成は、「第一巻 要素、あるいは永続的な前世界」「第二巻 あるいはつねに更新される世界」「第三巻 あるいは永遠の超世界」という構成になっており、世界はつねに更新されるもの、つまり生起し歴史を形成するものとして捉えられている。 
9同上、66頁を参照のこと。そこには「つまり、この〈無〉は、目標到達不可能性が完全に意識される瞬間のみ、そして無限な目標へ接近という不合理な考え方-数学的な才能を持つギムナジウムの三年生ならわかるが、われわれが話題にしている学者にはわからないような考え方-によって決して欺かれない瞬間にのみ、それ固有の完全なかたちであらわれうような〈無〉なのである」とある。
10通常、無は認識可能な〈有〉の「世界」に対する無である。だとすれば、その相対的な無であり、人間の観念ないにある無であって、それは「世界」内にある人間によって想起可能な無であって「世界」内的存在である。しかし、ローゼンツヴァイクがここでいう〈〉付きの〈無〉は、認識可能の〈有〉の世界を超越する〈無〉であって、いわば、「本来的な」無、であり相対的無ではなく、認識不可の「無それ自体」であるので、それを追求することは、自家撞着に陥る。
11同上、28頁を参照のこと
12同上、22頁を参照のこと。そこには、「イデア」や「物それ自体」が認識不可なものであるが、私によって〈あたかも~のように〉とらえられることで存在するファイフィンガーの哲学を批判〈編者注(4)を参照〉して「単純化されたカントと馬鹿げたものとされたニーチェ」と言っている。これは、ファイフィンガーの〈あたかも~のように〉の哲学がカントを単純化しているという批判であり、カントそれ自体の批判ではない。
13同上、75頁
14同上、71頁を参照のこと
15同上、76頁
16同上、72頁
17ローゼンツヴァイク『健康な悟性と病的な悟性』。
18我が国の現実では、みずからがみずからの名を名付けることがありうる。しかし、その自らな付けた名も、世界(つまり他者)によって承認され、世界からその名を持って呼ばれることで、初めて言葉としての名として意味を持つ。世界から呼ばれなければ名は常識における固有名とはならない。
19この場合の世界は「人間」と言い換えても良い。世界にあって名を持って呼ぶのは「人間」だけだからである。
20同上、172頁参照のこと

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