「宗教改革における教職の位置と役割」

       「宗教改革における教職の位置と役割」
                           濱 和弘

※本論考は、日本ホーリネス教団教育局が出版した『現代の宣教』15号(2010年)に掲載されたもの修正・加筆したものである。

はじめに

宗教学者脇本平也は、宗教を構成する要素として次の四つの要素を上げてる。その四つの要素とは、第一に教理。第二に儀礼、第三に教団、そして第四の要素としての宗教経験である(*1)。
この場合、脇本の言う教団とは、内的な宗教体験を基礎にしてなされる宗教儀礼を行ない継承していく社会学的な形態を指す(*2)。キリスト教で言うならば、「キリストによる救い」という宗教経験に基礎を置き、それを宗教儀礼や教えを通して継承していく社会的形態としての教会ということになろう。
 しかし、「キリストによる救い」の経験といっても、それをどう理解し受け止めるかという経験の言葉化には、教派間によって違いが出てくる。たとえば、東方教会の伝統においてそれは、「死からの解放」という側面が強調され、西方教会の伝統は「罪の赦し」という面が強調される。つまり、「救い」という宗教経験のとらえ方が、それぞれ違った形で受け止められ、それが救済論の違いとなって現れ出てくるのである。
 今回(『現代における宣教』15号)は、宗教改革における「教職」の問題が主題である。ゆえの、西方教会の伝統をたどりながら、プロテスタント教会における教職の位置と役割について考えたいと思うが、この宗教改革には、三つの教理的特徴がある。すなわち「信仰義認」「聖書主義」「万民祭司性」である。
 その中で「万民祭司性」がその宗教改革の特徴の一つに数えられたということの背後に政治的な意図や配慮も見え隠れしてはいるが、しかし、それでもなお、まさに「信仰義認」という救いの経験に対する理解が教会のあり方に表出し、展開したということを意味している。当然、それは教職の在り方にも影響と変化を及ぼすものである。そしてその変化は、「信仰義認」という救済論(贖罪論)を支える「聖書主義」という権威の構造と深く関わっている。それゆえに、「万民祭司性」というプロテスタンティズムにおける教会の在り方は、「信仰義認」という、宗教改革における罪の赦しという宗教体験を理念化した教理に基礎を置く、プロテスタンティズムの社会的な形態だと言える。
 そこで、まず宗教改革の救済論について考えて、その上で、その救済論を支える権威の構造を明らかにし、それに基づいて宗教改革における教職のもつ役割と機能を考えてみたい。

1.宗教改革の救済論
 宗教改革の救済論の核をなす「信仰義認」は、一般にルターの「塔の経験」(*3)による「福音的義の発見」に依っている。この「塔の経験」は、最終的には「信仰義認」という宗教改革的認識が、ルターの思想と人格にカチッと納まるという転機的経験であったとしても、そこに至るまではルターの葛藤と苦悩、そして神学的思索があった。
 このルターの葛藤と苦悩は、自分は神の救いの確かさをどのように得られるかという苦悩であり葛藤であるが、その背景には中世カトリック教会の贖罪論がある。

1-1中世カトリック教会の救済論における宗教経験とルターの苦悩
 宗教改革に至る直前のルターの時代の贖罪論は、トミズムとノミナリズムという二つの流れがあったが、ルターはノミナリズム、特に後期ノミナリズム(唯名論)であるオッカニズムの影響の下に置かれていた。このオッカニズムが、ルターの葛藤と苦悩をより深刻なものにしたと言えよう。しかし、問題の本質はより根元的な所にあある。それはカトリック教会における罪の赦しが、洗礼による原罪の赦しと告解の秘蹟による具体的な罪の赦しという二重構造になっているということによる。
 このような二重構造は、元々は、洗礼を受けた後に犯した罪はどうなるのかという問いから始まっている。つまり、洗礼によって、人はそれまで犯した罪が赦されるとして、洗礼後に犯した罪はどうなるのかという問いがそこの在る。この洗礼後に犯した罪に対する赦しを与える為の存在として起こって来たのが告解の秘蹟である(*4)。
 もっとも、中世においては、既に西方キリスト教社会では幼児洗礼が一般化していたし、すでにアウグスティヌスによって原罪論も確立していた。そのため、洗礼はむしろ人間の原罪に対する罪の赦しであり(*5)、告解の秘蹟は、具体的な個々の罪の赦しとして捉えられる救いの二重構造ができあていたのである。
 こうして、中世カトリック教会における自覚的な罪の赦しという宗教経験は、告解の秘蹟つまり、罪を懺悔し、それに対して赦しの宣言がなされ、代償の行為を行うことによって、個々の罪の赦しを認識することに酔て確認できる宗教経験であったと言える。つまり、秘跡、とりわけ国会の秘跡を通して罪の赦しという救いの業を確認し確証できたのである。だから、中世カトリック教会において、救いとは、不断に行われる告解の秘蹟を積み重ねながら、善き業による功績を積み、義となっていく過程(成義・義化)だと言うことができるのるのである。
 ところが、ルターは、このような中葛藤し苦悩する。そのルターの葛藤と苦悩は、自分が認識していない罪に対する葛藤と苦悩にあった。すなわち、自分が認識していない罪は懺悔する(国会の秘跡に与る)ことは出来ないという実際的問題にルターは行きあたったのである。懺悔出来ない罪がある以上、そこには罪の赦しの経験も生まれてこない。つまり、いかに罪ゆるされ救われたいという意思(それこそが後期オッカニズムの救済論の核となるものであるが)はあっても、そこには罪の赦しを確証する確かな要因が自分の内側にないのである。このことをベイントンは「懺悔の失敗」(*6)と呼んでいるが、この「懺悔の失敗」に、ルターの葛藤と苦悩の根元的理由がある。

1-2 宗教改革における罪の赦しの宗教経験
 宗教改革は、贖宥という当時まだ教義化されていない救済論的一慣習への批判である「贖宥に効力を明らかにするための討論」、いわゆる95ヶ条の提題(以下95ヶ条)を突破口として始まった教会改革運動である。どうしてこの一慣習に対する批判が教会改革運動にまで繋がったのかと言うと、贖宥は、当時、告解の秘蹟という人を罪の赦しの恵みに至らせ、神の国へと至らせるのは恵みの経路となるサクラメントと深く関わっていたからである。そしてそのサクラメントとそれを支える教職制というものがあい絡まって教会の柱となっていたのである(*7)。
 実際、ルターも95ヶ条で、贖宥を主題に批判を行ったが、その95ヶ条の第1、第2命題は、悔い改め(pentientiam agite)に対する言及であった(*8)。つまり、95ヶ条はサクラメントにおいて重要な位置を占める告解の秘蹟を構成する一要素に対する批判でもある。実際、ルターは告解そのものに対しては否定的ではない。事実、1520年時点では『教皇のバビロン捕囚』において、ルターは告解そのものを礼典として残している、つまり、ルターが批判したのは、あくまでも贖宥という事柄についてであって、告解の秘跡そのものを批判したわけではない。

 しかし、ルターの95ヶ条は、ルターの当初の意図は何であれ、結果としてその告解の秘蹟における贖宥の効力を含め、教会がサクラメントを通して与える罪の赦しの効力を問うものとして、当時の教会の屋台骨をゆらす内容をもっていたのである。ですから、それが教会の性質を変え、礼拝を変え、教職の位置や役割さえも変えていく改革運動に向かったのは、当然の帰結と言えよう。
 この95ヶ条は、ルターの「福音的義の発見」という宗教経験に基づくものであるが、要は、神の義は自分の内に達成されるものではなく、イエス・キリストの十字架という自分の外側にある(extra nus)ただ一回限りの出来事にあるという宗教改革的認識である。そして、その神の義はただ神の恵みによって与えられるものであり、私たちはそれを信仰によってのみ受け取り、聖書の指し示す福音、すなわちキリストの十字架の贖いに示された神の義と愛を信じる信仰のみがそれを確証させるのであると言うのである。だから、中世カトリック教会の義認論が成義という概念であるならば、ルターにおいては宣義と呼べるものであったのだ。
 このような救いにつながる善き業を排除した宣義の概念は、もともとのルターのバックグランドであった中世カトリック教会の伝統にはないものである。それゆえの、このルターの宗教経験に基づく宗教改革的認識を支えているのは当時のカトリック教会の教説ではない。当然、この宗教改革的認識を支える権威も当時のカトリック教会の伝統の中にはない。ルターは、それを聖書の中に見出し、聖書の中の言葉で認識したのである。だから、ルターはこの聖書の中に発見した「福音的義」に基づく「信仰義認」論の教説を、「聖書主義」(*9)という聖書の権威の直接性の下で、自らの「塔の経験」に基づく「信仰義認」という救済論を展開したのだと言える。

1-3 信仰に対する理解の違い
 中世カトリック教会では、信仰とは教会の教え、教理・信条に対する知的理解であると捕えていた。それに対して、宗教改革における信仰は、イエス・キリストの十字架の死の出来事にも基づく約束に対する積極的信頼である。それゆえに、そこには私たちの外側にあるイエス・キリストの十字架の出来事が、私たちに救いをもたらすという約束に対する信頼という、自己の信仰への投げかけがある。このように、救いの出来事が起こるところには、人々の自己の投げかけが伴うのである。
 ところで、宗教儀礼には、その背後に宗教経験が潜んでいる。だから、キリスト教における宗教経験が「救いの経験」であるとするならば、この「救いの経験」に基づく宗教儀礼にも、キリスト者全体が関わってこなければなりません。それは、信仰が教理・信条の受容であっても、約束への自己の投げかけであっても、それは同じである。
 ところが、中世カトリック教会においては、必ずしもはなっていなかったた。たとえば、ミサ典礼(以下ミサ)においては、確かに信徒も聖体にあずかりはする。がしかし、ミサ全体を通してみれば信徒は傍観者的存在であったと言える。と言うのも、ミサがラテン語で行われるがゆえに何を言っているかわからないといったことなどが表面上の原因としてあげられる。しかし、より深いところにある本質的な問題は、そこにミサにおいて最高の奉仕であるキリストの犠牲を捧げるという祭司的行為が考えられていたからです。そして、その祭司的行為を行うのは、司祭や司祭を支える聖職者集団のみだったのである。
 このように、宗教儀礼が信徒との間に分断される背景には、教会における権威の構造といった問題がそこにある。

2.権威と教職の関係
 カトリック、プロテスタントの違いが、それぞれの救済(贖罪)論を成り立たしめる宗教経験の上に立つとすれば、その宗教経験の社会学的な表現形態であるカトリック教会、プロテスタント教会の違いもまた、救済論に関わる教会のあり方に現われてくると考えられる。そして、その端的な現われが、教職者の位置、具体的には教職者の権威において見られるのである。

2-1 中世カトリック教会の救済論における教職の位置
 さて、ここまで、中世カトリック教会の罪の赦しにおける宗教経験と宗教改革のそれとについて見て来たが、この中世カトリック教会の告解の秘蹟を支えたものは、聖職者の罪の赦しの宣言を与える権威であると言える。
 自分の個々の罪を告白し懺悔し、聖職者たる司祭は、その罪に赦しの宣言を与え、そのための償いの行為を命じる。その告解の秘蹟を受けてから、ミサにおいて、神に対する最高の奉仕であるキリストの犠牲である聖体に預かることが出来るのである。こうして、罪の赦しのためのイエス・キリストの十字架の犠牲が、ミサにおいてくり返し現されていく。この罪の赦しに関する権威が司祭職に与えられ、また司祭及び助祭等はミサにおいて奉仕するが、これはカトリック教会の教皇を頂点とするハエラルキーの中で使徒継承として按手をもって伝達・継承される。
 その背後には、教皇はキリストの代理者(*10)であり、そのキリストの代理者である教皇から任命された司教職は使徒職を代理するものであって、その司教職から、司祭として、また助祭等の職務に叙階され、按手を受けて、ミサの中心にある聖体の秘蹟を頂点とした恵みの伝達すなわちサクラメントに関する職務にあたるのである。つまり、カトリックにおける聖職者は、聖体のサクラメントを通して神に仕える奉仕者なのだ。こうして、聖職者と信徒とは恵みを与える者の集団と、恵みを与えられる者の集団に区分される。
 ところでA・ハルナックは、この当時の告解の秘蹟とミサの関係を、「ミサは、懺悔制度の下に従属させられ、言い換えれば宗教生活が懺悔制度内において行われるようになって、罰が世界と良心とを支配するに至った」(*11)と述べている。これは、既に述べたように、人々は告解を受けてから、神に対する最高の奉仕であるキリストの犠牲である聖体にあずかることが出来るからである。たとえ聖体の秘蹟が他のサクラメントに優る優れたものであるにしても、実質的には告解がそれに先行することが必要(*12)なのである。その意味で、告解がサクラメントにおいて重要な位置にある。
 このことからも、中世カトリック教会においては、告解を通して罪の赦しの恵みを与える職務である聖職の聖が、その恵みを与えられる集団である信徒の俗の上に位置し、按手を通して継承されるキリストの代理者としての権威の下で、キリストから来る罪の赦しを宣言する勤めを果たしていたといえよう。

2-2 宗教改革における教職者の位置
 中世カトリック教会の聖職者が、告解を中心にしたサクラメントを通して、キリストからくる罪の赦しを与える権威によって成り立っているとするならば、宗教改革のいう「信仰義認」は、そのカトリック教会の権威に対するアンチテーゼです。なぜなら、救いの恵みは、サクラメントを行うことを通して与えられるのではなく、歴史上ただ一回限り起こったイエス・キリストの十字架による贖いの出来事を信じ受け入れ、それに依り頼むことによってのみ与えられるという、「信仰のみ(sola fide)」「恵みのみ(sola gratia)」を主張するからです。ですから、プロテスタントにおけるサクラメントにあたる聖礼典も、それを行うことによって有効になるのではなく、その聖礼典に臨むものの行為ではなく信仰によってのみ初めて有効となるのです。
 この「信仰のみ」ということによって、ハエラルキーも、罪の赦しの恵みを与える聖職者集団と、恵みを与えられる信徒集団という位置関係も瓦解します。なぜなら、この位置関係を支えていた司祭としての使徒的継承に基づくキリスト(*13)の代務者としての罪の赦しを与える権威自体が「信仰のみ」「恵みのみ」の原則によって失われてしまうからです。
 こうして宗教改革においては、中世カトリック教会における権威の構造にとってかわって、その権威の構造は聖書に基礎を置くことになります。この聖書に権威の源泉を置くところに「聖書のみ(sola scriptura)」という宗教改革の信仰の姿勢があるのです。
 この「聖書のみ」と言う信仰の姿勢は、聖書が根元的な権威となりますから、聖書の前に、教職制度をふくむ教会の様々な制度、教皇の権威の下に築かれた教会の伝統や公会議そして教会自体も相対化させます。こうして文書としての聖書の権威が主張され、また聖書そのものが継承されることによって、カトリック教会を支えてきたハエラルキーを通して継承されてきた使徒職を受け継ぐ者としての使徒的権威とその継承も必要なくなります。そしてこの「聖書のみ」の原則の下にあって、少なくとも宗教改革の立場においては、聖職者集団の罪の赦しの恵みを与える権威やサクラメントを行うことを通して与えられる罪の赦しは相対化され、かつ「信仰のみ」「恵みのみ」という原則によって否定されている。
ですから、教職者間においても、また教職者と信徒の間においても、聖書の前に一切の権威構造は生まれてきません。ただあるのは聖書の権威のみであって、その前に全ての教職者も信徒も等しい存在です。そして、そこに違いがあるとすれば、それは権威の違いではなく職制の違い(*14)なのです。
 こうした、教職者の位置関係は、教職者となる任職の在り方にも違いが出てきます。カトリック教会は、罪の赦しを宣言し恵みを伝えるサクラメントの執行に関わる使徒的継承が、ハエラルキーの中で教皇―司教―司祭と継承されることで任職されました。しかし、宗教改革に基づくプロテスタント教会の任職は、その諸派によって選び方は違うにしても、基本的には、教会によって選ばれ任じられることによって任職を受けるようになるのです。

2-3 宗教改革における教職者の役割と機能
 さて、「聖書のみ」の原則によって、聖書に権威が主張されるということは、聖書の述べる言葉、すなわち御言葉に権威の源泉があるということになります。これは、聖書の言葉が教会の行動の規範となり、根拠とならなければならないということです。
 このことは、教職者の在り方も方向づけていきます。すなわち、中世カトリック教会がサクラメントを中心として教会を形成し、聖職者はサクラメントを中心に牧会してきたのに対し、宗教改革は、御言葉を中心に教会を形成し、教職者は御言葉を中心に牧会することになります。ですから、宗教改革における聖礼典である聖餐も洗礼も、また罪の赦しの宣言も、私たちの救いを約束する御言葉と結びついて初めて意味を持ってくるようになります。つまり、聖礼典も罪の赦しの宣言も、カトリック教会のように、その実効性がそれを行う職位・職制の持つ権威にあるのではなく、それを約束した御言葉にその実効性があるのです。そして、その御言葉に対する信仰が伴って初めて有効なものとなるのです。
 ですから、それらが執行される為に必要なものは職位ではなく御言葉と信仰ということになります。そうすると、聖礼典の執行も、罪の赦しのための執り成しや罪の赦しの宣言も、原理的にはキリスト者は誰であっても、御言葉のもとに行うことが出来るということになります。そして、全ての信徒が、個人として聖書を読み(*15)、御言葉によって養われ、また御言葉を教え語ることができます。(*16)つまり、全てのキリスト者は、御言葉によってキリスト者としての生に導かれ、キリスト者の生を生かされていくのです。
 これは、プロテスタント教会においては、御言葉を中心に教会が形成され、御言葉を中心に司牧(牧会)がなされるということを意味しています。ここに、宗教改革の三大原則における「万民祭司性」がよって立つ土台があるのです。
 しかし、だからといって、宗教改革は教職者の存在を廃棄したわけでありません。「万民『祭司』性」ではあっても、「万民『司祭』制」ではないからです。というのも、この「万民祭司性」の中で、「信仰義認」という救いの経験とその教説は、信仰者の共同体である教会(εκλλησια)における宗教儀礼(祭儀)である礼拝と聖礼典の場で表出され継承されていくからです。ですから、御言葉を教え語り、御言葉に養われるということも、また聖礼典についても、それが全てのキリスト者個々の信仰に内的に委ねられていると同時に、それは個々のキリスト者の共同体である教会に外的に委ねられた業でもあるのです。いえ、個人に委ねられたものだからこそ、その個々人によって構成され、個々人の内的信仰が外的に表れ出た教会の業として歴史的・社会的具体性を持って表出するものだと言った方が良いかもしれません。そして、この教会に委ねられ、教会に歴史的・社会的に表出したものが、教会の宗教儀礼(祭儀)として行われていく中で、それが無秩序に行われることなく、御言葉が正しく取り次がれ、聖礼典が正しく御言葉と結び付けられて執行されるために、それを司るための奉仕者として、プロテスタントの教職者があるといえます。
 こうして、宗教改革における教職の在り方が方向づけられます。それは、ミサにおいて聖体を通して、神に対してキリストの犠牲という最高の奉仕を捧げることを職務とするカトリックの聖職者とは異なる、御言葉を通して、信仰者の共同体である教会、ひいては個々の信徒に対して奉仕するための職制としての教職です。
 このように、プロテスタント教会においては、御言葉を中心に教会が形成され、御言葉を中心に牧会がなされます。ですから、当然、プロテスタント教会における宗教儀礼である礼拝も御言葉が中心となります。このことは、単に聖礼典が御言葉と結び付けられ、その御言葉に対する信仰によって実効性を持つということだけではなく、礼拝において説教が重要な、中心的位置を占めるようになったということを意味します。つまり、説教を通し信徒の魂に慰めが与えられ、魂が養い育てられるということです。ここに宗教改革が説教運動だと言われる(*17)所以があります。
 このような事態を、佐藤敏夫氏はカトリック教会を「旧約聖書の動物を犠牲として捧げるという祭儀的側面を強く受け継いだ祭司的宗教」であり、プロテスタント教会を「神の恵みの伝達が、主に語られる言葉を持ってなされるという預言者的側面を受け継いだ言葉の宗教」である(*18)と言います。
 ところで、説教を通して魂が慰められ、魂が養い育てられるということは、説教には教育という側面があるということです。もちろん、この場合の教育とは信仰の教育を指し、そこには当然、教会の教えや信条、また聖書そのものを教えるといったことを含みます。だからこそ、ルターも、使徒信条、主の祈り、十戒をくり返し説教していきましたし、カルヴァンは、説教において聖書講解を続けていったといえます。
 しかも、プロテスタンティズムにおいては、聖俗が分離して考えませんから、キリスト者の信仰の生も、教会における生と世俗での生とに分離されません。つまり、信仰は現実の「この世」の生活の中にあるのです。ですから実際の生活の全ての局面でキリスト者として生きることが求められ、実際生活の全てに信仰は関わってきます。
 このことは、プロテスタントの教職者は、説教者として、また礼典の執行者としての役割を負い、預言者としての機能や司祭としての機能、あるいは羊飼いとしての機能を果たすと同時に、信徒が実際の生活をキリスト者として生きていくための教師としての機能も果たす者でなければならないということを意味しています。

3. まとめとして
 ここまで、宗教改革における教職の位置と役割について、西方教会の伝統の中で、救いの経験という内的経験を手がかりに見てきました。つまり、罪の赦しという救いの経験をどう捉え、認識し、どう表出するかという点から、プロテスタントの教職者の置かれている位置と役割を考えてきたわけです。
 しかし、実際には、プロテスタント教会の在り方は様々です。それは、プロテスタントの三つの特徴に立つならば、歴史の教会における目に見える制度も人も教職者の在り方も相対化されますから、必然であるともいえます。実際、ルターによるドイツ・ルーテル教会も、ツビングリによるチューリッヒの教会も、カルヴァンによるジュネーブの教会も、それぞれが多様性を持っていました。そして、そこには時代の社会的背景や政治的背景が見逃せません。ですから、ここで示した宗教改革における教職者の位置と役割は、単に骨組みのようなものにすぎないといえます。
 たとえば、最近、内海望氏の訳で「ルター慰めと励ましの手紙」(*19)が出版されましたが、これは、説教に重きを置き、魂の慰め、養い導くことも説教を中心に行ってきたルターでさえ、説教だけで牧会を行ってきたわけではないことを意味しています。また、教育という側面でも、大小教理問答が家庭での信仰教育のツールとして用いられています。つまり、そこには説教だけではなく肉づけがあったわけです。同じように、カルヴァンもまた、年に一回、信徒を訪問するというようにして牧会に肉づけを行っています。
宗教改革の時代は、ヨーロッパ全体としてのキリスト教一体社会が崩壊しつつあったにしても、以前領邦国家、あるいは自由都市という単位では、キリスト教に基づく一体性を維持していました。
 しかし、現代の私たちはより多様化し一体性の崩壊した社会と価値観を持つ社会の中でキリスト者の実際生活が営まれなければなりません。そこには、非キリスト教社会に対する宣教といった視野も必要です。またコミュニケーションの在り方や人と人の位置関係も変わってきています。
 ですから、私たちは、教会の歴史的連続性を踏まえ、宗教改革における教職者の位置と役割を骨組みとし、それと対話しながら今日の教会においてどう肉づけして行くかという課題を負っているといえます。


脚注
*1  脇本平也著「宗教学入門」講談社学術文庫 2000年pp107-108参照
*2  同上pp120-122参照
*3 ref.D.Martin Luthers Werks, kritische gesamtausgabe,Tischreden.”Weimarer” (以下WA)Bd3, 3232c.邦訳では、植田兼義訳「卓上語録」教文館2003年pp35-36 第76項参照
*4 第4ラテラン公会議(1215年)1章「カトリックの信仰について」802、またトリエント公会議(1545年~1563年、以下TR)第6総会(1547年)第14章「再び罪を犯した人とその回復について」1542、1543、および第14総会(1551年)第1章1668~4章1681参照、(以下総会のナンバリングはローマ数字。公会議の資料についてはデンツィンガー・シェーンメッツァー篇「カトリック教会文書資料集」エンデレル社2002年を参照、脚注内のナンバーは同書におけるもの)
*5 TRⅤ(1546年)「原罪についての教令」1513~1515参照
*6 ベイントン著「我ここに立つ」ルーテル文書協会 1954年 pp43-46参照
*7 TRⅦ(1547年)「秘蹟についての教令」秘蹟全般について10条1610、ここにおいて言われていることは、秘蹟を行う権能は祭司職にあるということ。またTRⅩⅣ第6章「告解の秘蹟の授与者と罪の赦しについて」1684参照
*8 ref.Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum 1517,WABd1,P233
邦訳ではルター著作集委員会編「ルター著作集」(以下著作集)第1集第1巻 聖文舎 1964年の「贖宥の効力を明らかにする為の討論」(緒方純雄訳)P73 そこには「1、私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』〔マタイ4:17〕と言われたとき、彼は信ずる者の生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。2,この言葉が秘蹟としての悔悛(すなわち、司祭によって執行される告解と償罪)についてのものであると(は)解することはできない。」とある。
 この場合pentientiam agiteは、中世カトリック教会では告解の秘蹟を受けよという意味に理解されていた。
*9 ルターにおける「聖書主義」と改革派(特にツビングリ)における「聖書主義」は結果としては同じ「聖書主義」という言葉で括ることが出来たとしても、その形成の過程は必ずしも一緒とはいえない。前者は、信仰義認という認識を突破口として形成されたものだが、後者は、フマニスムスにおけるad fontes(源泉に帰れ)という原則に基づいて形成されたものだといえる。
*10 第2リヨン公会議(1271~1274年)第4集会(1274年)861
*11 A・v・ハルナック「教義史綱要」山田保夫訳 神戸キリスト教書店1997年p233
*12 TRⅩⅢ(1551年)「聖体についての教令」第7章「聖体をふさわしく拝領するための準備」1648から1647および同章「聖体の秘蹟に関する規定11条1661参照
  ここには、「大罪を持つと知っている者は、たとえ痛悔したとしても、秘蹟の告白によって罪の赦しを受けた後でなければ、聖体を拝領してはならない。これは教会の慣習である」と記されており、慣習として、告解が聖体拝領に先行する要件としてカトリック教会にあったことを示している。
*13 TRⅩⅩⅡ(1526年)第1章「ミサ聖祭制定について」1740および、LAⅣ第1章802参照
*14 ref. De captiviate Babylonica Ecclesiae Praeldium,1520,WA,Bd6, p567
邦訳では著作集第1集第3巻 聖文舎1969年の「教皇のバビロン捕囚」(岸千年訳)p334参照
*15 この個人として聖書を読むという万民祭司制の精神が、聖書を自国語に翻訳するということと不可分的に結びついてくる。
*16 「マルティン・ルター」徳善義和リトン2004年pp99-11 参照 
*17 石田順朗著「牧会者ルター」聖文舎1976年pp95-96参照
*18 佐藤敏夫著「プロテスタンティズムになぜ聖餐は必要か」新教出版社1996年p5参照
*19 セオドア・G・タッパード編「ルター、慰めと励ましの手紙」内海望訳、リトン 2007年

参考文献
石居正己著「教会とは誰か」リトン 2005年
日本ルーテル大学ルター研究所編「ルター研究・第5巻」聖文舎1992年、特に、三浦謙論文、江口再起論文、石居正己論文
 ツビングリ著「宗教改革著作集・第5巻」教文館1984年、特に「67ヶ条」「神の義と人間の義」内山稔訳、「牧者論」出村彰訳
 F・ビュッサー著「ツビングリの人と神学」森田安一訳 信教出版社 1980年
 出村彰著「ツビングリ」日本基督教団出版局 1974年
出村彰著「スイス宗教改革史研究」日本基督教団出版局 1971年
カルヴァン著「キリスト教綱要Ⅵ/2」渡辺信夫訳 カルヴァン著作刊行会 1964年
高崎毅志著「カルヴァンの主の晩餐による牧会」 すぐ書房2000年
渡辺信夫著「カルヴァンの教会論」 改革社 1976年
渡辺信夫著「カルヴァンの『キリスト教綱要』について」カルヴァンとカルヴィニズム研究双書シリーズ 改革派神学校 1998年
ブツァー著「宗教改革著作集・第6巻」教文館、1986年 特にブツァー「牧会論」南純訳 
「信条集・前後編」基督教古典双書刊行委員会編 日キ販 2004年


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