エラスムスの思想における教育 ー礼儀作法の問題を中心に-


  エラスムスの思想における教育 ー礼儀作法の問題を中心に-
                           濱和弘

1.序

 ノベルト・エリアスはその著書である『文明化の過程』(1939年)と『宮廷社会』(1969年 )において「文明化」について、「文明化の過程というのは人間の高度や感情のある特定の方向への変化」 であると主張する。つまり、文明化とは一つの到達点ではなく、変化の過程であり、それは人間社会における社会構造や生活様式の変化の方向であるというのである。エリアスは、『宮廷社会』において、この「文明化」の過程の中で、特に中世末期の時代における「文明化」の過程を、封建的騎士社会から、宮廷社会という社会構造の変化として表現する。それは、武力と暴力による外的束縛から自制という内的束縛による社会形態として捉えている。それが、上流社会の生活様式(行動様式)に現れた礼儀作法の問題であり、その礼儀作法の問題を洗練化させたのが「宮廷」であったと考えるのである。これは、単に行動の「合理化」のみならず「羞恥心」とか「不快感」といった衝動処理のモデル化であると言われる。つまり、「羞恥心」とか「不快感」といった衝動における人と人の間の問題の処理を、決闘と行った外的・暴力的な方法で解決するのではなく、礼儀作法という方法に基づく感情と行動のあるべき姿による内的束縛を通して、相互依存的に人と人との間に生じる問題に対する解決する生活様式の変化が宮廷から始まったというのである。それが裾野を広げて社会構造自体の変化になって過程で、この内的束縛を意識的・意図的に形成しようとするのが、教育である。
 このような、礼儀作法の問題を取り上げたのが、人文主義者のエラスムスであり、その代表作が『少年礼儀作法論』 である。もっとも、エラスムスは、『キリスト者兵士必携』(1503年)の冒頭で、同書の第一次的読者 に対して、宮廷生活を決して肯定的に述べておらず、宮廷における礼儀作法をただ肯定し賛辞しているのではない ことにも注意しておかなければならない。つまり、ただ礼儀作法を教育によって教え込まれるだけではなく、それを通して得るさらにその先に目的があると言うことである。
 しかし、エラスムスが教育者であり、その影響がヨーロッパに広く広がっていたことは、日本におけるエラスムス研究が、神学的視点、あるいは思想史視点から捉えられるものだけでなく、むしろそれ以上に大曽根良衛、中城進、熊谷明子等々による教育学の視点からの論文が数多くあることからも疑いのないことであろう。

2. エラスムスの人間論
 エラスムスの思想的背景には、キリスト教ヒューマニズムと近代的敬虔(divotio moderna)におけるimitatio Christi(キリストに倣う)があると言われる。キリスト教ヒューマニズムが何であるかについては、思想史的視点に立つならば、ヒューマニズムと言う語が誤解されやすい点も含め厳密な検討が必要であり、かつキリスト教信仰と古典と野関わり合いを含めしっかりとして定義付けが必要になるが、しかし教育と言う視点からとらるならば、大まかな表現ではあるが、キリスト教信仰に基づき人間性(Humanity)の形成を目指す姿勢として捉えることが出来るであろう。事実、エラスムス自身が「馬はたとえ役に立たぬ馬でさえ、馬として生まれる。けれども人間は人間としてうまれるのではない、人間に造られるのである」と述べているのである。もっとも、このエラスムスの言葉は、注意深く読みとる必要がある。そのためには、エラスムスの人間観を押さえておく必要があろう。
 このエラスムスの人間観は『エンキリディオン』に顕著に表れている。エラスムスは『エンキリディオン』のDe homine exteriore et interiore、De varietate affectuum、De homini intrtiore et extreriore et de duabus patel hominis ex litteris sacris, De tribus hominis partibus spiritu et omina et carne の4つの章で取り扱われている。
 その中の最初の三つがの人間理解は、霊と肉の二元論に基づいて述べられているものであるが、De homine exteriore et interior において提示される人間論は、プラトン以降、西洋世界の根底に流れる二元論 であるが、しかしエラスムスの特殊性は、この霊肉二元論が必ずしも善悪二元論、すなわち霊が良いものであり、肉が悪いものであって、霊は肉体という牢獄に縛られており、そこから霊が解放されなければならないと考えてはいない ところである。

 その意味ではエラスムスはプラトンの影響を受け、プラトンを用いつつもプラトンに縛られていない。つまり、エラスムスにとって肉も悪ではなく、霊も肉も本来は良いものであるが、問題はその調和の仕方に逆転が起こっていることにあるのであり、肉(に宿る身体の情念)が霊を支配しているという状況、それが人間の罪の状態である というのである。
 エラスムスはこの肉に宿る身体の情念には、高貴な情念と低俗な情念との階層があるという。その意味ではエラスムスの情念の理解は、近代のマズローの欲求段階説に近い。これは、エラスムスがDe homine exteriore et interioreおよびDe varietate affectuumで人間を語る際、聖書からみた神学的な人間理解でなく、むしろ対象として人間観察をした中から生まれてくる人間理解であり、哲学的視点から見た人間理解 であると云えよう。その哲学的人間理解がDe homini intrtiore et extreriore et de duabus patel hominis ex litteris sacrisにおいて、パウロの霊肉二元論と結び付けられ受け入れられているのである 。しかし、そのどちらもが肉に宿るあの情念である。従って、たとえ高貴な情念であっても、それが人間の霊を支配している限り、それは正常な人間の在り方ではないのである。
 このとき、問題になるのは、あとすれば、人間の霊とは何であるかという問題である。エラスムスは、この問題をDe tribus hominis partibus spiritu et omina et carneにおいて、オリゲネス等を用いて、霊を霊と魂に区分し、霊肉魂の3元論で説明する。つまり、エラスムスが真に意図した人間論は霊肉二元論ではなく、3元論的人間観なのである。
 この3元論においてエラスムスは霊は人間が天上世界を目指す人間の神的側面であるとしする。それは、ギリシャ哲学からの流れからすれば理性と言ってもよい。それに対して魂は霊と肉との中間にあって、霊に従うか肉に従うかを決する存在であると言う。要は魂とは人間の意思決定の座である。それゆえに人間は、自分の行動に対して責任を問われる存在になるのである。そして教育は、この理性に対する働きかけである。つまり、教育によって意識的・意図的に情念(つまり感情の衝動)に従わずに生きるということを目指すのである。そして、そのためにはキリストに倣って生きる生き方が必要になるのである。

3. エラスムスの教育の根本理念。
エラスムスの人間教育の鍵になる言葉はimitatio Christi(キリストに倣う)である。エラスムスは、そのために「祈りと知識(precatio e tscientia)」が必要 であるという。
 祈りは、「この世」での戦い、すなわち身体の情念に霊を従わせようとする力に対して勝利するためのキリストの助力を懇願し、知識は我々のあるべき神の像の完全現れであるキリストを知るためである。
 このimitatio Christiをまなぶということは、イソクラテス以来のヒューマニティの形成の延長線上にあるものである。しかしそれは単に人間が、他の善き人間の思想と良き業を学び、善き者が形成され、人間が良きものになるというのではない。それは、完全な人間、エラスムスはそれを霊の完全性というが、その霊の完全性に至っている唯一の存在であるキリストを模倣することで、人間のヒューマニティがあるべき姿に整えられている。もちろんエラスムスにおいては、人間は本来、神の創造の業であり、そこに存在する人間はすべからく善きものとして善きものとなるために造られている。したがって、その善きものが善きものとして整えられ、本来あるべき自然な姿になることが、「人間が人間となる」ことであり、それが「人間は人間として生まれるのではない、人間に造られるのである」ということな意味のである。つまりそこには、尊厳ある神の像をもつ人間が「意識的・意図的に(つまりは理性的に)キリストと倣うものとなる」ということによって、その人間のヒューマニティ(人間性)である神の形を依り完全なものへ形成していくことが求められているのであり、当然、人間の理性によって人間のあるべき姿は実現可能なものとして捉えられている 。
 そしてそれは、ヒューマニティが形成されることで善き業がなされるのではなく、善き業を倣うことでヒューマニティが掲載されていくという点で、西洋の教育理念やルネサンス・ヒューマニズムの延長戦にあり、それらの影響を受けつつも、単にそこに留まらず、エラスムスの時代にあった近代的敬虔(divotio moderna)とルネサンス・ヒューマニズムの人間観を見事に総合したものであったと言えよう。

4. 実践としての礼儀作法
 エラスムスは「エンキリディオン」において強調していることは、キリストを想起することであり、キリストに従うことと情念に従うことによってもたらされる結果を比べ、キリストに倣う道を選べと言うことであって、まさに人間の理性に訴えている。それが子どもに対する教育と言う文脈においては礼儀作法を学ぶ事となって、具体化されている。
 礼儀(civilitas)という概念は、まさにエリアスがいった「文明化」(civilisation)に繋がる言葉であるが、それは一種の規律化であり、規律化の中での他者に対する配慮である 。
 このような、他者に対する配慮は、「エンキリディオン」において示されたキリストの内にある隣人愛である。そのような隣人愛の形成のために、子どもたちのうちに、まず「柔らかき敬虔の種子を植え込む」とこであり、次に自由学芸を愛好させ、それを徹底的に学ばさせる」のであり、「人生の意義を教える」のであり、「生まれたばかりの頃から、礼儀作法にしっかりと慣れさせる」のである 。
 エラスムスは、このような子どもに対する教育の在り方を示すが、ここで対象となっているのは、主に貴族の子や上流階級の子どもである。それは、貴族や上流階級の人間が、エラスムスが重んじる「公共の福祉」を担う存在となるからであろう。このようなエラスムスの考えは、若き日のカール五世のために書かれた『キリスト者君主の教育』(1516年) に先験的に、しかも顕著に表れている。
 エラスムスの礼儀教育は、表情や服装と行ったことにまで及び、外側を整えることと内側を整えることの重要性が求められるのである。このとき、自由学芸はキリストを知る。聖書を知ると言うことのために有益なものであり、最終的にはそれがimitatio Christiに「有益なものとなる」ことにおいて意味をなすのである。
 このような、エラスムスの礼儀作法に関する著作は、後にデッラ・カッサーラの『ガラテーオ』にも大きな影響を与えていく。

【参考文献】脚注以外の参考文献
エルマー・L・タウンズ『宗教教育の歴史-人その教育論』三浦正訳、慶應通信、1987年
(初版1985年)
上智大学中世思想研究所編集『ルネッサンスの教育思想』東洋館出版社、1985年

-国内論文-
大川なつか「聖パウロ学校St. Paul's Schoolにおけるキリスト教的人文主義教育に関する一考察--コレット、エラスムス、リリーの「言葉の教育」の比較を通して」『キリスト教教育論集 (15)』日本キリスト教教育学会、2007年41-53頁
大川なつか「聖パウロ学校の教育実践にみるジョン・コレットの子ども観」『幼児教育研究 (7)』立正大学、2012年31-44頁
大曽根良衛「エラスムスとルターの教育的視点“De servo arbitoro とDe libero arbitoroとを中心に」『山梨英和短期大学紀要13号』山梨英和短期大学、19797年、24-43頁
大曽根良衛「初期エラスムスの思想”Divotio ModernaとEencilidionの成立“」『山梨英和短期大学紀要14号』山梨英和短期大学、1980年、13-32頁
大曽根良衛「エラスムスとルターのキリスト教教育観―両者のカテキズムを中心に」『山梨英和短期大学紀要16号』山梨英和短期大学、1983年、26-43頁
熊谷明子「エラスムスの『格言集』が持つ道徳的意味--バフチーン及びフェーブルのエラスムス解釈の分析を中心として」『フランス教育学会紀要(17)』フランス教育学会、2005年、33-46頁
熊谷明子「エラスムスにおける自己と他者--ルターとの「自由意志論争」における相克を中心として」『フランス教育学会紀要(14)』フランス教育学会、2002年、5-18頁
森弘一「エラスムスの政治的現実---「キリスト教君主の教育」の君主と臣民に関する記述から『社会文化史学会 28号』社会文化史学会、1991年、56-65頁

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