小田垣雅也『憧憬の神学』第1章序説・絶対無と神 ―その内容と所感―

〇✖大学院▼◇ゼミ発表
小田垣雅也『憧憬の神学』第1章序説・絶対無と神
―その内容と所感―
2021年5月14日(金)    
濱和弘

はじめに
 本章は、小田垣雅也の『憧憬の神学』の序説であるが、著者である小田垣は、本書の3章4節「憧憬と絶対矛盾的自己同一」の冒頭で「『人間は憧憬ないしには生きられない。しかし憧憬以上であり得ない』というのが本書のテーゼなのだが」(45頁)と述べているように、小田垣の神学思想における「憧憬」に対する小田垣の思索が述べられているものである。
 この小田垣の言葉は、一見すると極めて奇妙な言葉である。というのも小田垣は自身の神学を「憧憬の神学と呼ぶことを受容している(27頁)。しかし、神学(theology)とは、その語の語源(θεὸς+λόγος)が示すように、神についての語りであり、神を言葉化することである。つまり、主題化されるものは神なのであり、人間ではない。しかし、「人間は憧憬ないしには生きられない。しかし憧憬以上であり得ない」という本書の主題は、その言葉としては、極めて人間中心的に聞こえる言葉だからである。そこそも、「憧憬」という言葉それ自体が、人間の内なる風景を思わせる言葉である
 この憧憬の神学という言葉のもつ奇妙さと齟齬観は、本書を読み進んでいき、小田垣言うところの「憧憬」というものが明らかになって行く中で解消されていくであろうが、ここでは、その小田垣の「憧憬の神学」における神の存在についての考察が触れられている第1章を見ていくことにしたい。
 そこで、「憧憬」という言葉であるが、小田垣は、「憧憬」とは、潜勢態 (δύναμις:デュナミス/26頁)であると言う。しかし、それは「青年たちが人生に対して感じる「憧れ」と底通しているが、同じではない」(27頁)と言われるものであり、私たちが現実に手に取ることができないものであり、絶対無を場とする世界の事柄である。
 1章はその潜勢態である「憧憬」ということを把握するために不可欠な絶対無についての説明である。それゆえに序説であり、そこで述べられていることは神を巡る認識論の問題が取り扱われている。しかし、その認識の場は、神学的な場というよりもむしろ宗教哲学的な場である。それは第1章の絶対無と神というタイトルからもうかがいしれる。また、小田垣が「憧憬」という言葉に「の」という属格の助詞をつけ、それをもって神学を語る。そしてその「憧憬」を潜勢態であるとしてとらえているということは、神についての語りもまた動的であり、それは、我々人間の神認識もまた動的なものであると言うことを意味する。それは、認識主体である人間もまた動的であると言うことを意味している。この神と人間の不可分な関係は、小田垣の「人間は憧憬ないしには生きられない」という言葉に露わ出ているように思われる。だからと言って小田垣が「憧憬」がすなわち神であると言っていると捉えるのは、いささか勇み足であろう。ただ、小田垣が「憧憬の神学」といって属格の神学を語る以上、神と憧憬とは密接にかかわることは容易に察しが付く。その神が仮に、たとえ神が絶対不動な存在としても、認識のする人間が動的に変化し生成するものであるとするならば、そこに映し出される神の認識もまた変わる。また、仮に神が動的であるとするならば、当然神の変化によって、人間の神認識は変わり、神学も変化せざるを得ない。それゆえに神学もまた動的でなのである。それは神学が人間の知の営みに過ぎない以上必然である。
 いずれにせよ、小田垣が神と絶対無を関連させてとらえている。絶対無とは西田哲学の中心概念であり、有の世界を超越した世界である。小田垣は、その絶対無を場としてり神を捉え、また認識する自己もまた、この絶対無を場して捉えようとしている。それは、既に述べたように「憧憬」を潜勢的であると言い「人間はこの種の憧憬によってのみ人間である」という言葉からもうかがえるし、また第2章の4節の表題を真如の月 としていることからあきらかであろう。本章はその絶対無というもの説明するものであり、それゆえに序説なのである。
 発表者は、その小田垣の認識論が現れている本節を概観しつつ、キリスト教の啓示の問題について考察したいと思う。

1. 無神論と否神論
小田垣は、この第1節で、無神論と否神論を無と絶対無の区別を通してあきらかにする。無と絶対無の区別は、私たちが五感によって捉えられる世界において把握できる有の世界における存在の有無を問い、その有の否定である無(対立無)と、その有の世界そのものに対する無である絶対無との区別である。もちろん、その有の世界対する無である絶対無が有の世界が存在しないという意味の無であるならば、この対立自体存在しない。なぜならば、「今、ここで」において有の世界に対する絶対無を問うている本書自身が有の世界に内在する存在だからである。つまり、本書の存在が確認できる限り有の世界は存在し、絶対無なるものも否定される。
しかし、本書は絶対無というものを否定しない。それゆえに絶対無は、有の世界の存在に対峙し否定するものではなく、有の世界の存在を前提に置きつつ、有の世界を突き抜けた有無を超えた超越の場である。
 この無と絶対無の区別をもって、神の存在と言うことを考える。そのさい、小田垣は神の存在を否定る立場を無神論と否定神論に振り分ける。無神論は神が居るか居ないかの議論である。これは有の世界における議論であり、そこにおける神の存在の否定としての無は対立無である。それに対して、否神論は有の世界に内在する神の存在は対立無として否定するが、超越者である神の存在は留保されている。それは世界内において働く神の否定である。いうなれば、否神論は有神論内における有の世界での神の存在は否定されるではあるが、神の「存在」そのもの肯定されているのである。言葉を変えて言うならば否神論は有の世界における神の不在の表明である と言えよう。
 小田垣は、この否神論における神の存在の構造をハイデッカーの存在者と存在の構造に類するものとして捉えている。ハイデッガーにおいては、この有の世界に「存在する」存在者は、存在するもの(存在)でありつつ存在しないもの(非存在)ともなり得ることを意識する。つまり存在者が存在とも非存在ともなり得るのは、その存在者の存在を存在と非存在が不可分(分裂せず)にある存在者の存在そのものがあるからである。このように、神の存在の有無を問うことができるのは、有の世界を場とする神の存在も非存在も、有と無の二重性を持つ絶対無を場とする神の表れの様式であって存在は「存在する」のである。
 もっとも、ハイデッカーはこのような存在と非存在を自覚する存在者は、自己自身の本来的在り方を意識して生きる者の姿を、自律的に生きる実存的な姿に見ている。なぜならば、人間の本来的な在り方は、他者からの影響をそぎ落とした真の自己にあるからである。この点においては、真如の月に見られる悟りの境地、絶対無二に類比することができる。しかし、それ故にハイデッガーは神のような絶対的存在者を否定する。それに対して、小田垣の場合は少々事情が違う。小田垣は、絶対無を神の存在の場として捉えるとき、小田垣は人間の在り方を神律的に捉えている。なぜならば、神律は、神の在り方と人間の在り方とが対立せず、他律でも自律的でもなくは神律として不可分なものとされているからである。
 その意味では、小田垣の言う「憧憬」は神であるともいえるが、同時に、己が心に己たる「自己」であるともいえる。それは、A・ヘッシェルが「神について思惟するということは、神をわれわれのこころの中の一対象として見出すのではなく神のなかにわれわれ自身を見出すことである 」と言われる事態で、神と人間とが「神―人間」の対における主観―客観の構造で捉えられるのではなく、不可分な存在とし見られている。つまり、自己が自己に至るということは、自己が神と一つに結びつくと言うことであり、そこには神秘主義的な響きがあり、主観―客観を超えた神と人の不可分な結びつき、すなわちインマヌエルの原事実が見据えられている。

2. 現代神学の古典時代
ここにおいて小田垣が本節の表題である現代神学の古典時代という現代神学というのは、「否神論は本当の神の否定につながらないということ、神は否神論の射程外にあるということを知っている神学だと言える。無神論は神の否定ではなく人間の認識を超えているという神の在り方の表現である」(9頁)という。
 そして、1970年代以前を現代神学の古典時代と呼ぶとのであるが、1970年代というのは、新正統主義を代表する3Bが没した時期(バルトが1968年没、ブルンナーが1966年没、ブルトマンが1976年没)であるので、おそらくそれを意識したものと思われる。彼らは、シュライエル・マッハ―から始まる近代の神学、すなわち、神を理性内の存在とする自由主義神学を批判し、それを乗り越えて他店において、確かに現代神学である。
 小田垣はこの新正統主義の神学者たちを古典の時代というが、いかなる意図をもって古典という言葉を用いたのであろうか。古典という言葉には二つの響きがある。一つはいわゆるヒューマニズムにみられるような、今、ここでの在り方の原点、基礎となるような書物であるが、「今、ここで」の在り方そのものではない書物であり、もう一つは、今、ここでとは隔絶したただ古いだけの書物であるという二つの響きである。
 もちろん、3Bと呼ばれる面々は古典呼ばれるような古い時代の人間ではない。バルトに至っては、現代にも強く影響を残す人物である。したがって、小田垣が抱く古典のイメージは、今、ここでの原点、基礎となる神学ではあるが、「今、ここで」の神学ではないと言うことであろう。
 実際、小田垣はバルトの神学に対して「『原事実』としての神は、神と人間とは質的に断絶しているという正当な(キルケゴール流の)認識をも超えた事態である。これは人間にはなれてたち、単独の対象として認識できるような神ではない。だから神は「インマヌエル」(神われらと共にいます)という二重性的事態としてある神である」と述べ、バルトの神が超越と内在の二項対立を超え、超越-内在の神として二重性的性格を持つ神として捉えられていることは評価している。しかし、その二重性は、神の三位一体の神におけるひとり子なる神であるキリスト という存在がこの世界に受肉することでゲシュヒテ(救済史)がヒストリエ(人間の営みとしての歴史)に接点を持つことによっておこった二重性であり、そこには、永遠と有限の迎合があり、対立する二項が乗り越える神秘が発露しているのだが、それでもなお、それは「イエス/キリスト 」という存在において現れる神であって、それゆえに神は「イエス/キリスト」において対象化され認識される神である。実は、このような構造は、ルターの隠された神(十字架の神学)においても見られる構造であり、その意味でもバルトのインマヌエルの理解は古典的であって、小田垣が言う主観‐客観の構造を超えていない近代の神である 。
 バルトのインマヌエル理解に対し、バルトのもとで学んだ滝沢克己は同じインマヌエルという出来事に対してもう一歩踏み込んで理解する。滝沢が言うインマヌエルの「原事実」は、バルトが「神われらと共にいます」という事態を「イエス/キリスト」に集中するのに対し、滝沢の「原事実」は、人間の本性において「神われらと共に在り」という「原事実」(第一の接触)、すなわち、人間が人間である原点として神が神の像として共にいると言う原事実があり、また眞の神であり眞の人である「イエス/キリスト」としての(第二の接触)「原事実」である。
 つまり、バルトがインマヌエルという事実を、キリスト論に集中したために、キリスト自身の内には超越と内在が未分の絶対無が開かれているが、以前、人間と神との絶対的断絶が強調され、滝沢においてみられる、人間と神との関係における絶対無への開きがない。そのため、バルトの神学は人間がその自己においては依然と罪びととして留まり、自己が自己になることができず真如の月がみえない地平に留めていることを小田垣は批判しているのだろう。そういった意味では、バルトは以前、静的であり、信仰義認論に留まっており、そこを突き抜けることができていない。本節は、小田垣の意図がそこにあるかどうかは別として、結果としてそのことを明らかにしている。
 いずれにせよ、小田垣のバルト神学への批判は、バルトの神学がキリスト論集中の神学であり、それゆえに神と人との関係における二項対立的二元論の構造が越えられず、その二元論自体が対象化されてる点にある。そして、そのことが、発表者自身が本節の最初に述べた「いかなる意図をもって古典という言葉を用いたのであろうか」という問いに対する答えを明らかにする。つまり、バルトを中心とする新正統主義の神学者たちは、主観と客観の二重構造を乗り越えるという方向性を提示すると言う点において学ぶべきものではあるが、未だ主観と客観の二重構造を乗り越えておらず、それゆえに有の神学としてそこに留まっているという点において古典的であると言うことである。

3. 神学と言葉
小田垣は前節で、バルト神学が「イエス/キリスト」において神が対象化されていることを批判と同時に、バルトの神学が「神の言葉の神学」として展開されていることにおいて、バルトにおいては言葉についての思考が乏しいことを批判している。バルトの「神の言葉の神学」は、「イエス/キリスト」こそが神の言葉であるという点にある。それはイエス・キリストは「イエス/キリスト」として歴史的存在となった神の啓示であると言うことを意味している。そこには歴史的存在者である「イエス/キリスト」を言葉として神(存在)が語るのである。少なくともバルト神学にはそのような構造がある。
小田切は、その存在者を通して存在が語るという関係を「これは茶碗である」という言葉から、分析的に説明するが、要は存在者と存在の間に何らかの原初言語が生み出され、その原初言語への応答として言葉が発せられるのである。
たとえば、「これは茶碗である」という言葉は、「茶碗」という主語と「である」という術語から成り立っている。「である」はそこに存在があることを表すものであるが、その存在が何者であるかは分からない。そこの存在者である茶碗が主語として置かれるとき、存在者である茶碗は現象学的に茶碗であることを表出する。その現象を受けて応答的に「これは茶碗である」という人間の言葉となるのである。ここに茶碗という存在者を通して存在が語り、その語りを受けた応答としての言葉の意味がある。
ところが、このことはキリスト教神学では少々問題が複雑になる。たとえば「神はいる」ということはキリスト教神学の前提となる。否神論でも神の存在は否定しない。しかし、神そのものは観察可能な存在者とはならない。それでも「神はいる」という発語はキリスト教神学においては欠くことができない前提である。そもそも神学がtheologyである限り神の存在は前提である。
 では、その存在者は何であるか。それを神学において扱うのは啓示論であるが、一般的に啓示論は一般啓示と特殊啓示に分けにおいて考える。一般啓示は神が世界を存在者として語る神の啓示であり、特殊啓示はイエス・キリストと聖書を通して語る神の言葉である。ただバルトはそれを「イエス/キリスト」に収斂した。そのためバルトは一般啓示を否定し、聖書に対しても基本的には聖書そのものは人間の言葉であるという自由主義神学の主張を受け継いだ。ただ、聖霊が働く時、それは神の言葉になるとして、神の言葉性は留保したが、しかし存在者としての聖書は神の言葉ではない。
 それゆえに、「神はいる」という言葉は、存在者である「イエス/キリスト」の「キリスト」において神は存在者として具体的に現れ出ることになり、それによって神は対象化されるのである。
 ところが、世界において神が語るという一般啓示においては、存在者は世界である。世界には自然もあり、人間もあり、歴史もある。神は、その世界のあらゆるものを存在者として語るのであるが、それゆえに固有の具体的な存在者はもたない。つまり、一般啓示か語り得るのは、言葉では言い表すことのできない名もなき匿名の「超越者」の存在を示す「いる」とということだ。
 小田垣は、ハイデッガーの存在の叫びとしての言葉というものがいかなるものかを、先の「これは茶碗である」という言葉から分析的に説明したが、その際、存在と存在者の関係を  

しかし、『である』という存在そのものも、茶碗という存在者なしにはない。茶碗と存在は二重的でありながら、無限に隔たっている。あらゆる存在者は存在なしに存在者ではありえないが、しかし、存在そのものとは無限に隔たっているのである。このようないわば無言の緊張感が、まず原初言葉をうむのであり、人間の言葉は、この原初言葉への応答である。

というが、一般啓示は、主語が言い表すことができない匿名の超越者ゆえに、ただ「いる」としか応答できない。つまり、言い表すことができない匿名の超越者は対象化できないが、しかし「超越/内在」の存在として現前に「いる」ことが直観されているのある。こうして、世界を通して人間は、言い表すことができない匿名の超越者と、Mブーバーが言う「汝と我」という根源語で結ばれる関係となる。
 もちろん、我々はこのような一般啓示の経験と一般啓示の概念が、キリスト教神学における啓示論の中で論証され位置づけられるとするならば、諸宗教が同じ地平で言い表すことができない匿名の超越者を共有しかつ、根差し対話しすることが可能となるであろう。
しかし、一般的にキリスト教神学においては、この無主語の「いる」と言う直観に基づく経験の主語に「神」を置き「神はいる」と語る。このとき、この無主語の「いる」と言う経験は「神」によって対象化されてしまう。このような対象化を可能とするのが、神の言葉である「イエス/キリスト」であり、神の言葉である聖書といった特殊啓示であるというのである。それは、神の言葉である「イエス/キリスト」であり、神の言葉である聖書といった特殊啓示の内容が、命題的に神を伝える者として受け取られているからである。しかし、このような特殊啓示の理解は必ずしも正しいとは言えない。というのも、たとえば、アブラハム・ヘッシェルは、

旧約聖書は、原則的に人間の神観がしるされているのではなく、神の人間観が記されているものである。旧約聖書は人の神学のための書ではなく、神の人間学を知るための書である。旧約聖書は神の本性を取り扱うよりむしろ、神が人に何を求めてているかを取り扱っているのである 。

と言う。つまりヘッセルは、聖書は神についての命題的真理を示すために書かれているのではなく、人間が神の前にいかに生きるかが問われているのであり、神の前で神の求めに応じて生きるために書かれたものであるというのである。つまり、聖書は神を対象化して観るためにあるのではなく、むしろ神の中にある自己を見出すためにある者であると言えよう。それは、ヘッシェルの次の言葉からもうかがわれることである。すなわちヘッシェルは「神について考えるということは、神を我々のこころ中で対象として見出すのではなく、神の中にある我々自身の存在を発見することである 」というのである。つまり、啓示の主体は神にあり、啓示の目的は我々を対象化するためにあるというのである。
 このことは、イエス・キリストを含みユダヤ人たちが旧焼き聖書を「律法と預言者」読んだことと合致する。すなわち律法とは、神の救済の業において、人間が為すべきことが記されており、預言者は、イスラエルの民が、その神と人との契約のもとで人間が為すべき在り方から逸脱していることを正すことを目的としているからである。そして、神の言葉であるイエス・キリストは自らについて「律法を廃棄するために来たのではなく成就するために来たのである」(マタイ5:17)と言い、イエス・キリストの言葉と行いこそが律法の成就であり、そのイエス・キリストの生き方に我々が倣うことを求めているのである。このように特殊啓示は神を対象化するのではなく、神の前に生きる民が対象化されているとするならば、一般啓示における「いる」に対して「神がいる」ということではなく、「我々を生かし、我々の生を導くものがいる」ということであり、その訳語として「神がいる」ということになる。この時我々は、ヘッセルが言うように神の中に不可分に自己を見出すことになる。
 小田垣が本節において述べようとしたことは、啓示に基づく神学の言葉、(神学の言葉が啓示に基づかないと言うことはり得ないのだが)、その神学の言葉が、神を語りうるという有の神学に絡めとられている現実である。それは、結局のところ、聖書であれ、「イエス/キリスト」であれ、特殊啓示と呼ばれるものが神から発せられる言葉であったとしても、それが、神学の言葉によって神は語り得るものとして捉えているからである。しかし、神が言い表すことができない匿名の超越者とイコールであるならば、この言い表すことができない匿名の超越者は神にも仏にもアッラーとしても自らを現わしうる潜勢態である。そして何よりも、「いる」という合理的論証不可な直観でしかその存在を語れないものであって、小田垣が、「自分は神が存在であるとは言えない」というように、その存在すら肯定的に語ることができない存在である。それゆえに、啓示の主体が神であり、啓示の対象が人間であるならば、そこに現れ出るのは対象としてのお神ではなく、むしろ神と人との「汝と我」という根源的かつ神秘的で不可分な関係である

4. 西洋の無と絶対無
 小田垣は本節の冒頭で「キリスト教と東洋思想の対話が可能になるためには、キリスト教の側についていえば、右に述べた、深い次元での有神論を払しょくすることである」と述べている。ここで小田垣の言う東洋思想というのが何を指すのかは定かではないが、ここまでの文脈を負ってみるならば、西田哲学の繋がる思想と考えても良いだろう。
 また、「右に述べた深い次元での有神論」とは、神や存在といった対象認識を超えたものを、なおどこかで対象化できると考えている点において「深い次元での有神論」なのである。我々はこのような深い次元での有神論を否定神学のなかにみることができる。否定神学は、神を認識不可のものとして、「神は~である」という肯定的述語として叙述しない。しかし、それでもなお「神は~ではない」という否定的述語をもって神を語ろうとする神学的営みである。つまり、人間は人間の知性で捉えることのできない超越者であるから、人間の知性が認識し語り得るものを神から一つひとつ削り落すことで神の輪郭を描き出そうとする試みである。しかし、結局のところ否定神学も、神は超越者であり人間の知性では語り得ることのできないものであることを認めつつ、なお神は神を語ろうとすることにおいて、不可次元での有神論である。
 このような否定神学は、古くは5世もしくは6世紀の偽デュオニシオス の著作に見られ、東方教会の伝統に見られる神認識のアプローチである。神秘主義との親和性が強く、実際、小田垣も本節において、阿部正雄 を援用しつつ西洋神秘主義における神の対象化に残滓を批判している。その批判の中に前出の偽デュオニシオスや神秘主義者である十字架のヨハネ の名が見られるが、その批判は、彼らが、神は認識不可能な無であるとしつつ、未だ依然として対称性は残っているという点にある。そのような事情は無というそれ故に、小田垣は西洋のキリスト教が語る無が、無化されなければ西田に見られるような無の思想を持つ東洋思想との対話ができないというのである。
 また小田垣は、西洋哲学において「無 の無化によって、存在するものの存在が露わになる」という、絶対無二通じる二重性敵理解を語るハイデッガーを評価しつつも、「無はやはりもまだ無なる『もの』として表象されているという痕跡を残している」という西谷啓治 の批判や川村永子 (花岡永子)を要約援用し川村が「ハイデッガーの存在は×印つきの存在として、有-無を超えた二重性であり、それが絶対無だが、それは存在者があって言えることなのであっていえることなのであり、そのことがハイデッカーでは見落とされている」(16頁)と批判しているというのである。
 この西谷や川村の批判も、いうなればハイデッカーの言う無は形而上学的概念に陥いり、無自体が啓形而上学的概念として対称かされてはいないかという批判である。もちろん、このような批判は西田の絶対無に対しても向けることができる。西田が、絶対無として言わんとしている事態が「絶対無」と懐けられその概念が説明論理となるならば、ハイデッカーに向けられた批判は即西田に向けられることになる。それ故に小田垣は絶対無も無化されなければならないというのである。この場合、絶対無も無化されなければならないといことは、絶対無というものは、本来的に概念化できないものであると言うことである。その意味ではヘッシェルのいう「言い表せないもの(the ineffable)」に通じる。言い表せないものは、本来言語化されないものである。しかし、それを言い表すためには、何らかの言語化が必要である。その必要に応じて、本来言葉とすることができないものを、言語化するぎりぎりの限界にある言葉として「言い表せないもの(the ineffable)」というのである。
 そもそも概念化するということは現前にあるもの、あるいはその事態を切り取り、言葉によって叙述することである。それは現前にあるものを言葉の枠の中で静止化することでもある。川村がハイデッガーを「存在者を見落としている」と批判するのは、ハイデッガーには小田垣が「元来、無が無である以上、無がマイナスの有として自己の外側に、ある種の対象としてあることはできないからうー既に述べたようにー無は無自身を透過する。そして自己は自己にもどり・・・・」というように「自己―無―自己」の円環運動がないというのである。逆に言えば絶対無は絶えず円環運動をするものであって、静的な切り取りができない、つまり本来的には概念化できないものだからである。それは自己という物の同じである自己の「自己-無―自己」の円環運動の中にあって、先の自己と後の自己は違っている。つまり、先の自己が無化され新しい自己が生成されるという循環運動の中にあるのである。概念化は、そのような無(絶対無)と自己の生成の運動の一部分切り取って固定化するものとなると川村を援用しつつ小田垣は絶対無が概念化されることに警鐘を鳴らしているのである。
 また小田垣は、ハイデッガーの思想に形而上学的な要素があることを、ジャック・デリダを始めとする脱構築論者(すなわちポストモダン)からなされていることを指摘しているが、そこにある小田垣の真意は「絶対無は絶対無自身が無化されなければならず停止した対象にならないから、絶対無は時間的に生きる」と言うことが言いたいからである。それは「絶対無―無化―絶対無」という円環運動において、絶対無が絶えず時間において、生成され、かつ過去化されるからである。つまり、現前のもの、あるいは事態は、絶えず過去化されながら認識されるということである。それゆえに絶対無は「差延」と似ているというのである。「差延」は現前にある事柄を、現前の「今」と言う自制で認識するのではない。絶えず「過去」の事柄と比較し、「過去」の事柄との同一性をもって認識する 。そこには、「観察―概念化―認識」という一連の流れを生み出す時間を要する。たとえそれが一瞬であっても、そこには刹那的時間がある。しかも過去化された事柄と現前の事柄は「今」と「過去」という自制によって分離され全く同じものではない。その複数の事柄が同一性をもって受け取られていく自体が「差延」である。当然、過去化された出来事を受け取った自己と、現前の事柄を観察している自己にも差異があり、そこに絶えず複数の自己が生成され、複数の自己があるが、それが同一化される。そこには絶対矛盾の自己同一事態が起こっている。つまり小田垣は絶対無も時間性の中で絶えず生成されているといのである。
 そもそも、時間とは生成されるものである 。 ところが西方キリスト教や西洋哲学は、この生成される動的な時間時間を概念化し把握しようとしてきた。そのことは、キリスト教神学に大きな争点を生み出した。時間を静的な概念で捉えると言うことは、時間が生成されるという動的な側面を切り捨てて俯瞰しすることである。それによって歴史を俯瞰しし、まだ起こっていない事柄をあたかも起こっている、あるいは起こった事柄のようにとらえることになった。そこに「預言と成就」あるいは、「予定」といった神学的命題が生じ、それが神の「普遍性」や「全知」「全能」といった属性と絡めながら争点となっているのである。そこには、時間を静的に捉える事によって生じる神の対象化がある。すなわち神を静的な不動の存在として捉え、静的な概念の中で対象化して、知り得る者とし、神を語るのである。そこには、有神論の神学がある。つまり、時間を静的に捉えることで有神論の神学が成り立つのである。
しかし、我々は、生成される時間の中に行き、その生成の最先端にある「今」と言う時点から過去を見、聖書を読む。その時に、反省的に、過去の事柄を結び付け「預言と成就」の構造で捉える。そこでは、過去の事柄と現前の事柄とが同一視されている。しかし、時間が生成する動的なものであり、かつ事柄の同一性は、複数の差異ある事柄における同一性であるとするならば、「今」ある現前の事柄を、単純に同一のものではなく、他の同一性であったかもしれない。つまり、「預言と成就」の構造は、他の「預言と成就」の可能性を含んだ「預言と成就」であって、決定論的なものではない。ましてや、まだ生成していない時間の事柄であるものを「予定」という時間を静的に捉えることによって生じた概念を用いつつ、過去であろうと未来であろうと歴史の事柄を決定論的に語ることはできない。それは生成される複数の「予定された事柄」の中の一つに過ぎない。ところが、キリスト教神学は、そのような静的時間観の中で、神と人間の二項対立的に考察し形成されているのである。それゆえ、西方キリスト教における神もまた静的な不動の神である。
しかし、いずれにしても、小田垣は主観・絶対無もまた生成する時間の中で生成されるものと見ている。だからこそ、小田垣は、「キリスト教と東洋思想の対話が可能になるためには、キリスト教の側についていえば、右に述べた、深い次元での有神論を払拭することである」いうのであろう。
 では、小田垣はキリスト教と東洋思想との対話の可能性をどこにみているのであろうか。それは、西谷や川村から対象化の残滓が見られると批判はされてはいるが、それでもなお、神と人間という関係における主・脚の二項的対立を乗り越え、神との合一を目指そうとするキリスト教神秘思想においてである。

5.真如の月
 小田垣は前節でキリスト教と東洋思想の対話の可能性についてのべ、その可能性をキリスト教神秘主義の中に見た。それはキリスト教神秘主義、その中でもとりわけクザーヌスをあげ、クザーヌスが神の存在を有と無を超越して存在として対象化せず、神と人との関係においても主観・客観を超えて、神と人との合一を目指したからである.
 神が人との関係において主観・客観の構造を超えているとするならば、自己ではない。しかし対象化される他者とは区別されるので、そのような神をクザーヌス は「他なるものとは区別されて他者であるというのではない神は、非―他者(non-aliud)である」という。 
 このクザーヌスの非―他者に対して、小田垣は仏教の「真如」を思い出されるという。真如とは「真如」という言葉は、ありのままの姿、万物本体としての、永久不変の真理という意味であるが、この真如によって煩悩や思いわずらい、囚われや感傷が払われ「真の自己 」「無相の自己 」「無位の真人 」になる。このような事態を「真如の月」というが、小田垣は、このように人が真如によって真の自己に至る過程を円相として、「わたしはこのような無は円相を描いて『無相の自己』に回帰しなければ本当の無、絶対無とはいえないという禅の主張全面的に同意するが、しかしキリスト教信仰も、このことを、本来含意すると思う」という。
 小田垣がこのように「キリスト教信仰も、このことを、本来含意すると思う」というのは、キリスト教における救済論を念頭においてのことであると思われる。一般にキリスト教の救済論は、神の創造の業の中にあった人間が、堕落したが、イエス・キリストが神と人との仲保者となり、イエス・キリストの十字架の死によって罪の赦しがなされ、終末において、堕落した人間が創造の状態に回復されるという構造 になっている。       
 しかし、小田垣が見ているキリスト教の救済は、一般的なキリスト教の救いではないように思われる。というのも、小田垣は「伝統的なキリスト論のように、その死によって神と人間の間を中保し、そういう形でキリストが神と人の間に介入するのではない」と見ているからである。
 というのも、このような仲保者として神と人との間を取り次ぐとすれば、キリストが神と人との間を分離してしまうからである。
小田垣は、キリストが罪の身代わりとなって死ぬというような犠牲の死であるするならば、それは単なる英雄譚に過ぎず、キリストが神の子である必要はないというのである。この辺りは、アンゼルムスの満足説をどう考えるかの問題はあるが、発表者としても、キリストの十字架の死が身代わりとなる犠牲の死であるという理解は、正しい理解ではないという主張には同意できる。
 むしろ、小田垣がティリヒの「啓示は、自分自身を失うことなしに、自分を否定する力を持つときに敢然となる」(23頁)という言葉を引きつつ、それが神の自己否定であろうというとらえ方は、キリスト教の確信を突いている。それは十字架の死が神の子の否定でありケノーシスだからである。それは死ぬことのない神が受肉した体をもって死ぬ。その死から復活すると言うことにおいて、「自己-無―真の自己」という小田垣がいう円相における『無相の自己』に回帰する救済であり、人間が人間となる救いの業だからである。それがインマヌエルである神の子キリストの救済であり、イエス・キリストにおいて「真如の月」は現れ出ている。人間はそのキリストと合一することで神の救いの内に入れられることで、人間になるのである。キリストと一つになる洗礼はまさにそのことを示している。
 また、小田垣は、パウロとルターの信仰義認論について述べているが、小田垣が解釈するパウロは別にしてルターの信仰義認論は、少々読み込み過ぎであろう。彼らは、明らかに信仰義認論の先に神を有とし信仰の対象にしている。またパウロの場合は、πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦの文法上の釈義の問題 が残されている。
 また、パウロのアレオパゴスでの説教に汎在神論を見る捉え方もまた同意できる。汎在神論であるからこそ、一般啓示は可能であり、自然を通して言い表すことのできない名もなき超越者の「いる」、あるいは「ある」が語りかけてくるからである。

6. 美的宗教について
小田垣は本章を終えるのあたって二つの提案をする。一つは神と絶対無の二重性と美的宗教的宗教と言うことである。
神と絶対無との二重性というのは、言葉を変えれば個別性と普遍性という二項の対立を超えた二重性である。小田垣は、無(絶対無)の思想を中心とする東洋の思想には個人主義的な自己追及の痕跡が見られ、キリスト教には個の強調は脱却されているが、対象論理化の痕跡が見られ、それは有の思想となっているという。
確かに小田垣が言うように、東洋思想は自己を無化すること、それは自己をふくめ対象化されるすべてのものを無の中に削り落すことあるが、そのような自己が「無相の自己」の自己に至るという、一種の自己実現の様態があり、自己に集中する。そして、そのことが東洋思想において社会的・倫理的思想や科学的思惟を発展させなかった理由ではないかというのである。
もちろん、キリスト教に自己実現的要素がないわけではないが、しかし、その自己実現は、絶えず神という対象があってのことで神を欠落させた自己実現はない。近年、プロテスタントの教会においては、個が強調され、信仰の私事化といったものがみられるが、しかしそれでもなお、キリスト教においては自分が何者かという自己を対象化し、その対象化された「わたし」は対象化された神の前たつひとりの「わたし」である。それゆえにキリスト教では、神という存在は、削り落とせない存在なのであり、それゆえに、「わたし」という自己を無化するためには神との合一という神秘主義に向かわざるを得ないのである。その意味では、神との合一が対象化されたものがインマヌエルである「イエス/キリスト」なのであり、そのインマヌエルを自己の内に確立しようとするのが神秘主義であると言えよう。ところが、その神秘主義においても依然、対象化の残滓がある小田垣は言う。そこには個が向き合う普遍的な神があり、この神の存在だけは無化できないからである。
 このように、小田垣は個と普遍の二項対立的な関係を超越する二重性が問われる必要性を提示するのであり、それは個と共同体と二項対立、あるいは宗教における私事化と公共性の二項対立の問題でもある。
次に小田垣が提示する美的宗教ということであるが、小田垣は「宗教とは結局美的次元のことではないか」と言う(26頁)。
この美的と言うことに対しては二つの解釈ができるように思う。小田垣は、この美的ということに対して鈴木大拙の「禅はどうしても芸術と結び付いて。道徳とは結びつかぬ」という言葉を振り当てる。この鈴木の言葉の「芸術」という言葉に着目するならば、それは対象化できないものの表現方法の問題、あるいは伝達手段としての美的ということになる。それはキリスト教的に言えば啓示の問題になる。
また道徳という点に着目するならば、まさに、先に田垣が指摘した東洋思想における社会的・倫理的なものの基準としての美しさとなる。
そこで前者についていうならば、確かに小田垣が言うように宗教的思想や哲学的概念は、存在者としての実体がない。もちろん言葉として概念化されているので、あたかもそれが存在しているかのようではあるが、現実ではない。たとえば愛といっても、それが現実に何であるかを、我々は示すことができない。愛は存在者としてこの世界で現実となっていないからからだ。だから、ダイヤを贈るといった行為の中で存在者とはならない愛を示そうとする 。このように、愛はダイヤを贈る行為の中に、あたかも種の中に樹木として実体となるべきものがあるがごとき潜勢態として存在する、しかしそれは潜勢態としてあるのみであって、現実ではない。その現実ではない手段を伝える方法として芸術を用いると言うことである。たとえば、「無相の自己」と言うことを伝えるために「十牛禅図 」を用い、円相を伝えるために円を描いて示す といった方法である。
それは、キリスト教の世界においては、より神秘的性質を持ち、否定神学を受け継ぐ東方正教会のイコンに見られる。イコンは画像である。しかし、その背後に聖像画家が見届けたインマヌエルなるキリストが描かれ出されている。歴史に表れ出たキリストは実在者であるが、同時に全き人であり、全き神である。歴史的イエス・キリストはインマヌエルなる「イエス/キリスト」として、その歴史存在の中に神を表出する。しかし、その「イエス/キリスト」はもはや昇天し、現実の世界にもはや存在しない。イコンはそのキリストの像を描くのであるが、その形は聖像画家の想像したキリストの姿によって変えることはできない。それは一枚の写真が受け継がれるように基本的には決まった形が継承されるのである。イコンをみるものは、そのイコンの背後に現臨するキリストを見出すのであり、それゆえにイコンは神聖なものなのである。
 そして、後者の道徳である。道徳は通常、善悪で判断されるが、それが美しさをもって判断されるという意味で美的宗教という表現がなされる可能性である。善悪は基本的に具体的な行為にかかわるものであり具現化されるものである。つまり、善と悪とが具体的行為によって振り分けられる。その意味で道徳には論理性が求められる。
それに対して美は醜についする概念であるが、しかし、美は感覚であり、直観の問題だからである、だから明確に美と醜に振り分けることが難しい。その美的感覚をもって行為の道徳性を問うという意味で、小田垣は美的宗教と言っているとも受け止められる。というのも小田垣は「絶対無は論理や認識の問題ではなく、それは右に述べた意味での憧憬の問題 であり、最終的には感性の問題だからであろう。また好意的直観(西田幾多郎)と思われる。近代は感性が蔑視された時代であった」と言っているからである。この言葉だけからみると、ここで小田垣が言っているように、道徳的問題を美的感性で捉えると言うことを言っているようにも思われる。すなわち、「美しいふるまい」といった感性である。また、そもそも小田垣が絶対無ということを強調する背景には近代への批判がある。それを考えると、小田垣が言う美的宗教は後者である蓋然性が高いように思われる。
しかし、事はそう簡単ではない。なぜならば、小田垣は最後にマタイによる福音書6章29節 をあげ、そこに神の臨在があると言っているからからである。いずれにせよ、この二つの可能性を秘めつつ小田垣は美的宗教と言うことを提言するのである。

おわりにあたって
ここまで、『憧憬の神学』の第一章をみてきた。もちろん、ここに現わされたものは発表者が読み取っ内容であり、小田垣が言いたかったことの間には、おそらく齟齬がるであろう。そのことを踏まえた上で、あえて小田垣が本書のテーマである「人間は憧憬ないしには生きられない。しかし憧憬以上であり得ない」という「憧憬」とは、自己が「自己―無―自己」という自己の形成がなされつつも、その自己形成が、社会的文脈と言うものを築き上げるかという社会形成、歴史形成までにおよぶ景色にまで至ることではなかろうかと思う。それは、小田垣の言葉でいうならば、「神と絶対無の二重性」ということであろう。
ところで、本稿は発表のための発表原稿として『憧憬の神学』の第一章の内容を紹介するために書かれたものであるが、思いのほか長文になってしまった。そのため、発表に用いるには適さないと思われる。そこで、発表は本稿の内容を踏まえつつ、キリスト教の啓示の問題について発表させていただきたいと思う。内容的には「3.神学の言葉」にその中心的エッセンスが書かれてある。また「4.西洋の無と絶対無」における時間の問題とも、も連性を持つ。それは、「5.真如の月」における、、啓示と救済論の問題として関わってくる。
 以上を踏まえて、発表用の資料を別途に可能な限り早くまとめたいと思う。また、参考の為、発表者が現在、原稿としてまとめつつある啓示論に関する文書の一部を別途に資料として挙げるので、時間のある方は目を通していただければ幸いである。

脚注

1. アリストテレスの哲学における用語。可能態とも訳されるもので現実態(ενεργεια)と対のもの。可能態と現実態の関係は植物の種と樹木あるいは花の関係に譬えられる。樹木の種(δύναμις)は成長した樹木の体をなしていないが、その中に樹木となるべきもの(可能態)を有しており、それ故に成長し最終的には樹木(ενεργεια)として現れ出る。つまり、潜勢態は、目に見える現実の事物となる以前にすでにある、その現実の事物の本質のようなもの。ただし、その本質は形相(εἶδος:エイドス)と資料(ὕλη:ヒュレー)、あるいは本質(essentia:エッセンティア)と実体substantia:サブスタンティア)のような静的な関係ではなく、より動的なものである。
2. 煩悩にとらわれている人間の煩悩が払われて人間の本心が現れ出ることの譬え。それは同時に事物の本質が人の心に映し出されることでもある.
3. 小田垣は、理神論を否神論の中に含む。理神論とは、神は創造者として創造をなさったが、その創造の業を終えた後は、被造世界に関わることなく、被造物世界は被造物世界それ自身が法則に則って、自動的・合理的に運行していくと考えるからである。つまり、理神論は神が被造世界に超越的に存在するが、この世界内で働く神、また働きかける神ではないからである。理神論が否定するのは、この世界内で働く神、また働きかける神である。
4. Abraham. Joshua Heschel, Man is not alone - A philosophy of Religion, Farrar, Straus and Giroux, 18 West 18th Street New York, 1979,p.127. 原文はTo think of God is not find Him as an object in our mind, but to find ourselves in Him. 邦訳はA.J.ヘッシェル『人は独りではない ユダヤ教宗教哲学の試み』森泉弘次訳、教文館、1998年、132頁。
5. キリストとは本来油注がれた者の意であり、必ずしもキリストであると言うことが神性であることを意味しない。しかしキリスト教会はペテロの「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)という信仰告白の上に立つと言うことを踏まえて、イエスに対して宛てられるキリストという表現に神性を見て取ることができる。
6. ここでは人としてのイエスと生ける神の子キリストとしての神性の神人二性という二重性を示すために一般的に使われるイエス・キリストという表記ではなく「イエス/キリスト」と表記した。
7. ルターが近代に属するか中世に属するかは議論が分かれるところである。おそらくはその両面をもっているのであろうが、人間を神の前に立つ個として捉えた個の強調、また隠された神(十字架の神学-隠された知られざる神がイエス・キリストの十字架に現れ出る)といった理解は、近代的である。
8. Abraham Joshua Heschel, MAN IS NOT ALONE A philosophy of religion, Farrar, Straus and Giroux, 18 West 18th Street New York, 1979 ,p.129 訳文は発表者拙訳。原文は、The Bible is primarily not man's vision of God, but God's vision of man. The Bible is not man's theology but God's anthropology, dealing with man What He ask of him rather than with the nature of God であり、邦訳はアブラハム・ヘッシェル『人は独りではない ユダヤ教宗教哲学の試み』森泉弘次訳、教文館、一九九八年、135頁の森泉訳では「聖書は第一義的には人間の神観ではなく、神の人間観である。聖書は人間の神学ではなく、神の人間学である。すなわち神の本性よりも、むしろ人間と神とが人間に求めていることを扱っている」。
9. ed.cit.p.127. 訳文は発表者の拙訳、原文は To think of God is not to find Him as an object in our mind, but to find ourselves in Him. であり、邦訳のヘッシェル『人は独りではない』、132頁の森泉訳では「神について思惟するということは、神をわれわれのこころの中の一対象として見出すのではなく、神の中にわれわれ自身を見出すことである」。
10. 偽デュオシオス・アレオパギタ、『天上位階論』『神名論』『神秘神学』『教会位階論』『書簡集(10通)』を著した人物で名前に偽とつくのは、これらの一連の著作が、もともとは使徒言行録17章34節「しかし、彼に付いて行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスと言う女やその他の人々もいた」にある、パウロの説教を聞き回心したアレオパゴスの議員ディオニシオの手になるものであるという言い伝えがあったため。しかし『天上位階論』や『教会位階論』などに見られる階層をより上位に向かっていった上昇すると思想など、プロティノス(5世紀)の新プラトン主義の影響ため、一連の著作は5世紀と見なされ、それによりディオニシオの著作説が誤りとされ、偽ディオニシオと呼ばれるようになった。
11. 阿部正雄(1915-2000年)、文学博士、禅哲学者
12. 十字架のヨハネ(Juan de la Cruz, 1542 - 1591年)、本名はフアン・デ・イエペス。スペインのカルメル修道会の司祭で「神との合一」を目指す神秘思想家。著作としては『カルメル山登攀』、『暗夜』、『霊の賛歌』、『愛の生ける炎』がある。十字架のヨハネはこれらの著作をもって霊魂の清めの道を強調する。霊魂の清めとは、神が与えてくれた愛と同じ愛で神を愛せるようになるまで自分の内面性を高みへと高め、最終的には神との合一を目指す人間の霊魂の歩み。
13. ハイデッガーの「無」は、存在と対となる非存在といった人間の本来性の中にあるもので否定的なものを、投棄し意識から消し去り無くしてしまったものあるいは状態。
14. 西谷啓治(1900-1990年)。西谷は、現代世界における最大の問題、また自身の生涯にわたるもっとも切実な問題は「ニヒリズム」である、と言った。ニヒリズムは日本語で「虚無主義」と表されるが、それは特に19世紀以降の西洋において生じ世界に拡がった、通常の虚無感が、克服されうる宗教の次元に再び現れる、という虚無の問題のことである。西谷は西洋の哲学や神秘主義、そしてなによりも禅をはじめとする東洋思想や修行法(参禅)を手がかりにして、「ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」という課題に取り組んだ。西谷は古今東西の思想を深く研究した上で、「禅の立場」にもとづく独自の宗教哲学を展開した。また、西谷の哲学的貢献は幅広く、科学や技術の問題、芸術論、文化論、社会問題、諸宗教間の対話においても見られる。現在西谷の哲学は日本人のみでなく、多くの西洋人哲学者や宗教学者からも注目され、また近年ではアジア諸国の研究者の注目も集めつつある(以上京都大院文学研究科・文学部HPからの引用。https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-nishitani_guidance/ 最終閲覧日2001.5.6)。西谷は西田の門下性であり、ドイツ神秘主義の研究などを行った。
15. 川村永子(1938年‐)、文学博士、神学博士、宗教哲学者で西田幾多郎の影響を受けている。おもな著作としては『キリスト教と西田哲学』『禅と宗教哲学』『キェルケゴールの研究 新しい宗教哲学的探求』等々がある。川村姓は旧姓であり結婚後は花岡姓。
16. このような認識のプロセスはヘッシェルの次のような言葉に言い表されている。「思惟作用はけっしてその対象と同時的にはならない。それ以前に生起した過去を思惟作用はたどるからである。われわれが思惟作用において取り扱っているのは、もはや生きてはいない対象である。-中略―(濱註、われわれは)既知のことに照らして現在のことを見ているからである」(ヘッシェル『人は独りではない』、16頁)。原書 Heschel, MAN IS NOT ALONE,ではpp.6. Thinking is never co-temporal with its object, for it follows the process of perception that took place previously. We always deal in our thought with posthumous object.‥‥we see the present in the light of what we already know. (発表者拙訳 考えるということは、決してその事柄と共時的なことではない。考えると言うことは、以前起こった知覚の過程に従うものだからである。我々は我々の思考の中で、すでに終わってしまった事柄を取り扱っている。・・・・我々は、既に知っていることの光として現在を照らしながら物事を見ている。)
17. ジョン・ポーキングホーン『科学時代の知と信』稲垣久和、濱崎雅孝訳、岩波書店、1999年、95-101頁を参照。
18. クザーヌス(1401-1461年)、枢機卿で教会政治家であるが、聖職者ではなかった。教会法の専門家で思想的には新プラトン主義、否定神学の流れに立つ。神秘主義者であり「知ある無知」や「反対の一致」といった相反するものを合一する思想の中で最終的に神との合一を目指す。
19. 地位や財産や名誉といったもの、あるいは男女というような性的な枠組みからも離れたその人自身。
20. 仏教における人間が悟りに至る10段階(十牛禅図)の8段階目で、真の自己究明の旅にでたものが、真の自己に出会い、煩悩やエゴが消え去り、解脱(心身脱落)し、空になった状態。
21. すべてを超越し、世俗の基準を超えた真実の人をいう。つまり仏のこと。人間の真実の姿。https://www.weblio.jp/content/%E7%84%A1%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E4%BA%BA(最終閲覧日2021.5.6)
22. モルトマンはこのような創造を最善の状態として、堕罪した人間が終末論的に回復するV字型の歴史観をシンメトリーな歴史観とし、それに対して創造を起点として終末時の創造の完成へと上昇していく直線型の歴史観を提示する。このような歴史観に立つものとしてプロセス神学やオープン神論がある。
23. πίστεως を主格属格で捉えるか対格属格で捉えるかの問題。発表者の立場を言わせてもらうならば、主格属格で捉える場機であり、その場合は「キリストの信実」と訳すべきで、キリストの神に対する信実な態度、生き方となる。
24. この譬えは発表者の恩師が某ファーストフード店で経験した実体験による。その店で隣接する席に恩師と若い男女がそれぞれ座った。その際、隣席にいる若い男女の会話が恩師の耳に聞こえてきたのだが、その会話が以下のようなものであった。女性「ねえ、私のこと愛している」男性「ああ、愛しているよ」女性「うれしい。だったら指輪買って」男性「指輪。ああいいよ」女性「ありがとう、でもどうせ買ってもらうなら、ダイヤの指環がいいわ」男性「ダイヤ、そんな高いものは買えないよ」女性「えつ、さっきあなた私を愛しているって言ったじゃない。あれは嘘なの」男性「嘘じゃないよ。しかたないなぁ。わかった、買うよ。ダイヤの指輪」女性「うれしい、やっぱりあなた私を愛してくれているね」という会話であったという。この女性は贈るという行為ではなく、ダイヤの指輪の背後に愛を見ている。
25. https://wiki3.jp/nirvana-999/page/11(最終閲覧2021.5.7)を参照のこと。
26. https://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/aa9ce83cf87748711fa00c785703a1aa(最終閲覧2021.5.7)を参照のこと。
27. 「人間にとって本当に現実的であるものは、潜勢態としてのみある。憧憬として、と言い換えてもよい。人間はこの憧憬によって人間である。しかしこの憧憬以上に進むことはできない。」ということ、この潜勢態である憧憬は、現につとして手に取ることのできないものであると言うこと、つまり具体的な存在として示せないことであろう。
28. しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

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