「H.ワインシュトックのプラトン理解」


       「H.ワインシュトックのプラトン理解」
                             濱和弘

はじめに

 本レポートはH.ワインシュトックにのプラトン理解に関するものである。もっとも、研究対象としているのはエラスムスである。エラスムスは周知のごとく、ヒューマニストであり、その思想の背景にはキリスト教ヒューマニズムがある。そのエラスムスのキリスト教ヒューマニズムには、人間の本性(Natura)、すなわち神が人間に与えた神の像(imago Dei)を形成し回復することで、キリスト教が本来持つ倫理的聖性と敬虔を再生する事にあった。そこには、人間は神の創造の業の中で善きものであり、善き業行うことが出来るという人間本性に対する肯定的期待がある。
この人間の本性にする肯定的期待は、ヒューマニズム全般に見られるものであるが、H.ワインシュツックは、その主著『ヒューマニズムの悲劇 』おいて、このような人間の本性に対する肯定的な期待に対して鋭く批判を加える。このワインシュトックの批判を、金子晴勇は、それは「自己の有限性に気づかないヒューマニズムの楽観主義的傾向性」 に対する批判であるという。いうなればワインシュトックは、本来の人間本性を「正義を求めても悪に陥らざるを得ない悲劇性」として捉えるのである。当然、このような視点から見る時、エラスムスを初めとしてヒューマニズムはワインシュトックにとって批判の対象となる。
そこで本レポートであるが、本レポートは、ワインシュトックが『ヒューマニズムの悲劇』にあるプラントンについての記述から、ワインシュトックのプラトン理解について考察するものである。このようにワインシュトックのプラトン理解を考察することは、エラスムス研究にも十分な意義がある。というのも、エラスムスの主著『エンキリディオン』においても、プラトンは特別な位置に置かれているからである。それゆえに、エラスムスがプラトンをどう理解したかと言う点とワインシュトックがプラトンをどう理解したかを比較することは、よりエラスムスの古典理解、特に人間理解を知る上で有意義な結果をもたらすと考えられるからである。つまり、エラスムスが古典の中に表された人間に対しどのような眼差しを注いでいたかが明らかになると考えられるのである。その意味で、本レポートは、筆者の研究ための予備的研究でもある。

1. ワインシュトックにおける人間理解とヒューマニズムの悲劇

 ワインシュトックは、彼の『ヒューマニズムの悲劇』の根底に流れる人間理解を示すにあたって、アイスキュロスの悲劇『オレステイア』の物語から始める。『オレステイア』の悲劇のストーリーは次のようなものである。すなわち、アガメムノンのトロイア遠征の際に娘を生け贄にして殺すという第一の悲劇が起こる。その第一の悲劇に対する恨みから、アガメムノンの妻クリュタイメストラの夫アメガムノン殺すという第二の悲劇が続く。さらには、そのクリュタイメストラの夫殺しに対して、息子オレステスが義憤によって母クリュタイメストラを殺すという第三の悲劇が起こるという悲劇の連鎖の物語がそこには展開されている。そしてその悲劇の連鎖の物語の背後に、神々の対立、すなわち全知全能の神ゼウスの息子であり、人間の知的文化活動の守護神アポロンと復讐の女神たちであるエリュニュスの抗争がある。この神々の対立は、いわば人間の理性と情念の間の権力の対立のアレゴリーであるが、表層としてはオレステスに対する裁きとして現れる。そのような神々の権力の抗争の仲介者となるのがゼウスの子女神アテナイである。アテナイはその決着をポリスの市民の中から裁判官たちを立て法廷に委ねる。この裁判官たちは、「公共の福祉」のための義務を負わされ判決を下すが、結果として下された判決はオレステスの行為には正義と不正の両方を等しく併せ持つものであり、裁くことができないというものである。結果、アポロンとエリュニュスの抗争は引き分けるのであるが、この結果にエリュニュスは納得しない。以上が『オレステイア』の概略である。
ワインシュトックは、このような一連の悲劇の連鎖が描かれる『オムガノン』の物語に、人間の本性に宿る支配欲・権力欲といった知性から発する欲望や、あるいは嫉妬深さや情欲と言った人間の獣性から生じる欲望を看取っている。それらが、姦通や小児虐殺や家族間の憎しみに擬人化されて現れているのである。そして、このような人間の罪性の根深さに対する絶望に呪縛されているところの人間の実存的な在り方を見ている。そしてそれが、弁証論的に無限に進展しているというのである。すなわち、アガメムノンの罪-クリュタイメストラ-の恨みと憎しみによる罪-オレステスの義憤による罪の弁証法であり、それに対するエリュニュスの怒りというあらたな反定立が立ち、それをポリス的裁決で解決するが、それをもの納得できないエリュニュスの叫びとなって展開する弁証法的循環である。それは、罪を犯さざるを得ない人間の罪性による弁証法的循環と呼べるものであって、人間は真理と正義を求めたとしても決して解決し得ない。
このように、ワインシュトックの見る人間は、生まれながらの否定的な存在である。そして、その否定的人間理解に基づく人間の存在は、死に運命づけられているという不安の中に居るのだと言うのである。そして、この不安を抱く人間の悲劇の中で、人間は、神への恐れとポリス的な市民の生き方の中に人間のあるべき姿を見いだすのである。この場合、ポリス的というのは、「公共の福祉」のために真理と正義が追求されることである。つまり、神への恐れと真理と正義とを追求するポリス的市民の生き方が、人間の罪深さに対する切望という呪縛を克服し、人間を不安から解放するのである。それゆえにワインシュトックにとって、この不安が人間を人間にする舵となる。と同時に、人間の悲劇が見張り役となって、人間の内に自らの有限性とそれに基づく不安を覚醒させつつ、ポリス的な生き方に人間に向かわせるのである。したがって、悲劇的な人間像ではなく楽観的人間観は、人間の中の不安と神への恐れを妨げるものであり、だからこそ、金子のいう「自己の有限性に気づかないヒューマニズムの楽観主義的傾向性」こそが、むしろ人間にとってヒューマニズムがもたらす悲劇となるである。

2. ワインシュトックの人間理解とプラトン.

 さて、われわれはここまで『オレステイア』を通してワインシュトックの人間理解に付いて見てきた。そこでプラトンである。ワインシュトックはプラトンの思索と行為のすべて、生涯の存在の全体が、ポリスへの意志で一杯だったことについては、「今さら照明するまでもない 」と言う。
つまり、ワインシュトックの見るプラトンの思想はポリスの再建のためのものであり、それはすなわち、真理と正義とを追求するポリス的市民の生き方の再建である。
 しかしワインシュトックは、プラトンにとって、このようなポリス的市民の生き方は、かつてのポリスにあった民主主義的な形で求められているのではないという。すなわち、ポリス市民全体の合議の上で真理と正義が表されていくのではなく、むしろ真理と正義の追求にふさわしい哲学的な精神を持った一部の精神的エリートによってそれを実現しようと試みられていると言うのである 。しかもその哲学的な精神に対して親しみを持つ「親和力」は、生得なものであるとされる 。これは、裏を返せば、人間存在全てに対し、人間に善性が等しく生得的にあるのではないと言うことを意味する。なぜなら、真理と正義を追求することは、人間にとって善だからである。だからこそ、プラトンはその善が達成されるポリスの再建に努めるのであり、そのときに再建されるポリスは、哲学的な精神に依って結び付けられた精神的エリートの共同体なのである。プラトンのアカデミアは、まさにそのような哲学的な精神をもった者を養い育てるための学院であったのだ。
 しかしワインシュトックは、このように精神的エリートを育成しポリスを哲学な精神によって再建しようとあらゆることを試みたプラトンではあったが、その試みは挫折してしまったと言う 。
 このように、プラトンが哲学的な精神に立つポリスの再建を試みるのは、ポリスの精神がすでに崩壊しているからである。それは、プラトンもまた、われわれが先に『オリステイア』で見たアガメムノンの罪-クリュタイメストラ-の恨みと憎しみ-オレステスの義憤-エリュニュス-ポリス的裁決-納得できないエリュニュスの叫びと言う弁証法的循環の中で、ギリシャの悲劇が見張り役を務めることで維持されてきたポリスの精神の崩壊である。プラトンのポリス再建は、このような弁証法的循環の中で哲学的な精神によって、その回復を試みであったと言えよう。しかし、結局その試みが挫折することで、プラトンもまたこの弁証法的循環の中に飲み込まれてしまっているとワインシュトックは見ているのである。

3. プラトンの思想に内在する悲劇性

 プラトン.が、ポリス精神の回復を、真理と正義を追求する哲学的な精神を持った一部の精神的エリートによってなそうとしたとき、プラトンの中には明らかに人間本性(natura)に対する期待があった。あるからこそプラトンはアカデミアを設立し、真理と正義を追求する哲学的な精神を持った者を育成しようとしたのである。
 このようなプラトンの期待は、方法論上の違いはあるにせよ、プラトンと同時期のイソクラテスと合い通じるものであり、ギリシャ・ローマ文化を継承する西欧社会を貫いている教育精神であると言えよう。しかしそれは、罪を犯さざるを得ない人間の罪性による弁証法的循環の中で失敗に終わるとワインシュトックは言うのである。
 ワインシュトックは、プラトンのこの失敗の原因をとして、プラトンの哲学的思索の中にある七つの悲劇的主題 をあげる。そのワインシュトックに目に映るプラトンの七つの悲劇的主題とは、以下の七つである。

  ⅰ.明らかに秘密としての真理
  ⅱ.生まれながらの矛盾としての人間
  ⅲ.エロスの超越する威力と哲学的思索の悲劇
  ⅳ.洞窟としての人間界
  ⅴ.自由の神秘
  ⅵ.神と人間
  ⅶ.神の喜劇としての人間の悲劇

 この七つの悲劇的主題の内容に触れることは、本レポートの字数的制限から、ここでは出来ない(修論には何らかの形で反映されるであろう)。しかし要は、プラトンが、正義と真理というようなイデア界に属するような内容を追求したとしても、イデア界と人間との間には超えられない深い深淵があり、そこには到達出来名と言うことである。すなわち、イデアの世界は人間に隠されたものであって、わずかに魂が「雲のかかった感音で観る 」ことができるものであって、実際には、人間がイデアの世界を知る接点は「美の探求」しかないというのである。つまり、いかに人間がイデア的なものを求め、イデア界にある人間本性(Natura)を獲得しようとしたとしても、ごく希な一部の哲学者だけが、それに接近することが可能なのであって、本来的に求めても得られない悲劇性がそこにあるというのである。もちろん、プラトンとて然りであり、人間の本性の獲得への人間の努力は、結局無駄な努力であり、努力したと言うことのみが、わすかに評価出来ることなのである。
 

4. まとめ

ここまでわれわれは、金子晴勇のワインシュトックのヒューマニズムに対する批判は「自己の有限性に気づかないヒューマニズムの楽観主義的傾向性」 に対する批判であると言う視点を受け、ワインシュトックのプラトン理解を観てきた。そして、そこにあるのは、正義と真理といったイデア界に属するものを人間が求めても、一部の哲学者たる資質を有した者のみがそれを追求可能なのであり、しかも、美というものにおいてのみ、そのイデアの世界に接近しうるというというワインシュトックのプラトンの思索の持つ悲劇性である。
 正義と真理を追究し、その正義と真理を持って人間形成をし、イデア界にある人間の本性(Natura)を獲得しようとしても、それは無駄な努力であるとワインシュトックはプラトンの人間形成への哲学的努力を冷ややかな目で観察している。そして、その努力していると言うことに対して、若干の評価を与えるのみなのである。このワインシュトックの冷ややかな視線こそが、ワインシュトックの人間観であり、そして、本書全体を一読すれば容易に判ることであるが、ワインシュトックの背景にあると思われるルター派の人間理解から来るものである。この人間観が、ワインシュトックをしてヒューマニズムが悲劇的な思想であると位置づけていると言えよう。

参考文献リスト
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-    『イタリア・ルネッサンスの哲学者』みすず書房(佐藤三夫監訳),2006年
プラトン『パイドロス』岩波文庫,岩波書店(藤沢令夫訳),2013年(初版1967年)
-  『国家(下)』岩波文庫,岩波書店(藤沢令夫訳),2014年(初版1979年)
-  『プラトン書簡集』角川文庫,角川書店(山本光雄訳),1970年


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