信仰義認について


 雑誌『船の右側』の9月号(2020年)が送られてきた。この雑誌は私が2017年に1年間のあいだ、後(2020年)に出版された拙著『人生のすべての物語を新しく』の大元となる論考を連載させていただいたことが御縁でそのご購読を続けている雑誌だ。
 今、この雑誌が送られてきて真っ先に目を通すのが豊田信行牧師の「教会の霊性」と山口希生牧師の「神の王国」である。
 豊田牧師の「教会の霊性」の内容は私の著書『人生のすべて物語をあたらしく』に流れる神学思想に極めて近いものがあり、親近感を感じているからであり、山口牧師の「神の王国」は、私自身が歴史神学や教義学を主なフィールドとしているため、もっとも欠けている聖書神学から学ぶところが大きからである。
 豊田牧師の「教会の霊性」に親近感を感じるといったが、今月(8月)号の内容は、まさに私の『人生のすべて物語をあたらしく』で主張した「キリスト教の救いは法的概念ではなく、場所的・位置的概念」であるということに通じる内容であるが、今回、豊田牧師は、それを「神の義」という言葉をキーワードにして論述している。
 そこで取り上げている内容は、ルターの「神の義」の概念がもたらす問題点を明らかにしているが、とりわけ、そこで引用されているN.T.ライトの提示した神の義の概念とマクグラスが示したヘブライ的義の概念は極めて重要である。
 このいずれもが、神の義の概念が社会正義に通じるものであることをのべているのであるが、特にマクグラスが提示する神の義は、宗教改革の始りにおけるルターの神の義の理解が、すでに旧約の神の義とのあいだにボタンの掛け違えがあったことを明らかにする。
 というのも、ルターの神の義の理解が生まれてくる切っ掛けは詩篇71篇2節の「あなたの正義によって私を助け救い出してください。私に耳を傾け、お救いください」にあったからである。
 一般に、ルターの罪人に付与される神の義の理解はローマ人への手紙1章16節17節によるとされる。それは確かにその通りなのだが、そのきっかけは詩篇71篇2節の「神の義が私を救う」と言うことをルターがどう理解して良いのか戸惑ったことから始まる。
 というのも、ルターのそれまでの神の義は、到達し難い人間を裁く神の正しさの基準であり、それゆえにルターは、行うことの出来ないような高い神の義を与え、その神の義という高い基準を持て人間を裁く神にたいして「私は神を憎んだ」というようなものだったからである。しかし詩篇の71篇2節の「あなたの正義によって私を助け救い出してください」という言葉は、その人間を裁く神の義で私を救ってくださいと訴えている。この事にルターは困惑し、「神の義」の再考が始まったからだ。
 しかし、その結果いきついたルターの「神の義」の理解は、詩篇71篇の言う旧約的「神の義」とはかけ離れたものになってしまている。そのことをマクグラスがその著書Iutitia Dei で示したヘブライ的義の概念は明らかにするのであり、ここでの「神の義」は、神の契約に基づいて生きる者に対して不正を行い悪を持って苦しめるものを「神の義」によって裁くことを求める祈りなのである。つまり、N.T.ライトが提示する社会正義としての義の概念の反映なのである。
 この点を抑えていくと、豊田牧師が「『良い行い』だけでは絶対に救われない。しかし神の目に義とされるために『よい行いがもとめられている』」という言葉の真意が見えてくる。信仰には信じる信頼すると言うルター的な信仰理解と同時に、神の言葉に従うと言う行いもまた含まれているのだ。そうすると翻訳上大きな問題である「ピスティス クリスティ」の問題も「イエス・キリストの信実(あるいは信仰)」という訳すことの意味も意義も見えてくる。そして信仰義認と言うものが、別の表情をもって私たちに現れてくる。
 「教会の霊性」は「教会の義」に繋がる。なぜならば教会は「キリストの体」だからだ。教会が「キリストの体」として「神の言葉に従て生きる共同体」であるならば、おのずとそこにN.T.ライトが指摘する社会正義としての「神の義」が現れ出てくる。それは、キリストが神の前に真実な信仰に生きたお方であることからくる必然である。
ちなみに、私自身はルターのいった「付与される神の義」という概念を100%否定する必要はないと考えている。もちろん、それはルターの主張そのまま受容しているとというわけではない。むしろ神の子であるイエス・キリストの受肉という謙遜(ケノーシス)と十字架の死に至るまでの父への従順というイエス・キリストの信仰と結びあわされ一体化(εν Χριστουε)されることによってもたらされることで与えられる神の義であり、それこそがイエス・キリストも信実につながることで、不完全なものが完全な者へと変えられていくことを信頼してくださる神の私たちに対する信頼(信仰)と完全な者へなろうと努力する不完全な者を温かく見守り続けてくださっていると信頼する私たちの神に対する私たちの信頼(信仰)によって与えられる「神の義」という側面だと思うからある。
 つまり、信仰義認における信仰は、救いにおける人間の努力を排除するものではなく、その努力を完成へ導くものなのである。

 ところでこの『船の右側』の豊田牧師に記事「教会の霊性」についての感想を、FBにupしたところ、『舟の右側』のT編集長より同誌に掲載されているマーク・ベーカーの「宗教的キリスト教はもういらない」の感想も聞きたいとのリクエストがあった。
 T編集長が、そのようなrクエストをなさったのは、今回(9月号)のこの「宗教的キリスト教はもういらない」の内容は、私が『人生のすべての物語を新しく』で提示した「傘の神学」に相通じるものがあるのではないかと感じられたからだそうである。
 今回に限らず、『舟の右側』で紹介されているマーク・ベーカーの「宗教的キリスト教はもういらない」の内容には、多くの部分で共感できるところがある。また、そこに見られる問題意識も共有できる部分も多くある。とくに、プロテスタンティズム、とりわけ福音派において、救いを個の救いとし、罪からの赦しとして内面化する問題点については誠にその通りであり、わが意を得たりの感がある。
 そのような問題意識の中で、マーク・ベーカーの「宗教的キリスト教はもういらない」は、個が集まって形成される共同体を形成ではなく、共同体の中にあるキリスト教信仰へ招かれ、その共同体の中で役割を与えられる個を見ている。そしてそれは、すでにわが国において八木誠一が一人一人の個が共同体における極として結びつくフロント構造として表現された共同体に通じるものである。
 もちろん、個が集まって共同体が形成される場合であっても、そこに共同体があり、共同体がある以上共同体の内と外が必然的に生まれてくる。その時、内と外に分けるの壁が、共同体が求める(共同体内)倫理的行動基準や信仰基準・信仰生活に置かれるときに起こる一種の人間疎外的状況が起こることを見据えながら、そこには純粋な意味で恵みはないのではないかと問題提示する。それが「宗教的キリスト教」というタイトルになって現れていると言えよう。
 実は、私自身は、このタイトルに関しては、ちょっとばかし抵抗を感じている。もっとも、そのことは、ここでは直接に関係ないので割愛するが、「宗教」という言葉自体の用い方、その言葉の歴史的形成等々を考えると、抵抗を感じ得ないのである。もちろん、マーク・ベーカーによる宗教の定義が確かに丁寧になされてはいるが、しかし、そのような定義自体、宗教(religion-regio)という言葉の語源や、その定義自体に問題を感じるのである、
 それはそれとして、内と外に分けるの壁が、共同体が求める倫理的行動や信仰基準(告白)・信仰生活に置かれるときに起こる問題点は筆者が「シェルターの神学」と呼んだ、従来の福音理解の持つ弊害に通じるものである。
 ベーカーは、今回の号(9月号)で、そのような壁によって内と外の問題を行動の基準に求めるのではなく、その共同体が持つ社会性、この社会性は規範によって支えられているのではなく、その社会性の中に身を置き、社会を構成する個となることに見ている(このあたりの部分がY編集長が「傘の神学」との類似性を感じた部分と思われる)。そして、そのような共同体をテント型と呼んでいる。
 私の「傘の神学」にせよ、ベーカーの「テント型の共同体」にせよ、(共同体内)倫理的行動基準や信仰基準・信仰生活を遵守することで生まれる共同体と比較すると、その連帯性は一件ファジーなものになる。ベーカーはその点をヒューバートの境界線グループとファージ―グループを用いながら内省的に提示しつつも、そのファージ―な集団の中で社会を構成する個が志向する方向性がファージ―な集団である教会の中心であるキリストに向ってベクトル化されているか、それよりも中心に対して逆方向に向ってベクトル化されているかによって、そのファージ―さの中にテントが覆う内の世界が生成されると見ている。
 実は、このようなキリストを中心とするファージ―な教会観は、私がルーテル学院大学の公開講座に通っていた時に、ルター派の教会観として江藤直純氏が提示していたものである。仮に江藤氏に、このベーカーの教会理解に基づきながら言わせたとするならば、ベーカーのいうファージなグループ的教会観はルター派的であり、境界線的グループ的教会観は改革派的教会観と言うことになるであろう。
 いずれにせよ、ベーカーが個々において主張するのは、教会共同体の内はキリストを中心として向キリストのベクトルを持つ人々を内として覆う領域であり、外とは離キリストのベクトルを持つ人々である。
 このようなインフォーマルな線引きは、ある意味重要である。それは、私が『人生のすべての物語を新しく』で述べている世にキリスト教会という共同体は、社会活動に重きを認める必要があるからである。それは、キリストの隣人愛倣い生きる教会と言う共同体が負うべき業である。そえゆえにキリスト教会は社会活動と一般社会の社会運動との連帯が可能であるし、また連帯することが求められる。そのような連帯の重要性を認め、連帯しつつもそこに見えざる教会共同体の内と外のラインが現れ出てくるのである。
 このような共同体としてのキリスト教会が築き上げられていくとすれば、そこにキリストの体が表出してくる。。
 ベーカーがこの「宗教的キリスト教はもういらない」で主張する内容について、私は概ね受け入れ同意できる。しかし、おそらく私はベーカーよりはるかに聖餐や洗礼と言った儀礼、そして礼拝式(礼拝で泊礼拝式)に重きを置いている。その意味では、私はベーカーの批判の対象となる「宗教的キリスト者」になるかもしれない。
 もちろん、私とて、聖餐や洗礼は礼拝式がただ繰り返されれば良いと言うのではない。その行為を行うことが恵みを引き起こすいうのであれば、それは魔術的である。
 しかし、聖餐や洗礼、そして礼拝式には言葉で語りつくせず、人間の知性では表しえない神体験と神の王国がそこに表出される場であり、そのような儀礼が行われているとするならば、それはまさに共同体の中心に置けれるべきものだからである。

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