反出出生主義と宗教ー島薗進氏「生ま(れ)ない方が良いと言う思想と信仰」をもとに



キリスト教倫理演習

『反出生主義を考える』

島薗進「生ま(れ)ない方が良いという思想と信仰」
発表者:濱和弘
2021年12月10日


はじめに

島薗氏による本論考[1]は、おもに仏教と旧約聖書を聖典(正典)とする宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教、ここでは便宜上、旧約聖書の宗教と呼ぶ)を取り上げ、両者の反出生主義との親和性を比較しつつ、宗教という視点から反出生主義について考えるという試みである。
 もちろん、一言に仏教、旧約聖書の宗教といっても、実は、それぞれにグラディエーションがあり、それを類型化して記述することには、ある種の困難さと危険性がある。それは、本論考の中からもうかがえるものであるが、本論考は、そのような詳細な分析はひとまず棚に上げて、大きく、宗教というものの内にある反出生主義との位置関係を、新反出生主義と反出生主義を大雑把に捉え、そこから反出生主義と宗教の関係を提示すること徹している。そして、その大きな枠組みとして、仏教と旧約聖書の宗教を取り上げるのである。


1. 一神教の伝統における生命肯定

 島薗は、本論考をまず反出生主義に対峙する立場を紹介することから始める。それがパレスチナの一神教伝統群であるとされるユダヤ教・キリスト教・イスラム教である。言うまでもないがパレスチナ地方の宗教は必ずしも一神教ではなかった。それらが歴史的経緯を経て、パレスチナを出自とする今日のユダヤ教・キリスト教・イスラム教という一神教の枠組み出来上がったのであり、このいずれもが旧約聖書を聖典(正典)としている。それゆえに、これらは旧約聖書の宗教であると言える。

島薗は、これら旧約聖書の宗教がいかにして生命肯定(生殖主義)の宗教となったかを、これら旧約聖書の宗教が共通して持つ聖典である旧約聖書の創世記1章28節の「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」という神の命ずる言葉に根拠を置く。興味深いことに、そして極めて重要な事として、この言葉は創世記9章において、ノアの洪水後に生き残ったノアにも語られる[2]。
 このような、旧約聖書の宗教が生命肯定的な見方は、人間をその受精の段階において人間としてとらえ、旧約聖書の宗教が多産と中絶を否とする傾向に向く傾向があると説明する。このとき、多産と中絶を否とする生命肯定と生殖主義の倫理基準を規定するものは絶対者なる神である。

2. 生殖(産むこと)の無条件的肯定の抑制

 島薗が提示した旧約性聖書の宗教が持つ、旧約聖書の宗教の出産を奨励し生命肯定を肯定する思想は、絶対者たる神の命によるものであり、それゆえに普遍的なものであって、ある意味、すべての人に無条件的に服従が求められるものであって[3]島薗はそれを無条件的肯定と呼ぶ。それに対して、そのような無条件的肯定を抑制するものとして、優生保護法的視点からの中絶行為や、人口問題に伴う産児制限などがあることを挙げる。これらは、国家による抑制であり、神が人類という種を対象にした出産の奨励であったのに対し、その基準が国家、あるいは共同体の成員に服従が求められる倫理基準であって、それは奨励ではなく、抑制でもなく規制である。

3. 世界の諸宗教の生むことの評価

 島薗は、この項目のタイトルを「世界の諸宗教の生むことの評価」としているが、実質的には、インド的・仏教な「生まない生き方」を提示しつつ、その対称的存在として旧約聖書の宗教とは別に、儒教や神道にも基本的に「生まない生き方」ではなく、「生むこと」への肯定的な姿勢がみられるという。

 もっとも、仏教における「生まない生き方」は、つまり、反出生主義的傾向は、すでに水島氏によって指摘されているところであり、佐々木潤氏の論考「釈迦の死生観[4]」においても述べられている。このような仏教における反出生主義的側面を、仏教がこの世界を「生老病死」の四苦の世界と捉える世界観を持って見るとこにあるとする。つまり、生まれること自体が苦であるというのである。
 そのような世界観が、禁欲主義的な生き方を尊ぶ在り方へと結びつくという。もっとも佐々木は、人間の本能は「子どもを作れ」と言い、人間の本質は「子どもを作りたい」と思うと言う。そのような中で、ごく一部の人間が、特殊な経験・体験を通して、「生きることは苦だ」という切迫した思いになった人間が「家族を持たず、子どもを生まない」という選択をするのだとのべ、仏教的視点では、そのような「生きることは苦である」という自覚を持った人間にとっては、子どもはそのような苦しみの世界に縛り付けるところから、子どもを持たないという選択をするのであって、そのような選択は、一部の特定の人間に限定するところに仏教の知恵があるという。そして、「ここにいま苦しんでいるこの私に、さら死後の生がある想定した場合と、現在の生をもってすべてが終了する場合で、どちらが真の楽があるか」という問い(選択肢)の中で、後者を選択する者の背中を押すのが仏教であるというのである[5]。

 この現在の生をもってすべてが終了するというのは、いわゆる輪廻転生からの解脱であり、そのための禁欲生活であり修行であって、仏教思想と反出生主義の親和性が持つように見られるのはこのような所から生まれてくる[6]のであるが、佐々木の論考において特筆すべきところは、仏教には我々を導いてくれる絶対的存在はいないということを指摘している点である[7]。すなわち、「子どもを生まない」という選択も、絶対的存在の命として受け継がれるのではなく、解脱するための手段の一環として受け継がれているという点にあるのである。

 このように仏教における「生まない選択」は、他者からの強制ではなく、むしろ、人間の自由から選び取られる生き方となっている。

4. キリスト教におけるこの世の生の否定の伝統

 禁欲的な生き方は、仏教だけではなくキリスト教にもみられるものである。修道院における修道生活や聖職者の独身性といったもののあり、それは、仏教の禁欲とも構造的にはあい通じるものである。発表者は、先に佐々木の論考「釈迦の死生観」で、佐々木は、仏教が、「禁欲生活を一部の特定の人間に限定したところに仏教の知恵がある」と述べたことを取り上げたが、キリスト教においても、禁欲生活は主に修道士といった限定された者に限られた。

 この修道士は、テーゼの聖パウロスや聖アントニウスのように当初は砂漠の隠修士(独住修士)として、単独で人里離れたた荒野で禁欲的修行行いを過ごしていたが、単独での修道生活の不便さや精神的危険さから3世紀のバコミオスによって、独住での修道生活から共住の修道生活が営まれ始め、大バシレイオスによって修道院制度が整えられるようになる。

島薗は、このようなキリスト教禁欲生活の根拠にコリントの信徒への手紙一7章7節から9節にあるパウロの言葉[8]を挙げる。そして、ここに性欲を危険なものとして遠ざけようとする強い姿勢がると述べる[9]。しかし、このパウロの言葉は、独身について語り性欲の抑制について語っているが、生殖そのものを禁止するものではなく、これらのパウロの言葉は、必ずしも反出席主義的意味合いで禁欲を奨める言葉として述べられた言葉ではない。
 またキリスト教の修道制は、確かに島薗が言うように、隠修士にせよ、修道制にせよ、人里離れたところでなされる。それは、単に厭世的であるというのではなく、むしろ、それは物欲に対する戦いでもある。つまり、キリスト教の修道制における禁欲主義は、単に性欲の抑制ということのためではなく、もちろんそれもふくんでいるのではありが、人間の肉欲といったものとの闘いと言った側面があるのである。もちろん、この戦いは、性欲や物欲と言った内面的な戦いなのではあるが、単に個人の内面的な戦いだけでなく、それは悪魔との闘いが意識されたものである。例えば、桑原直己は、最初期の隠修士であるアントニウスは、彼の修道生活を通して感じるに肉の欲との闘いが自分自身の戦いとしてでなく、自分を場とする神と悪魔との闘いであると受け止め、悪魔との闘いをキリストの業として捉えていたと述べる[10]。つまり、キリスト教における修道制は、苦難や苦痛を回避するのではなく、むしろ肉が受ける苦難や苦痛を引き受けることでなされる悪魔祓い的な要素を持つものであったと言える。
 もっとも、本論考において島薗は、キリスト教の禁欲主義を、霊肉の二元論構造における物質である肉に対する敵視のなかで、禁欲を捉えている。それゆえに、キリスト教の禁欲主義にグノーシス的要素を見いだすのである。そして歴史的には、そのような見方が、キリスト教内に繰り返し起こってきたことも事実である。そして、それらのグノーシス主義的禁欲主義者たちが、反出生主義的傾向にあったと言えるかもしれない。だとすると、島薗が捉えたように、キリスト教的な禁欲主義はグノーシス主義的な思想と結びつき、反出生主義との親和性をもととなる傾向にあるということは確かにできるかもしれない。しかし、それらのグノーシス的禁欲主義の傾向を持つものは、ことごとく異端として排除されてきたことも忘れてはならない。

5.ハンス・ヨナスが注目したグノーシス主義

キリスト教禁欲主義と結びつきやすく、また結びつくことによって異端を生み出してきたグノーシス主義は、霊肉二元論であり、物質世界を否定する。それゆえに、肉体は霊を閉じ込めている牢獄であり、その肉体という墓場から霊を開放することが救いなのである。このような思想は、この被造世界を神が創造したとするキリスト教の世界観にはなじみがたい要素を持つ。だからこそ、霊は、肉体というろ動くに縛られて、この世に寄留するのであって、それを、ヨナスは異邦のものというイメージで表象すける。即ち、霊は「この世」に対して異邦のものであり、「この世」は霊に対して異邦なものであって、そこには、孤独があり、庇護されることもなく、理解されることも理解することもない世界の中に置かれているのである。


6. 現代大衆文化おけるグノーシス主義的なもの

  ハンス・ヨナスのグノーシス主義に対するイメージの表彰を異邦人的なもの中に見いだしている。つまり、グノーシス主義の霊肉二元論において、人間本性である霊は、この世にあっては異邦のものであり、それゆえそこに、「この世」における居心地の悪さ、あるいは生きづらさというものを見いだしているのである。
 島薗は、そのような「この世」における居心地の悪さや生きづらさと言った感覚が現代の大衆文化の中に見いだすことができ、そこに現代の若者が惹かれている言う。つまり、現代の若者の中にあるグノーシス主義的なものが、厭世的な感覚として受け止められ、そこに「生まれない方がよかった」という反出生主義の思想が根付いているとみているのである。


7. この世の幸福の増進への大衆の距離感

島薗は、西欧においては、20世紀前半にハンス・ヨナスが、大衆の中に厭世的なグノーシス主義的思考の隆興に気づいていたというが、ヨナスの時代と考えると、この20世紀前半というのは、1905年にウォルター・ラウセンブッシュが『キリスト教と社会的危機』を出版し社会的福音(Social Gospel)をもって、キリスト教の社会的責任を問うた反面、1920年代にトーマス・ルックマンやピーター・ラドウィグ・バーガーの宗教の私事化現象やハービー・コックスのいう宗教の世俗化が謳われ、公共圏での働きからキリスト教が退いて行った時期であり、アルタイザーやハミルトンによって神の死の神学が出版されるといった流れにある時代である。
 このラウシェンブッシュとルックマンやハミルトン等は、相反するものであるが、彼らが見ていた彼らの主張の背景にある社会の状況は共通している。すなわち、科学の発達とそれに伴う科学的な世界観や工業化する産業社会とそれに伴う都市化による社会構造の変化、つまり、共同体の崩壊と個人主義である。このような背景の中でラウセンブッシュはいわば人間疎外の状況を見てとり、キリスト教信仰により社会改革を試みたが、結果として生み出されていったのは宗教の私事化・世俗化による社会適合の方向へキリスト教が向かうといった事態であったと言えよう。

島薗の言葉に従うならば、このような社会的背景の中でヨナスはグノーシス主義的思想の隆興を見ていたということになる。だとすれば、公共圏から神の存在が消えていく中におこった厭世的なグノーシス的思考は、公共圏から去っていった都市化された世界・工業化された産業社会、言い換えれば経済重視の世界における居心地の悪さ、あるいは生きづらさによるものである。そして、その居心地の悪さ、いきづらさは、霊としての人間の経済重視の社会における異邦人性が引き起こすものであるということができる。

島薗は「生まれなかった方が良かった」という「この世の生を厭う」厭世的な思想は、戦後の早い時期に嘆きとして現れたが、それは一部の者に限られたものであり、多くの人の信仰や思想に影響を与えなかったという。そして、現世肯定的な救済宗教が魅力を失うのは1970年以降であるという。
 しかし、いったいなぜ1970年代までは、現世肯定的な救済宗教が魅力を失わなかったのであろうか。逆に言えば、なぜ1970年代になって現世肯定的な救済宗教が魅力を失ったのだろうか。仮に、先のアメリカの宗教の世俗化の背景にあるとみられる経済社会の生きづらさと関連させて考えてみるとするならば、日本の1970年代の社会・経済状況は、二度のオイルショックとドルの変動相場制への移行に伴い、高度経済成長に終わりを告げた時代である。そのような状況が、島薗が言う現世肯定的な救済宗教の魅力をかけさせたということができるのかもしれない。

いずれにせよ、島薗は現世肯定的な救済宗教が魅力を失ったといい、現世で「もっと幸福になりたい」という希望が、広範な人々の間で後退していき、かつての仏教的な来世思考的な救済観、すなわち、この世で幸福になるよりも、この世を離れて初めて本来的な救いへ向かうことができるという救済観がよみがえった気配があるというのである[11]。


8. 日本仏教と「生ま(れ)ない方が良かった」という思想

  ここまでの考察を踏まえて、島薗は、仏教と反出生主義との親和性はないと結論づける。なぜならば、この世からの離脱に救済を求める仏教は、この世に生まれたからこそ、この世からの離脱を求めるのだという教えが伴うことが多いからである。そこには、誕生にと生命に対する感謝がある。
 このような仏教における誕生と生命に対する感謝を示しつつ、島薗は日本の仏教界は出生前検査に与党による中絶産児制限をどう捉えるかを問う(島薗自身は、両者の持つ暴力性を認めつつ、前者には強い難色を示し、後者についてはある程度の需要を認めているように思われる)。結局のところ、島薗が問うているのは、人間の命に人間自身が恣意的に関与できるか否かであり、そのことに宗教の持つ倫理性がいかにかかわるかという問題であると言えよう。


おわりに

 島薗の論考は、「生ま(れ)ない方が良かった」という反出生主義の主張が宗教と結びつくか、あるいは宗教の中に反出生主義につながるかということを検証するものであった。その結び目になる可能性を、二つの点で取り上げている。一つは両者に見られる禁欲的傾向であり、二つ目が仏教では出家制度、キリスト教においては修道制を取り上げている。  仏教及びキリスト教の禁欲主義には性欲の抑制という側面が確かにある。しかし、この性欲のコントロールは、「生まない方が良い」という、反出生主義の目的とは決定的に異なっている。反出生主義の「生まない方が良い」というのは、「この世」という苦しみに満ちた世界に「生まれさせない方が良い」という、生まれてくるはずの非存在の人格に対しての救済行為である。あるいは、人間という存在が、他者に対して苦痛を与える存在となるということから、そのような存在を「生まれさせない方が良い」というものであり、それらは人間を取り巻く環境に対する救済である。  しかし、仏教やキリスト教における救済は、今生きている私という個人の救済を目指すことがまずもって中心に置かれている。そのために、あえて苦しみを引き受けるのである。そこで目指されている救済は、「今、ここで」の「この世の生」のみではなく、死後の彼岸的な救い、あるいは終末論的救いをもが目指されている。「この世の聖」のみではなくと言うのは、キリスト教においては「神の国の到来」という「この世の生」における救いも射程に入っているからである。また出家制度と修道制は、信徒集団においてすべての物に求められるものではなく、一部の限定された人間に求められるものであり、すべての人に生殖拒否を求める反出生主義とは異なる者である。  以上のことを、踏まえつつ、仏教徒およびキリスト教と反出生主義の共通点と相違点ということを考えると、以下のように整理できよう。
                共通点
現実を変えることのできない人間の無力性を意識する人間観と「この世」の生に対するある種の厭世的な諦念が両者に見られる。この点において、問題意識として共通の問題意識を持つことはできるかもしれない。

                相違点
 「この世」の生に対する救済が、反出生主義においては、「この世」の生をいったん否定することによって、生まれる前に救済を求めるのに対して、仏教およびキリスト教は、いったんこの世の生を肯定することによって、死後における救済を求める。その際、死後の私は非存在ではない


[1] 島薗進「生ま(れ)ない方が良いという思想と信仰」『現代思想2019年11月号 反出生主義を考えるー「生まれてこなかった方が良かった」という思想』青土社、20191年、163頁から169頁に掲載。

[2] 創世記9章1節から4節:神はノアとその息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。2:あらゆる地の獣、あらゆる空の鳥、あらゆる地を這うもの、あらゆる海の魚はあなたがたを恐れ、おののき、あなたがたの手に委ねられる。3:命のある動き回るものはすべて、あなたがたの食物となる。あなたがたに与えた青草と同じように、私はこれらすべてをあなたがたに与えた。4:ただ、肉はその命である血と一緒に食べてはならない。

[3] それゆえにアメリカにおけるprochoiceとprolife の論争が成り立つ。なぜならば、絶対性の主張は排他的であり、それゆえに、絶対と相対との二項対立の構造が成り立つからである。

[4] 前掲書『現代思想2019年11月号』154頁方162頁に掲載

[5] 同上、161頁から162頁を参照の事

[6] このような輪廻転生からの解脱が仏教における救済であり、その救済が一部の修行者の個人的禁欲生活の結果としてその修行者個人に帰結するのが上座部仏教(小乗仏教)であり、救済を広く民衆にまで及ぶものとしたのが大乗仏教である。

[7] 同上、155頁を参照の事。

[8] コリントの信徒への手紙一7章7節から9節、「7:私としては、皆が私のようであってほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているので、人によって生き方が違います。8:独身の男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。9:しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。

[9] 前掲書『現代の思想2019年11月』、165頁。

[10] 桑原直己「初期修道制における『独住』と『共住』の問題について」『哲学・思想論集・31号』、『哲学・思想論集』編集委員会 編、1982年、

[11] 前掲書『現代の思想2019年11月』、167頁。この場合の仏教的来世思考というのは、原始仏教的な輪廻からの解脱思想というよりも地獄-極楽の人間対立的構造における浄土宗的救済信仰における来世思考。

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