KDK神学会発表「エラスムスのキリスト教ヒューマニズムにおける人間観」

KDK神学会発表「エラスムスのキリスト教ヒューマニズムにおける人間観」
発表者:濱和弘
2020年2月20日
日本基督教団マラナ・タ教会にて

自己紹介
 初めまして、本日の発表をさせていただきます濱と申します。私自身について短く自己紹介をさせていただきますと、私は1985年4月生まれで現在61歳、この4月で62歳になります。

 生まれは愛媛県宇和島市ですが、育ったところは山口県山口市、私自身のアイデンティティとしては山口県人・長州人です。キリスト教徒の関わりは、高校3年の時に友人に誘われて統一協会に出入りするようになったことがきっかけです。
 その当時、私の実家が食堂をしていまして、そこにアルバイトに来られている方のお姉さんがクリスチャンで、その方が私のことを耳にして訪問してくださったことがきっかけで教会にも行くようになり、結果としていわゆるキリスト教会で洗礼を受けクリスチャンになった次第です。

 その後、大学に入り状況、卒業して就職。9年ばかり一般企業で働き、結婚をし、子供も与えられてから献身、東京聖書学院を卒業後、日本ホーリネス教団で、牧師としての原木をはじめ現在に至っているという感じです。

 聖書学院卒業後はルーテル学院大で10年ぐらい聴講でルター関係の学びをさせていただき、その後、立教大学大学院、アジア神学大学院で主にエラスムスの研究をしてきました。そういったわけで、今日は「エラスムスのキリスト教ヒューマニズムにおける人間観」と言うタイトルで発表させていただきます。

 今日は研究発表なので、どのよう学的履歴を申し上げますと、明治大学経営学部を卒教師ましたが、この時に卒論「終身雇用制」でした。また東京聖書学院では卒論「キリスト者の意思決定の根拠」を書きました。修士は立教大学院 修論「エラスムスにおける霊の完全性ーエンキリディオンにみる人間論的人間観と三元論的人間観をとおして」を書き、アジア神学大学院では、D.min.論文「エラスムスの神学思想における人間形成-Enchiridiom militis Christiにおける人間論と聖書解釈、およびサクラメント理解を通して」を書かせていただきました。著作としては、牧会学博士論文の『「エラスムスの神学思想における人間形成-Enchiridiom militis Christiにおける人間論と聖書解釈、およびサクラメント理解を通して」』と『人生のすべての物語を新しくーシェルターの神学から傘の神学へ』や雑誌『舟の右側』に2016年から17年にかけて連載しました『自明なことを問う』等があり、論文としては立教大学の院生による論集DELEKに掲載された「エラスムスの『キリスト者兵士必携』における金と富の問題」「エラスムス『キリスト者兵士必携』における性の問題」、また研究発表としてN.T.ライトと公共性研究会において発表させていただいた「エラスムスにおける公共性の問題」などがあります。

 そこで本題のエラスムスですが、画面の肖像画は、エラスムスの肖像画の中で私が最も好きなものです。非常に理知的な感じがにじみ出た肖像画ですが、果たしてエラスムスとはいったいどのような人物だったのか。

 国立博物館に所蔵され、国の受容文化財に指定されているエラスムスの木像があります。この木造は1600年(慶弔5年)に豊後の国(現在の大分県)漂着したオランダの商船デ・リーフデ号の船尾にあったもので、複製が栃木県の佐野市郷土博物館にもございますが、このデ・リーフデ号の船尾エラスムスの木像があったかというと、このデ・リーフデ号はもともとはエラスムス号という名前であったためであるようです。

 このように、船の名前にまでなるのですから、エラスムスはそれなりに名を馳せた人物であったと言えます。実際、エラスムスには、ヒューマニストの王者ですとか、16世紀はエラスムスの時代といった称号で呼ばれるぐらいですので、世界史的な人物であったといえます。

 しかし、現代においてはエラスムスと言う人物がどのような人物であるかはあまり知られていません。名前も知らないという人も多く、知っていてもせいぜい『痴愚礼賛』の著者程度と言った感じではないかと思います。
 またキリスト教史的には、世界最初の新約聖書のギリシャ語校訂本(Novum Instrumentum)の作成したり、ルターと自由意志論争を展開するなど、こちらでも極めて重要な人物だと言えます。「宗教改革はエラスムスが卵を産み、ルターがこれを孵した」」と言う言葉は、聞いたことがある方もおられるのではないかと思います。

 このエラスムスの思想を一言で言い表すとすればそれはキリストの哲学(philosophia Christi)という言葉になるかと思いますが、今日は、その「キリストの哲学」を中心に話を進めてまいりたいと思います。

 エラスムスは1469年に生まれています。66年と言う説もありますが、この時代には戸籍と言うものがありませんから、よほどの立場のある過程に生まれ人でなければ、何年に生まれたかということは定かではなく、1469年という年数もエラスムスが、9歳の時にディベンダーの聖レイブヌス教会付属学校に入学したということから逆算してのものです。
 このように、エラスムスの幼少期については、あまり多くのことが語られていません。その一つの原因として考えられるのは、エラスムスが司祭の子であったということがあると思われます。カトリック教会における司祭というのは、基本的に修道司祭ですので結婚は禁じられています。ですから、本来は司祭の子供と言う存在はいないはずなのですが、しかし、現実にはエラスムスのような立場の子は、少なからずいたようです。

 たとえば教皇アレキサンデル6世には、複数の子供いたようです。しかし、カトリックの神学者カレン・アームストロングが「主要な宗教のなかで、セックスを嫌悪し恐怖するのはキリスト教だけであった 」と言い、「キリスト教は、セックスを嫌悪し不法なものとした 」というように、司祭に子供がいるということは、本来あるべきことではありません。ですから、エラスムスが祭司の子として生まれたことは、エラスムスの生涯に何らかの傷を残した者と思われます。

 エラスムスの伝記を書いたホイジンガは「エラスムスにはルターのような宗教的危機の経験がなかった」と言いますが、エラスムス自身は、宗教的危機の経験以上に、自分の出生に存在論的な危機の経験を感じていたように思われます。1524年にエラスムスが書いた自身がありますが、それの自伝事実とは異なって脚色されたものであり、この文書からもエラスムス自身が、自分の出生のいきさつにこだわりを持っていたとことが窺われます。
 それしてそれは、エラスムスが自分と言う存在の存在論的危機感を感じつつある中でエラスムスの神学思想が形成されたのではないかと思われるのです。

 そこでエラスムスの前半期に戻りますが、ここで今日の発表に関わってくる年代といいますと、まずは1500年の第一回英国訪問です。この第一回英国訪問で、エラスムスは彼の生涯の盟友であるT.モアやJ.コレットと出会います。T.モアやJ.コレットは、この当時の英国ヒューマニズムの草分け的存在ですが、エラスムスは彼らから強く影響を受けることになります。
 そして、1501年と1503年です。この時期、エラスムスはエラスムスの人間論を知る重要な手掛かりとなる書『キリスト者兵士必携(enchiridion militis Christi)』の著作出版にあたります。またこの時期にオリゲネスの「創世記」「諸原理」の写本を借りることができ、オリゲネス研究に没頭した時期でもあります。そのオリゲネス研究は先ほどの『キリスト者兵士必携』にも反省されています。
そして、1516年。エラスムスの業績の中でも、金字塔とも言える、世界で初めてのギリシャ語校訂本Novium Instrumentumが出版されます。Novium Instrumentumとは、新しい道具と言う意味ですが、校訂されたギリシャ語本文とその横にエラスムスがそのギリシャ語に基づいて訳したラテン語訳が書かれた聖書です。当時は聖書の出版は教皇庁の許可が必要でしたので、聖書とは言わず、聖書を理解するための道具なのだというニュアンスで出版されました。

 これらの著作を含んで、エラスムは数多くの著作、手紙等を残していますが、その中で邦訳されているのは、大体このようなものです。その中で赤字のものは、エラスムスの人間観を理解するために重要な資料となる文献です。
 そこで、これらの著作を生み出すエラスムスの思想的背景ですが、ここのある、近代的敬虔とルネッサンス・ヒューマニズム、そして、先ほど申し上げたオリゲネスを挙げることができます。
 近代的敬虔というのは、14世紀から15世紀に西ヨーロッパを席巻した信仰運動で、その大元はエック・ハルトまで遡ることができるが、人間の自由意思に基づいて修徳的生活をするという道徳的傾向をもち、信仰を内面生活に留めて置くというだけでなく、外的に現れ出る者とすることを目指すものだと言えます。そしてその集大成が、有名なトマス・アケンピスの『キリストの倣いて』であり、エラスムスもこの影響をた受けています。

 また、エラスムスはヒューマニストの王者と言われていますが、ヒューマニズム的に言うならば、アグリコラに代表される非常にキリスト教的生き方を追求する北方ヒューマニズムの流れにありますが、その人間観においては、イタリア・ルネッサンスのプラトンアカデミーに属するピコ・デラ・ミランドラやフィッチ―のに近く、とりわけ、ピコ・デラ・ミランドラとは類似性が見られます。
 しかし、エラスムスとプラトンアカデミーとの直接的なつながりは見られず、その影響は英国ヒューマニズムを介してのものと思われます。というのも、エラスムスの盟友のJ.コレットはイタリア留学の経験もありフィッチ―のと手紙のやり取りがあったようですし、T.モアはピコ・デラ・ミランドラの伝記をかいていますので、彼らを介して間接的に影響を受けていると考えられます。

 そして、オリゲネスですが、先ほども申しましたように1500年の第一回英国訪問から帰ってきたエラスムスは、しばらくオリゲネス研究に没頭します。そして、それ以後、特に彼の著書『キリスト者兵士必携』では、オリゲネスを称賛し、しばしばその名前が出てきます。
 このような思想的背景のもとに熟成された肝心かなめのエラスムスのキリスト教ヒューマニズムです。では、そのエラスムスのキリスト教ヒューマニズムとはどのようなものか。
実はヒューマニズムと言う言葉自体は、19世紀初頭と比較的近代になって、使われ始めた言葉で、その始まりはドイツの教育者でフリードリッヒ・インマヌエル・ニュートハンマーという人の著した『当世の教育教授理論における博愛主義とフマニスムスの対立』と言う本です。
ニートハンマーは、古典教育をフマニスムス(humanismus)と呼びました。そしてこのフマニスムスという言葉の英語読みがヒューマニズムなのですが、そもそもこのフマニスムスと言う語は、古代ローマにおいて自由五学芸(文法、修辞学、歴史、詩、道徳哲学)をStudio Humanitatis と呼び、古典の研究家をumanistaと呼んだことに由来します。ですから、15世紀16世紀のフマニスムスは、古代ギリシャおよび古代ローマの古典の学びそれを研究する態度を指すものだと言えます。
 ニュートハンマーはその当時のドイツの教育現場が自然科学の知識を教える教育中心なことに対して、人間形成を目指す教育を主眼とすべきだという教養主義の視点から、ヒューマニズムを捉えました。すなわち、ヒューマニズムを「教育を通して教養を身につけ、それによって、それによって人間が生得的にもっている能力を開花させ、理想的な人間像を形成しようとする考え方。教え、学ぶ事による人間本性の陶冶の手段と考えたわけです。

 しかし、14世紀15世紀のStudio Humanitatisもっと狭い、限定的な意味で古代ギリシャ・ローマの古典を通して古代ギリシャ・ローマ世界の中に見られる人間の理想像、あるいは世界を見出し、その人間像や世界を産み出した古代ギリシャ人、古代ローマ人の文章を学びそれを模範とし模倣することで教養として身につけ、それによって人間が生得的にもっている能力を開花させ、理想的な人間像を形成しようとする考え方でした。


 また、オスカー・クリステーラーが指摘するように、14世紀、15世紀のフマニスタには、人間形成という目的ではなく、また哲学的思想を持たず、ただ文章の壮麗さをまなび、それをもって宮廷書記官などの立身出世の手段としようと者もいました。それは、自由学芸の中で中心的なものである修辞学が、本来は自分の思想を説得力を持って伝えるための雄弁を学ぶ語りの学であったのが、壮麗な文書を書くという書く技術となり、それに伴い職業的ヒューマニストが現れるようになってきたためです。
それでもなお、ニュートハンマー以降のルネッサンス史や宗教改革史等に14世紀、15世紀、16世紀を研究する研究者の多くは、この時代の人文学者たちにニュートハンマーが造りだしたヒューマニズムという概念を用い続けてきました。そこには、修辞学の祖であるイソクラテスや、哲学の祖ソクラテスやプラトン以来、ギリシャ・ローマの伝統の中に、修辞学や哲学といった人文学の教育を行うことが善き人間形成を養い、完全な人間性を造り出すというパイディアと言う理念をヒューマニズム(人文主義)の根底に見え居たからだと思います。そこには、教育史的な視点からの人間理解(人間観)が背後にあったと思われます。

 そこで、エラスムスのキリスト教ヒューマニズムですが、エラスムスは若きひから古典に深い関心を持っていました。ですが、若き日のエラスムスの古典に関する関心は、文学的な関心が中心であり、その意味ではキリスト教ヒューマニズムとは言えないものであったと言えます。
 そのエラスムスがキリスト教ヒューマニストとしてヒューマニストの王者と呼ばれるまでになったのは、先にも申しましたように1499年から1500年にかけての第一回英国訪問にて、J・コレットやT・モア(今ここにある肖像画がモアの者ですが、そのモア)との出会いが重要な転機となっています。

 エラスムスは、第一回英国本文以前から古典に親しんでいました。ですから、第一回英国本文以前からフマニスタであったと言えます。しかし、第一回英国訪問以来、エラスムスのフマニスタとしての態度が明らかに変わります。それは、第一回英国訪問以前にエラスムスが古典擁護のために書いた『反蛮族論』と第一回英国訪問直後に書いた『キリスト者兵士必携』を比べると一目瞭然です。
 エラスムスが『反蛮族論』を書いた1495年頃は、キリスト教会では古典研究に重要性を置かない風潮がありました。そこでエラスムスは古典研究を擁護するために『反蛮族論』を書いたのですが、その論旨は、古典研究はキリスト教の教えを学ぶのに有益であるということです。
 そしえこのキリスト教の教えというのは、ヒエロニムスでありアウグスティヌスであり、キプリアヌスであり、とくに、アウグスティヌスの「キリスト教の教え」が題材として取り上げられています。つまり、エラスムスが『反蛮族論』でキリスト教の教えと言っているのは教父たちに教えのことなのです。しかし、そこにはまだオリゲネスは出てきません。それは、西方教会の伝統ではオリゲネスの教説は異端とされていることを考えるとある意味自然なことかもしれません。
 日本のエラスムス研究の第一人者である木ノ脇悦郎先生は、この『反蛮族論』について
次のように言っています。

『反蛮族論』における古典をキリスト教の正しい教えの理解のために用いようとするエラスムスの態度は、アウグスティヌスのDe Doctrina Christianaの第一巻にあるfrui-utiという二重の概念の構造を受け継いだものであるという。すなわち、キリスト教の正しい教えこそがわれわれの享受すべきもの(frui:実)であり、古典はそのために利用されるべきもの(uti:使用)であるというのである。

同時に、
  
   1488年に書き始められたAnti barbarorvmは当初は純粋に古典擁護のためだけのものであった可能性がある。しかし、1520年に出版するに際しては、聖書解釈を中心に仕事をするようになって自分のもとしたアウグスティヌスのfrui-uti概念を土台として、それを書き直したものであろう、

1488年というのは、『反蛮族論』は、一度大きく書き帰られており、1495年のものは平叙文の一部校正であったものが、1495年では一部が対話文形式で、二部が平叙文形式で書かれているものに改定され、内容も大きく変わったためです。しかし1488年版も1495年版もその目的には大きく違っていません。しかし、それが1520年に出版される際には、「聖書解釈を中心に仕事をするようになって自分のものとしたアウグスティヌスのfrui-uti概念を土台として、それを書き直したものであろう」と言うのです。ここで重要なのは「聖書解釈を中心に仕事をするようになって自分のものとした」ということです。

 そこで、『キリスト者兵士必携(エンキリディオン)』でエラスムスは古典をどのようにいっているかというと、古典は神の言葉である聖書を聖書解釈を中心に仕事をするようになって自分のものとした理解するのに非常に有益であり、聖書を理解する準備として大変役立つと言っているのです。
 また、古典研究もふくめて、全てかキリストに関係していなければ無益だというのです。
つまり、『反蛮族論』では、古典研究は教父たちが伝えてきた教えを理解するのに有用なのだと言って擁護していたエラスムスが、その教父たちの先の聖書の理解のために、そしてキリストと言うお方を理解するために、有益に用いられるということであり、逆に言えば、聖書と関係づけられない教え、あるいはキリストとかかわりを持たないような古典研究は、意味をなさないということです。
 そのエラスムスの主張は、教会の伝統や教会で伝えられてきた教えも、聖書によって相対化され、聖書によって検証されるということであり、いわば聖書主義的な視点が1503年のエラスムスに既にあったということです。ですから、ヒエロニムスもアウグスティヌスもキプリアヌスも相対化される。そこにオリゲネスの写本に触れ、オリゲネスに触れる。すると、オリゲネスがもっとも聖書に準拠していると受け止められ、それが『キリスト者兵士必携』でオリゲネスを「優れた聖書解釈者」として称賛し、その影響を見ることが着るようになったのではないかという道筋か理解できます。

 ところで、エラスムスの思想的背景には近代的敬虔があると申しました。そしえ、その近代的敬虔は、信仰が外的生き方に顕われてくることをもとめます。ですから、エラスムスにとって、聖書が教えることがら、それはキリストに関係づけられるものですが、それが外的な生活に現れることが大切になります。当然それは、キリスト教倫理的・道徳的なキリスト教徒の生き方といった色彩を帯びてきます。そのキリスト教徒の生き方をいかに生きるかといたことが「キリストの哲学」と言うものなのです。

 この「キリストの哲学」と言う言葉は、1519年のエラスムスのギリシャ語校訂本である
Novium Instrumentumの序文にあらわれてきますが、要は、キリスト者はキリストを模範とし、キリストに倣って生きるべきである。なざならば、キリストこそが人間の原型、つまり完全な神の像であり、そしてその完全な神の像であるキリストの生き方は、福音書のイエス・キリスト様の中に現れ出ているというのです。
 このイエス・キリスト様に倣って生きる生き方が、「キリストの哲学」であるとエラスムスは言うのです。そして、その「キリストの哲学」を具体的にどう実践するかと言うことを主題に書かれたキリスト者の生き方の手引書『キリスト者兵士必携』(エンキリディオン)なのです。

 そこで、『キリスト者兵士必携』に見るエラスムスの人間観なのですが、この『キリスト者兵士必携』は、もともとはエラスムスの友人であるバットが、彼の友人の夫人の夫が宮廷生活に入り浸っているので夫の行状を正して欲しいと言っているから、何か書いてやってくれと頼まれて書いたものだと言われています
 したがって、『キリストや兵士必携』はもともと個人的な関係の中で書かれたものですが、宮廷生活にふけって行状の悪い夫を正すためと言う目的は、当然、正しい在り方を示すと言う方向性に向かいますから、そこには「キリストの哲学」がにじみ出てくる。
そのようなわけで、アウエルやルンメルといったエラスムス研究家は「エンキリディオンを知っている人は、エラスムスを知っている」(A. Auer)とか「『キリスト者兵士必携』はエラスムスが『キリストの哲学(philosophia Christi)』あるいは“最高の哲学”と呼ぶものの重要な源泉である」(E. Rummel)と言うふうにエラスムスの中心思想が著された書として『キリスト者兵士必携』を評価するのです。

 そこで、そのエラスムスの中心的思想の「キリストの哲学」ですが、その「キリストの哲学」について、エラスムス自身がこういっています。

   非常に本性にかなっている事は、容易にすべての人の心に入ってくるものです。ところで、自分自身の再生への招き、また良く創られた本性への更新へと招く以外に、キリストの哲学は何かあるのでしょうか。さらにまた、キリストほど決定的に、かつ有効にこれを伝えたものはだれもいないとはいえ、その教えと調和するものを異教徒の書物の中に,たくさん発見することが出来ます。

 「非常に本性にかなって」というのは、人間を人間ならしめる人間の本質です。そして「キリストの哲学」は、人間が人間本性へと更新されつつ、神の創造の原初に与えられた人間本性、つまり神の像を完成させるように私たちを導くものであるというのです。

  つまり、「キリストの哲学」がめざすものは、我々キリスト者が如何に善く生きるために哲学はその知恵を我々に与えてくれるが、その知恵はキリストの生き方の中にあられているのでキリストの倣って生きるものなろうということです。
このことを、ルネッサンスの標語を持て言うならば、Facere quod in se est と言うことになります。Facere quod in se estと言うラテン語は、「あなたの内にあるところのものをなせ」というものですが、この言葉を啓蒙主義的に捉える捉え方とキリスト教的ヒューマニズムで捉える捉え方が違ってきます。
このFacere quod in se estということは、人間がより善い者になれる、人間は善くなることができるという人間の善性に対する信頼が根拠となっています。
そのより善い者になることに対して、啓蒙主義は、Facere quod in se estを「あなたが望むあなた成りなりさい」と受け止めます。人間が望むものは、人間にとって悪いものではありません。自分に悪いものを人は求めないからです。そしてそのあなたが望むあなたになるために、知性をはたらかせこの世界の様々なことを明らかし、何をすればよいかを教えてくれる。だから人間はより善く生きることができると考えます。

 一方キリスト教ヒューマニズムは、人間が人間本性である神が与えた神の像を完成することで善くなる、より善く生きる者となることができると考えます。東方神学的に言えば神の肖あるいは神の似像になると言うことです。これは未だに実現していませんが、ただ一人、イエス・キリストにおいて表されている。だからイエス・キリストを模範にして生きると言うことを目指すだのというのです。「キリストの哲学」の視点はここにあります。
 このようなキリスト教ヒューマニズムの視点に立って、エラスムスは『キリスト者兵士必携』を書いているのです。
 エラスムスの『キリスト者兵士必携は』全部で39のタイトルによって項目分けされています。それを仮に章として分けるならば39章になりますが、邦訳の訳者金子晴勇先生は、この39章は大きく2部に分けられると言っておられます。そして、第1部は1章から8章までであり、キリスト教戦士の自己認識が人間学的基礎から論じられ、第2部は9章から39章までであって、キリスト教戦士の実践上の教則が22箇条挙げられているというのです。

 たしかに、金子先生の言われるような区分もあると思いますが、私は、この『キリスト者刑死必携』をよく読んでいきますと、そこにはある種の組織神学的構造があるように思います。すなわち、

1 世界観 -この世と人間-(2章)
2 聖書論(3章)
3 人間論(4章~8章)
4 キリスト論-キリストと人間の関係-(9章から15章)
5キリスト教倫理(16章~32章)
6 罪論

という構造です。このような『キリスト者兵士必携』の神学的構造は、この世と人間の関係を戦闘として捉え、まず、その戦いの中での武器としての聖書について論じます。
その上で、その先頭に中に置かれた人間とは何かを延べ、その人間の模範であるキリストについて語る。
これは、キリストが人として人間の模範であり、同時にと神の心像の完全に一致するお方であるお方であり、それゆえに、キリストは神と人の間に立つ神人両性を備えた存在だからです。キリストがそのようなお方であるからこそ、人と模範となり、かつ礼拝の対象になる。

そしてその模範となるキリストに倣って生きることが、霊の完成という人間形成の道だからです。その人間形成の道が救いの完成の道であると言えます。そのためにいかに生きるかという倫理が倫理が語られ、最後に、そのような霊の完全性に至る道を阻害する、具体的な罪の問題が語られている。非常によくできた論理的構造であると言えます、
 エラスムスは、このような霊の完全性に至る道を歩むことができる人間の姿を、描き出しますが、そこには、創造論的人間観とも言えるエラスムスの基本的な人間観があります。エラスムスは次のように言います。

   すなわち、私たちがいかに偉大な形成者により造られているか、いかに卓越した状況に置かれているか、いかに巨額な代価で贖いだされたか、いかに大きな浄福に召されているか、を。また、人間は、ただそのために神が現世のすばらしい機構を作成したもうた、高貴な生物であり、天使たちと同市民、神の子、不死性の相続人、キリストのからだ、教会の構成員であり、私たちのからだは聖霊の宮であり(1コリ3・16、6・19)、私たちの精神は神性の模像にして同時にその至聖所である。

この言葉は、まさしく神の創造の業の中に置かれている人間の尊厳性を詠い上げる言葉だと言えます

このような、神の創造の業に立つ創造論的な人間観に立つ人間を、エラスムスはさらのプラトンを用いながらパウロの霊と肉との関係に類比させながら2元論的に表現します。
 エラスムスの言葉を見てみましょう。

   エラスムスは、「人間は二つあるいは三つのひじょうに相違した部分から合成された、ある種の驚くべき動物です。つまり一種の神性のごとき魂と、あたかもものいわぬ獣からできています」といって、神性のごとき魂と獣のごとき肉という表現で2元論的に表現しますが、これは、後にパウロの表現に倣って、霊と肉という表現に改められていきます。この場合の肉とは、人間の肉体を指すのみならず、その身体に結びついて宿る人間の情念をも含みます。それを図示すると
  
 このときエラスムスの非常に優れた点は、霊も肉も神が創造されたものであるから、両者ともに良いものであると認めている点です。私たちは霊は良いももので、肉、あるいは肉欲は悪いものだというあの使徒ヨハネが蛇蝎のごとく嫌ったグノーシス的捉え方をしてしまいますが、エラスムスはそうではない。両者とも良いものだというのです。そのうえで、霊と肉との関係が問題だという。

 エラスムスの言葉を見てみましょう。

   もしあなたに身体があたえられていなかったなら、あなたは神のような存在であったでしょうし、もし精神が与えられていなかったとしたら、あなたは獣であったことでしょう。相互にかくも相違せる二つの本性をかの創造者は至福な調和へと結び合わせたのでした。だが平和の敵である蛇は不幸な不和へとふたたび分裂させたので、猛烈な激痛なしに別れることもできないし、絶えざる戦闘なしに共同的に生きることもできません。

エラスムスが言う、霊と肉との至福な調和関係とは

霊が、肉の上位にあって、肉を支配し、霊の制御の下に肉が置かれている状況です。霊には神の像が刻み込まれていますから、天的なものを求め上と上昇的に善き者へと人間を高めていく、これが、至福な調和にある関係です。それに対して、不幸な不和へ分裂した関係というのは、

 肉が霊の上位にあって霊を支配し、肉の制御の下に霊が置かれてしまっている状態です。肉には人間の情念や欲が結びついていますので、この世的なものへと人間を導き、神を求めるのではなく、自分の情念や肉に従って生きさせます。神の思いではなく肉の欲するところに従って生きていくという人間を下降的に悪しき者としていく関係です。
では、このような至福の調和にある関係と不幸な不和へ分裂した関係とはどのように起こるのでしょうか。

 エラスムスは、それをオリゲネスを引き合いに出しながら三原論的人間観をもって説明します。
 オリゲネス的三原論的人間観とは天に向かう霊と地に属する肉とその中間にあってどちらの道を選択するかを決める、中間的存在の魂です。人間の中立無記の中間的状況をみるのは、プラトンアカデミーのピコ・デラ・ミランドラの『人間の尊厳』に関する演説にも見られる見方で、こういったところにもイタリア・ルネッサンスヒューマニズムの影響を垣間見られるところですが、それを図示するとこのようになります。

 この人間の霊と肉の中間にあって、どちらに結びつくかは人間の自由な意志の自由な選択によります。ですから、人間の主体性というのは、この自由意志の自由な選択に見ることができると言えるでしょう。
そこで、このエラスムスの人間理解を整理してみますと、エラスムスは人間存在を観察すると、プラトンが言うように、霊と肉との二元論で捉えることができる。しかもそれはパウロの入っている霊と肉に対応する。まさにプラトンの思想は聖書の人間観の備えとして用いられるのです。
そしてその二元論において、霊は理性と情念に分裂している。理性は目に見えない霊に属し人間を善い者にしようとしている。それに対して情念は目に見える肉に属し、人間を獣のごときこの世的な存在にしようとしている、その霊と肉との関係において、霊が肉を支配する本来的関係が逆転し倒錯している状態が罪だというのです。

 このように、エラスムスは存在論的には人間を二元論で表現しますが、実際の人間の行動を観察すると人間は善いことも悪いこともする。この現実を説明する時に、霊肉魂の三軒論で説明するのです。そして、霊に従って生きるか、肉に従って生きるかは中立向きな存在である魂がどちらか着くかできまる。そこに人間の意志の働きを見るのです。そしえ、善を目指す生き方を生きるようにと勧めるのです。

このようなエラスムスの人間観を概略的に総括しますとこうなります。

すなわち人間の本性は、神の創造の業として善なるものである。その善なる人間を善なる人間ならしめるのは人間本性である霊である。だから、人間はこの人間本性の完成、すなわち霊の完全性に至らせるために努力する必要がある。
 この人間本性である霊の完全性はイエス・キリストにある。それ故に、キリストの生涯を観想しキリストに倣って生きることが大切なのだ

というのが、エラスムスのキリスト教ヒューマニズムも人間観の概略ですが、それをいわゆる教育学的視点から見た、古代ギリシャ・ローマ世界からみたヒューマにスティックな人間観と対比すると、おおよそ次のようになります。
 いわゆるヒューマニズム的発想は、より善い人間性を持つ人間が、より優れた行為や言説を生み出すので、古典にあるそのような言説を文献を通し教育によって学び、より善い人間本性を身に着けさせる。それによってより善い人間となり、より善い行為言説が生み出されるというものです。
 
それに対して、エラスムスのキリスト教的ヒューマニズムは、完全な人間の霊の完全性は人となられたイエス・キリストの内になり、イエス・キリストの行為や言動となって現れている。だから生をを通じてイエス・キリストに倣うという敬虔さをもって、その行為や言説を倣い行う。そうすることによって人間の内側が霊の完全性に導かれていくというものです。
 このような、エラスムスのキリスト教ヒューマニズムをルターの宗教改革的人間観と比較したいと思います。というのも、エラスムスは、ルターの信仰義認論を決して否定はしませんでした。むしろ評価していました。また、ウォルムスの国会でルターが断罪されようとする中、ルターの命を奪ってはならないと皇帝に進言したのもエラスムスです。

 しかし、そのエラスムスがルターの自由意志に関する考え方には意義を唱えるのです。
 エラスムスとルターの地涌意志論争の時系列的流れは、次のようなものです。1520年にルターは、それまでカトリック教会がルターに対して行った批判に対して『主張』なる書を表し一つ一つに反論したのですが、その中の第39項において、全てのことは必然であると主張しました。このルターの第39項のみを取り上げて、エラスムスが1524年に『評論自由意志』を表し、ルターを批判しのです。

確かにエラスムスはルターに対する批判をしましたが、エラスムス自身は、積極的にルターと論争する意思はありませんでした。しかし、周囲からの強い要請、特に親交のあった英国王ヘンリー8世からの要請を断りきれずに、本書をもってルターに対する批判するに至ったものです。

 このエラスムスからの批判に対してルターが、反論したのが1525年の『奴隷意志論』です。そして、そのルターの反論に対して、エラスムスが再反論したのがhyperasperitesです。このエラスムスの再反論にルターは、自分が語るべきことは『奴隷意志論』で語りつくしたとしても最早は応答することなく、両者の自由意志論争は終わりを告げます。
 この自由意志論争の中でルターは『奴隷意志論』の中でエラスムスだけが、「ほかの誰にもまして、事態そのものを、つまり訴訟の核心をついた」といい、「ただ君ひとりが事態の要を見た人であり、首を求めた人である」と述べています。つまり、人間が自由な意志をもって、自分の行為を選択できるか否かという問題が、ルターの宗教改革の根幹にある問題意識であったというのです。
 実際、ルターは、宗教改革の発端となった1917年の95ヶ条の提題を発表する一か月前に、「スコラ神学反駁」という97ヶ条の提題を表しています。この「スコラ神学反駁」は、当時に神学的風潮であった唯名論に対する反論でしたが、唯名論は人間の意志を重んじる立場であり、ルターはそこを非難したのです。その「スコラ神学反駁」には次のように記されています。

   それゆえに悪い木となった人間は、悪を意志し行なうよりほかのことをなしえない、ということは真である」。

これはマタイによる福音書7章18節の言葉に立脚した主張ですが、要は、人間は悪しか成し得ない罪びとであり、善を選択できない罪の奴隷であると言っているわけでして、1524年の『奴隷意志論』の主張が、すでに1517年の「スコラ神学反駁」でなされているわけで、これがルターの宗教改革の核心にある真の主張だとルター入っているわけです。
 ですから、ルターの人間観に対して、ルーテル学院の鈴木浩教授は、ルターの心の風景にある人間の姿は、「神の前に唯一人たつ罪びとの私」であると言います。

 以上のことを踏まえて、ルターの人間観をまとめると
1人間は罪の奴隷となっている罪びとである。
2.人間は人の目には(coram humnibus)道徳的な善を行うことはできる。
3.しかし、その人の善も神の前には(coram Dio)人間を救うにふさわしい善とはなら
ない。
4. 人間の罪びととしての本質は変わらない。
5. 人間は、自分の努力では自分を救えない。      
6. 人間は神の恵みによってのみ救われる存在である。
7.神の恵みは、神の救いの業として働く

といった感じになります。このような人間観は贖罪論的人間観とも言うべきな人間観であり、このような贖罪論的人間観からイエス・キリスト様の十字架の出来事を解釈する時、
キリストの十字架は罪の贖いの行為として映ります。

これを、先ほどのエラスムスの人間観と比較するとこのようになります。エラスムスの人間観は
1.人間は神に造られた尊厳ある存在
2.人間は神と人との前に善を行うことができる。
3.人間がなす善き行いは、神の似像の完成という創造の完成に向かう救いの歩みにお ける善である。
4.人間はより善いものになる(変わる)ことができる
5.人間は神の救いの業に参与する。
6.人間の救いにとって神の恵みが第一要件である。
7.神の恵みは、神の創造の業として働く
          
このような人間観は創造論的人間形成的人間観と呼べるものです。そして、この創造論的人間観から見えるイエス・キリスト様の十字架は神への従順の模範であり、それはグスタフ・アウレンが提示した悪魔の支配に勝利する勝利者キリストに繋がるものだと言えます。
神への従順は、悪魔への決別であり、エラスムスは『キリスト者兵士必携』で悪魔との闘いの中にある勝利のキリストの姿を見ているからです。

まとめとしての問題的提起

 私たちの国は、神戸大震災と東日本大震災という大きな出来事を経験しました。そこにある現実は、それまでの私たちの福音理解では語りつくせない現実ではないでしょうか。しかし、福音は、そのような現実の中でも力があるはずです。力があると信じたい。だとすれば、語りつくせない福音理解を超えた福音理解が求められているのではないでしょうか。
 語りつくせない福音理解は、救いを罪の赦しとして捉える贖罪論的人間観に立つ人間理解の上に立てられた福音理解でした。だとすれば、その福音理解を超えた福音理解を模索するとき、エラスムスのキリスト教ヒューマニズムに基づく福音理解は、何らかの意味を持ってくるのではないかと思います。

 そのことを述べて私の発表の終わりとさせていただきたいと思います。ご成長ありがとうございました。

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