奈良の絵日記 東大寺

2010年9月11日



前回の「賢くない中年」からの続きです。



東京に比べ、奈良の暑さは横綱級だ。
参った。
と嘆きつつも、宿に荷物を預けて東大寺に向った。

こんなもの、以前は無かったけどなぁ。
ま、いいか。


それにしても人が多い。
青春18きっぷは昨日で終わっているのだが、あいにくの週末だったことを失念していた。
よって大仏さんはパス、老体をエンコラショと二月堂まで運んだ。

大仏殿を見下ろす。
スケッチ5分。
彩色3分。
邪魔にならぬよう、
速攻で仕上げた。

同じく二月堂。
欄干にもたれ、
こちらも素早く仕上げる。


老夫婦が、句帳とボールペンを持ち、作句をしていた。
時折、歳時記を取り出し、何やら季語の確認をしている。
微笑ましい光景だった。

三月堂とも呼ばれる法華堂。
ここが一番好きな場所。

大仏殿の裏手に向って進み、
振り返ってまたスケッチ。
彩色が面倒なので、
今度は墨絵風に描いてみた。
ここは二番目に好きな場所。
自宅近くにあれば毎日歩きたい。

四天王像で知られる戒壇院は、撮影もスケッチもご法度なので、おとなしく従った。
今日は二百二十日。
二百十日と並ぶ厄日だったことを思い出し、ここで一句できた。

大寺や四天厄日の邪鬼を踏む

奈良への挨拶句ではないが、こんなものだろう。
ここで思い出すのは芭蕉の句だ。

奈良七重七堂伽藍八重桜  芭蕉

現在も人口に膾炙されて続けている、奈良を訪れた際の、芭蕉の典型的な挨拶句だが、ただ韻を踏んでいるだけで、どこが面白く味わい深いのか、まったく理解できない。
もし芭蕉の句でなければ、誰にも見向きもされない、素人俳句だろう。
芭蕉ブランド、恐るべし。
素人が生意気言って、申し訳ありませんっ。
それでも芭蕉は俳聖だけあって、私が一番に尊敬する俳人です。
その証拠に、

菊の香や奈良には古き仏達  芭蕉

こんな名句もある。

かつて私も、奈良への挨拶句を作った。

若葉して点茶畏き奈良の僧

芭蕉と並んで拙句を載せるのは、はなはだ気分がよろしい。
お粗末さま。

会津八一は、戒壇院を出て、分かりやすい歌を作った。

毘楼博叉まゆねよせたるまなざしを
まなこにみつつあきののをゆく

手抜きしちゃいかんと反省。
ちゃんと彩色してみた。
でも水不足で上手くぼかせない。


正倉院経由で転害門に出る。

東大寺最古の建造物、転害門。

山科から平城坂を越える京街道(R369)に面しているので、排気ガスをあびて哀れだ。
かといって、元からある由緒あるこの門を移築するわけにもいかないだろう。

転害門から西へ延びる道が、かつての平城京の南一条大路であり、有名な佐保路だ。何の変哲もない平凡な通りだが、不退寺、法華寺、海龍王寺へと続くこの道は、かつて歩いた道。

あれは、お水取りを見に行った三月のことだったと記憶している。
悩みばかり抱え、奈良の仏や伽藍に救済を求めた旅だった。

当時の、意味不明の散文が残っている。

無病息災を願う 春のお水取り
底冷えの松林を宿へと戻る小道
旅の夜更けは 永久の闇と紛う 手探りの刻

声明に導かれ 行く末を投げ出すか
今、天に憧憬
地に寂寥の嘆き

転害門からの佐保路
法蓮格子の家並み
郷愁は いつの日も感傷を伴う荒野
孤独にまみれた魂の救済や如何に

不遇の身を嘆いては旅に明け
またひとつ歳を重ねつつ
旅に暮れる

平城山を越えて 辰巳からの北風
擦れ合う朧駕籠 鬼火の青光り
夢幻の悪霊
あとひと息の昇天

痩せた佐保川
行きつ戻りつの法蓮橋
流れに澱むうたかた その無常を胸に
旅の途上にて
道に迷う弥生三月

無念の合掌
ひたすらの仏心を示せ
今はただ祈れ
今はただ 外界から心を閉ざせ

何のこっちゃ、ああ恥ずかしい。ただ意味もなく言葉や観念を弄ぶ、典型的な、愚かな青二才であった。(汗)

夕食の時間も近いので、奈良女子大の横を抜け、宿へ向かった。
そういえば、ずいぶん昔に、ここの女子大生を主人公にしたミステリーを書いたことがあった。

内容は、卑弥呼が持っていたとされる「親魏倭王」の金印を、考古学専攻の彼女が卒業してから、桜井市の教育委員会文化財保護課に勤務し、箸墓近くの巻向遺蹟の発掘場所から偶然に発掘、発見したことから始まる。
巻向一帯が、邪馬台国である強力な証拠になる。それを恋人と共に世に発表しようとしたところ、付近一帯を大規模工業団地にしようと目論む大手ゼネコンや大物政治家たちの知るところとなり、金印をめぐってさまざまな争奪戦が繰り広げられる、というものだった。
追いつ追われつの攻防や、二人が命までも狙われる逃亡劇もあり、危機が迫ると、なぜか、姿を見せない第二の勢力に助けられる。結末は、大手製鉄工場の溶鉱炉に落としてしまい、古代史最大の謎が溶けて消える。
ここで、大どんでん返しがある。彼女は、鑑定してもらうために恩師である教授に金印を託していたのだが、溶鉱炉に消えた金印は、実はレプリカで、恩師が本物を保管していた。
第二の勢力とは、教授や各界の著名人を中心とした、歴史研究集団だったというストーリーだ。(これは初案で、実際はかなり複雑な内容になっている)まだネットが普及する十年以上も前のことで、新聞の切り抜きや、参考書籍を蒐集していた。
ところが、文化財保護を目的とした遺跡に関する法律や、特別天然史跡の指定解除方法などの、土地関係の法律を当たっているうちに、調べなければならないことが膨らみ過ぎ、原稿用紙、約350枚だけを残して道半ばで見事に挫折した。
元々の根拠は、巻向一帯が邪馬台国(畿内説)だと考える、私の個人的見解からのアイデアだった。
詳細はnoteに既出の「おバカさん」を参照されたし。

ということで、長くなったので本日はおしまい。
宿の蒲団でゆっくりと体を休め、翌日に備えた。

続きます。


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