牧水記念館



千本松原は、沼津市の狩野川河口から田子の浦まで、約10kmに渡って続いている。
その東端に「牧水記念館」がある。
若山牧水晩年の八年間に、ここ千本松原へ居を定め、旅に明け暮れた果ての、終の棲家になった。

岐阜や長崎にも「千本松原」と称する海岸はあるが、一般的には静岡の松並木を指すことが多いようだ。
ほぼ旧東海道に沿う風光明媚な白砂青松は日本人好みであり、駿河湾を代表する景勝地になっている。

伐採計画が持ち上がった大正末期には、牧水自らが先頭に立ち、反対運動を行なった。
今でいうところの、民間の立場からの環境保護運動の走りでもあった。
酒好きの歌人、というイメージばかりが先行するが、自然を愛し、後世まで景観を残すべしの心情は、当時としてはかなり進歩的なことだったはずだ。


日に三度來り來飽かぬ松原の松のすがたの靜かなるかも

この記念館がそのまま当時の居住跡かは分からないが、閑静な住宅が点在する土地にあって、今でも世俗からの距離を保っている。

入館料200円也。
誰も訪れる人のいない館内は静謐で清々しく、この静寂だけは牧水の時代から変わっていないのだろう。

晩年というには若過ぎる四十三年間の生涯の途中には、血気盛んな二十代に日清日露の戦いもあった。
兵役についた記録もないようだし、私の勉強不足で知識もないので、どうしていたのかは知らない。
知らないながら、今はただ牧水の歌を鑑賞し、心の琴線を震わすのみである。

館内に「撮影禁止」の断りがないので、遠慮なく写真を撮らせて頂いた。

当時の牧水宅を再現したジオラマがある。
簡素な造りの庭を前面に置き、建物はすべて南面していることが分かる。
この温暖な土地に落ち着くまでの牧水の旅の空を想う時、すぐに浮かぶのが、二十二歳の時に生まれた次の歌だ。

幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく


牧水の随筆に「沼津千本松原」という小品がある。
青空文庫にも採録されていないので、少し面倒な作業だが、手元にある岩波文庫「みなかみ紀行」の中から、一部を転記する。



初め私がほんの一、二年間休養するつもりでの転地先をこの沼津に選んだのは、その前年伊豆の土肥温泉に渡ろうとして沼津に一泊し端なくこの松原の一端を見出し、それに心を惹かれてのことであった。で、沼津に移って来てからは折あらばこの松原にわけ入って逍遥した。そして終に昨年、その松原の松の陰の土地を選み、自分の住家を建てた。それこそ松原の直の陰で、隣接する家とてもなく、いまだに門に人力車を乗りつくる事も出来ぬという不便の地点の一軒家である。無論松に親しむ心が先立ったのであったが、一つはこの冬の西風を避けたいためでもあった。そしてこの二つの願いは願いどおりに叶うたのである。此処で私は今まで何ということなしに始終追われ通しに追われて来たような慌しい生活を棄て、心静かに自分の思うままの歩みを歩むというような朝夕に入ろうとしたのであった。



この後に、



 ところが、昨今、聞くに耐えぬ忌まわしい風説を聞くことになった。曰く静岡県は何とかの財を獲んがために沼津千本松原の一部を伐採すべしというのである。



と続く。

手つかずの自然をこよなく愛し、旅に明け暮れた歌人の怒りが伝わる作品である。
牧水の環境云々の想いをここで述べるつもりはないので終わりにするが、歌と酒ばかりではない牧水の一端を知る貴重な文章だ。



旅人は牧水の長男で、後にこの記念館の館長も務めた人。
息子を詠んだ歌も残っている。

香貫山いただきに來て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり

富士を愛し、沼津を愛し、酒を愛し、妻喜志子を愛し、旅を愛し、そして長男を旅人と名付けた。

香貫山とは、まだ仮住まいだった借家からほど近い、狩野川を挟んだ河口近くの左岸にある丘のような小高い山で、牧水は長男旅人を連れて何度も登り、雄大な富士や広大な駿河湾を眺めた場所。
この借家暮らしが、そのまま、千本松原に隣接する土地の購入へと作用したのは想像に難くない。
(障子に見える松林は嵌め込み写真)



むねあげの祝ひのもちをわがまくや千本松原の松の数ほど



鳥打帽と洋傘、黒マントに股引と脚絆、草鞋履きの旅姿は、牧水の得意とする支度だった。
沼津移住を決めた頃は、収入を得るために各地を回り、ひたすら揮毫や歌会の開催に明け暮れた。
あまりにもその金銭絡みのイメージが強いのだが、若い頃は千曲川に沿い、西の川上部落から十文字峠を越えて東の秩父に至るなど、なかば登山の範疇のような自由な旅を愛した。

「木枯紀行」には、次の一文がある。



 十文字峠は信州・武州・上州に跨がる山で、此処より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだという。その間、村はもとより、一軒の人家すらないという。暫く渓に沿うて歩いた。


十文字峠は今でも原生林が密集する鬱蒼とした山の中だが、上州暮坂峠にしろ、似たような場所だったろうと想像する。



上野の草津の湯より
沢渡の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂峠


牧水の歌には、空想の世界で浮遊する書斎歌人とは違った力強さや、俳諧でいうところの嘱目に満ちている。


盃や徳利など、牧水愛用の品々が並ぶ。
自嘲とも取れる歌も思い出す。

なほ耐ふるわれの身體をつらぬく骨もとけよと酒をむさぼる


われ二十六歳歌をつくりて飯に代ふ世にもわびしきなりわひをする



白玉の齒にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

一般に牧水の歌といえばこの一首だろう。
他には前出の「幾山河」と、

白鳥はかなしからずや空の靑海のあをにも染まずただよふ


この三首が、一般教養や常識として人口に膾炙されている。
とりあえず、「私は牧水を知っています」と安心していられる便利な三首だ。
後は「ああ、みなかみ紀行が有名だね」と添えれば完璧。
今の社会では、これだけで「牧水好きの教養人」と見て貰える。


白秋の名が見えるが、牧水の友人には啄木もいて、その臨終にも立ち会っている。
啄木とは同世代で、歌人としてのみならず、同じ時代を生きた同士としての感慨もあったのだろう。
啄木を追悼する歌も詠んでいる。



四月十三日午前九時、石川啄木君死す

初夏の曇りの庭に櫻咲き居りおとろへはてて君死ににけり

午前九時やや晴れそむるはつ夏のくもれる朝に眼を瞑ぢてけり


良い歌とは思わないが、牧水の人脈や人間関係の相関図の一端が知れる。
大雑把な括りだが、白秋も啄木も明星派の歌人だから、意味のない事を承知で分類すれば、牧水も自然至上主義歌人になる。

白秋と啄木の名が出ると、鉄幹や吉井勇、木下杢太郎との関わりで、鴎外の観潮楼歌会も想像されるが、私は短歌に関しては門外漢なので、歌壇のその辺りの関係の有無は分からない。
ただ、牧水が自然を慈しんだ歌人であることに間違いはない。

牧水は第二歌集「濁り歌へる」の自序に記している。



 私は思ってゐる。人生は旅である。我等は忽然として無窮より生まれ、忽然として無窮の奥に往つてしまふ。その間の一歩一歩の歩みは實にその時のみの一歩で、一度往いては再びかへらない。私は私の歌を以て私の旅の一歩一歩のひびきであると思ひなしてゐる。云ひ換へれば私の歌はその時々の私の生命の破片である。

松籟に耳を傾けて来し方の旅を回想しつつ、命を縮める酒を酌む牧水を想像しながら千本松原を後にした。

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